キングダムの中では第31代秦王・キングダム嬴政(えいせい)は、中華統一に向け自ら先陣に立つ、こともあるような情熱的で言葉にも美しさがありとても魅力的な登場人物です
信や王賁(おうほん)と蒙恬(もうてん)など若い武将や古参の武将たちと協力しながら大きな秦という国をこれから作っていく物語が描かれていくとは思いますが。
アニメや漫画とは違う実際の第31代秦王・キングダムの嬴政(えいせい)とはどのような人物で何を成し遂げた人物なの解説していきたいと思います
ますます、キングダムが面白くなること間違いなしです。
是非最後までご覧ください。
キングダムに登場する第31代秦王・キングダムの嬴政(えいせい)とは?
人徳あふれる人物として描かれている政。しかし史実では中華統一後、暴政をひく?
紀元前259年、趙のことである邯鄲(かんたん)で、後に第30代秦王・荘襄王(そうじょうおう)となる子楚と、彼の妻である趙姫の間に生まれた趙政。
紀元前246年、荘襄王(そうじょうおう)の死に伴って、第31代秦王に即位した彼は、秦王室の姓、嬴(えい)に改姓して嬴政(えいせい)となります。
政が秦王に即位するまでの経緯は、史実もキングダムないでも大差ありません。
キングダムという漫画の中では常に、臣下をいたわる仁君として描かれており、まさにカリスマ的な王です。
しかし、史実の政に関してはそれだけではない、もう少し違う一面が書かれています。
史実のキングダムの政の人物像とは?
政が秦王に即位する前年、紀元前245年から始まるキングダムの物語は、時折過去のエピソードを交えながらも、様々な戦争を乗り越え、政が立てた「中華一」という志は全く揺れ動いておりません。
政が中華統一を目指しているのは、中華全土を自らの支配下置きたいという我欲のためではなく
「中華を統一し、国家間の争いをなくし全土の民はかつてない国の広がりをみる」
マンガ キングダム3巻
と発言していることにもわかるように、彼は中華全土の民衆のため、それを実現しようとしています。
だからこそ山界の王楊端和(ようたんわ)は、王座奪還を目指す政と同盟を結びました。
また、第28代秦王である昭王と同様、中華統一を目指す政を真の王と認めたからこそ、王騎(おうき)は再び戦場に戻ってくる決意をしました。
キングダムの政は、人の心をつかむ力も長けている仁徳にあふれた王なのです。
政の史記に書かれている性格とは?
キングダムは司馬遷が書いた歴史書「史記」を主な資料として描かれています。
それでは「史記」の中で、政はどのような人物として描かれているのでしょうか。
「史記」には、政と同時代に生きた人物、兵法書『尉繚子』(うつりょうし)の著書とされる尉繚(うつりょう)が、政のもとを去ろうとする様子が書かれています。
彼がさろうとする理由は、政の人格に問題があるため、尉繚(うつりょう)は政に関して
「あまり恩をかんじることがなく、鬼畜の心をもっている」
兵法書『尉繚子』(うつりょうし)
「目的を達成すると、人を粗末にする」
兵法書『尉繚子』(うつりょうし)
「秦王が中華統一を達成したらすべてのものは彼の奴隷となる」
兵法書『尉繚子』(うつりょうし)
「付き合ってははいけない」
兵法書『尉繚子』(うつりょうし)
などとまるで、仁君とは思えない発言をしていました。
史記におけるこの尉繚(うつりょう)の言葉を信用するなら、キングダムの中で仁君として描かれている政は、完全に作りものになってしまいます。
中華統一を果たした政は暴君になってしまうのか?
史記もよれば、秦は紀元前230年に韓(かん)、紀元前228年に趙(ちょう)、紀元前225年に魏(ぎ)、223年に楚(そ)、紀元前222年に燕(えん)、紀元前221年に斉(せい)と合併し中華統一を達成しています。
不可能と言われたこの大偉業を成し遂げた政は、称号を王から皇帝の改め、始皇帝を名乗ることで威厳を示しました。
しかし、その後に彼が行った政治は、政の悪印象をさらに強めるものでした。
始皇帝になった政は、中華全土に郡県制をを実施し、文字や通貨も統一しました。
それは中央による支配体制を、より強固にするためのためでした。(個人的には流通や商業、それぞれ場所の指標(統一された基準)の仕方が中華全土になるためにナイスな政策だとおもいますが・・・)
紀元前213年になると、思想弾圧のため医薬、占術、農業以外の民間書物を焼き捨てました。(焚書)
さらにその翌年、始皇帝に対して批判的な態度をとる儒学者たち数百人を、咸陽で生き埋めにして殺害(抗儒)。
これらの制度改革は旧勢力の反感を買うことになります。
個人的には政が目指した法治国家(法が最上)とする近代国家には、礼や義や仁などの抽象的なものではなく、「何が悪くて何を一番大切に何を指針として国民に生きていってほしいか」
という事などを明確にしたい国家の意思表示ともうけとれるかなと思います。(殺さなくてもいいかなとはおもいますが・・・)
反感を持たれてしまった事業と農民反乱
体外面では、北方の匈奴に対する備えのため、長城を大幅に増築。
また南方にも攻め入り、ベトナムの北部までを秦の支配下に入れています。
国力の増強は果たしたものの、これらの土木事業や外征は民衆に大きな負担をかけるため、彼らに不満を持たせる原因にもなりました。
それはやがて、史上初の農民反乱である陳勝・呉広の乱を招き、秦の滅亡へと繋がります。
民衆のため、中華統一を目指すという政のメインストーリーのキングダム。
しかし、「史記」における政は、臣下や民衆を苦しめる暴君、絶対的な権力者として君臨するのです。
その姿はまさしく、独裁者とも言えるでしょう。
これまで「キングダム」は、ほぼ「史記」に基づき描かれているので、今後も「史記」から大きく外れることはないかと考えられます。
秦が中華を統一する紀元前221年以降の世界が「キングダム」で描かれるとすれば、暴君と化した政の姿を描くことも、避けては通れないかもしれません。
暴君としての政!?その姿は真実か?それとも…
紀元前210年、始皇帝が死亡すると各地で反乱が勃発。
それにより秦は中華統一からわずか15年、紀元前206年に滅亡してしまいます。
その後に中華統一を果たしたのは、劉邦により建国された漢(前漢)であり、司馬遷の著書「史記」はこの前漢時代、紀元前91年頃に完成した歴史書です。
「史記」に描かれている政の姿は、とても仁君と呼ぶことはできないものでした。
しかしそこに異論がないわけではありません。
中華民族にとって精神文化の支柱になっている儒教には、易姓革命という基本的観念があります。
それは
「天命により天下を治めている天子(君主)が徳が備わっていなければ、天命は徳を備えた別の者に移る」
というもの。
この考え方は、王朝の交代を正当化する根拠とも言えるものです。
つまりその全ての君主は、以前の君主の暴政を終わらせた、徳を備えた素晴らしい人物とも解釈できるでしょう。
この易姓革命に即して考えると、秦の君主・始皇帝に悪評があればあるほど、前漢が成立する意義も高まるわけです。
「史記」は、前漢時代に書かれた歴史書です。
前王朝である秦の始皇帝の暴政を、必要以上に誇張して書いても不思議ではありません。
周が東遷した紀元前770年から、晋が三分して韓・魏・趙が独立した紀元前403年までの春秋時代、その後に、秦が中華統一を果たした紀元前221年までの戦国時代は、動乱の時代ともいえるものでした。
500年以上にもわたって各地で戦乱が続いていたのです。
それを平定したのは中華統一を成し遂げた政の功績といっても過言ではなく、暴君という政の姿を描く史記においても、その成果はちゃんと評価されています。
政が史記に書かれている通りの暴君であったならば、このような功績をあげることはできなかったのではないでしょうか。
また、李信に対する政の行動も、暴君とは程遠いものでした。
紀元前224年、強国である楚を打倒するために、李信は副将の蒙恬(もうてん)とともに20万の兵を率いて出兵しましたが、惨敗を喫してしまいます。
それを受けた政は王翦(おうせん)に60万の兵を預け出兵させ、紀元前223年、その打倒に成功します。
政が
「始皇帝は楽しむように処刑をするため、すべての者はそれを恐れて、彼に忠誠を尽くすしかない」
という史記の記述どおりの人物であれば、惨敗してしまった李信を簡単に粛清してしまっているでしょう。
しかし李信が粛清されることはありませんでした。
その後も李信は政の重臣であり続け、紀元前222年には王賁(おうほん)とともに燕(えん)、紀元前221年には王賁(おうほん)、蒙恬(もうてん)とともに斉(せい)を打倒しました。
秦が中華を統一する過程で、李信は大きな役割を果たしているのです。
つまり史記においては政も臣下を大切にする面をもっていたことになります。
史記に書かれている政の姿をその後の人々、とくに儒教を弾圧されて、政を悪のカリスマとしてでっち上げたい人は少なからずいたと思われます。
そんな次の時代の漢や儒教寄りの人々が捏造したと考えれば、政はキングダムで描かれている政のように、仁君のままであり続けることができるでしょう。
少なくともキングダムの政ファンの私としては、そうであってほしいと思います。
キングダム政の出生の謎…彼は呂不韋の子供なのか…?
政に関する史記の記述には、易姓革命(えきせいかくめい)にある大幅な作為的に悪者にしようしている箇所だけでなく、矛盾を思わせる箇所があります。
政は、第30代秦王・荘襄王(そうじょうおう)となる子楚と、政の王位継承に伴って太后となる子楚の妻・趙姫の間に生まれました。
それに関しては史記にも
「秦の始皇帝は荘襄王の子である」
と書かれています。
しかし、史記の「呂不韋列伝」には、政の出生について、
「呂不韋は邯鄲で趙姫を妾(めかけ)としており、彼女が妊娠していることもし知っていた」
呂不韋列伝
「呂不韋は趙姫を子楚に献上した」
呂不韋列伝
「趙姫は妊娠していることを隠して、後に政を生んだ」と書かれています。
呂不韋列伝
つまり政は、史記の「秦始皇本紀」では子楚と趙姫の間に生まれた子供と書いていながら、同じ史記の「呂不韋列伝」では呂不韋と趙姫の間に生まれた子供と書かれています。
明らかに違う史記の中で矛盾が生じています。
さらに、政の実父を呂不韋としているものは、「呂不韋列伝」以外にも存在しています。
後漢時代に書かれた歴史書「漢書」も、政の実父に関して「呂不韋列伝」と同様に書いてありました。
また、「秦始皇帝本紀」においても、政の政を呂としている部分があるなど、政の生まれに関する疑惑を疑わせる史料は複数存在しています。
キングダムでも呂不韋は自身の出世のため、趙姫を子楚に献上され、趙姫は呂不韋の出世の道具にされてしまったのです。
政が秦王になってからも、丞相となった呂不韋と太后となった趙姫は、男子禁制の後宮(こうきゅう)で密会を重ねていました。
呂不韋と趙姫の間に生まれた子供だったとしても不思議ではありません。
しかし、政を呂不韋の子供とする「呂不韋列伝」などに書かれていることは易姓革命即して、あえて政の名誉を傷つけることが目的とも考えられます。
また、歴史書「戦国策」には、子楚と呂不韋について記述されていながら、政を呂不韋の子供とする記述はありませんでした。
そのため、政の実の父親を呂不韋とすることに、否定的な意見が多いのも事実です。
政の生まれについては決定的な資料が残されていないことから、今後も判明することはないでしょう。
ただし、政に実の父親が子楚ではなく呂不韋であり、政を不義な子として描くのは、漫画においてはとてもドラマチックで面白い展開でもあるので、あえて疑いという扱いで残しておくのも一つの楽しみ方ではないでしょうか。
政の法治国家と対立した儒教とは何?
わたくしの個人的な意見として政が弾圧し、漢の時代の初期に暴君として捏造されたと書きましたが、それの大きな原因となる儒教との対立。
※上記『中華統一を果たした政は暴君になってしまうのか?』で前述した
紀元前213年になると、思想弾圧のため医薬、占術、農業以外の民間書物を焼き捨てました。(焚書)
さらにその翌年、始皇帝に対して批判的な態度をとる儒学者たち数百人を、咸陽で生き埋めにして殺害(抗儒)。
これらの儒教とはどんな考えか、どんな思想家を少し触れておきたいと思います。
儒教とはご存じかもしれませんが、孔子によって説かれた思想です。
孔子
古代中国において、戦乱の世である春秋戦国時代末期に儒学の祖孔子が現れ、仁や礼を説いた
仁に至る道としての義や忠
孔子はブッタと同じで、超自然の力や死後の世界などについての議論は好みませんでした。
彼が行ったのは、当時、形骸化(けいがいか)していた礼法などに新たな合理的解釈を与えて生き返らせることでした。
例えば、古くから行われていた「三年の喪」について、三年間は親が庇護(ひご)しなければ乳児は育たないので、その恩に報いるため三年間、喪に服すべきということです。
その彼の考えの中心は、形式的な行動としての『礼』、道徳の人の中身としての『仁』でありました。
仁については孔子は、私欲という欲望に克って礼に戻り、広く民を愛するといった規範をあたえ、それ以上に重要視したのは、いかにして仁までにたどり着くかという問題でした。
私利や私欲、自負や頑固さを捨てること、親子、兄弟、友人、師弟、君臣など、人間お互いのあいだに自然に存在する親愛の情をもつこと、自分の立場に応じた責任と義務を実行すること(義)、自分が嫌なことは相手に行わないという気持ち「恕」、自分で自分を欺かない心「忠」などが仁の行い方であり、仁にたどりつくまでの道だといいます。
礼による国家統治を説く
礼は宗教儀礼や社会的儀礼だが、単なる形式的な手続きではないといいます。
挨拶のやり取りや、礼の実践は、各自の自発性と相手との信頼関係のやり取りによってはじめて可能になります。
その結果、直接ぶつかり合うことなく互いに関わり合う共同性に場が開かれます。
孔子は国家や天下の統治においても「徳治」すなわち為政者徳による統治を説きました。
国家を治めるにも、恫喝や刑罰による強制ではなく、礼による支配こそ有効なのだと説きました。
原作ではまだまだ先の話になりますが、嬴政(えいせい)と秦の将軍たちは最終的に六国を平定し、中華を一つにしました。
そして嬴政(えいせい)は皇帝という地位に上り、最初の皇帝として始皇帝と呼ばれるようになりました。
始皇帝となった嬴政(えいせい)がどのような中国をつくろうとしたのか解説していきます。
まず始皇帝は強力な中央集権国家を目指しました。
楚や趙といった国は廃止されて細かく細分化され、最終的には48の郡県となりました。
これを郡県制といいます。
秦の次に中国を制した漢の劉邦は、秦の郡県制を失敗と考えたのでしょうか。
多くの功臣や王子たちを各地の王に添えましたが結局王たちが反乱をおこしたりして百年もたたないうちに郡県制に戻りました。
この点で言えば李斯(りし)の見立ては正しかったのでしょう。
【キングダム】中国の様々なものが政によって統一されていった
中央政権と並行して、経済も統制されていきました。
通貨や秤の基準なども統一され、また馬車の車輪の幅も統一されていきました。
馬車の車輪といっても現代では何とも・・・
とういう感じだとは思いますが、電車が走るレールの幅をイメージしていただければわかりやすいかなと。
戦国時代であれば敵国の軍が侵入してきた際に少しでも進軍速度を落としたかったので、あえて幅を変えて走りにくくしました。
中華が統一された以上そういったをそれよりも生産性といった便利さをとることに力を注げるように統一していきました。
こうしたことは政のひとつの中華をつくるといった理念によってつくられたといっていいでしょう。
しかし、同時に、多くの富豪たちが咸陽(かんよう)にほぼ強制的に集められました。
金を多く持つものは地域で反乱を目論むとも考えられたのでしょう。
また、始皇帝は土木工事も行いました。
富豪たちははじめ多くに人々が咸陽(かんよう)にやってきたため、咸陽(かんよう)はどんどん拡大されていきました。
同時にそれだけのものが住む咸陽(かんよう)の中で皇帝が一番であるということが示すために阿房宮(あぼうきゅう)という巨大な宮殿が立てられました。
もっとも阿房宮の運命は長くはありませんでした。
秦が思いのほか早く滅んでしまったためです。
また、この時代に北方の異民族の中から匈奴は拡大化してきました。
匈奴の侵攻に備えるため建築されたのが万里の長城です。
長城といってもこの時代の万里の長城は今に残る立派な長城ではありませんでした。
馬が飛び越えられないような土塁のような場所も多かったと言われています。
また長城を築くという発想自体も斬新であったわけではなく、すでに北の国燕(えん)などでは、長城をすでに築き上げていたといわれています。
秦はそうした各国の作っていた長城を補修し、空白地帯には途切れる場所がないように、新しいものを作ってつなげていました。
【キングダム】嬴政(えいせい)始皇帝は天下を巡遊し、儀式を行い、碑を残す
天下統一を果たした始皇帝は天下巡遊を行いました。
広い中華を見て回ったのです。
巡遊は最初のうちは秦国内で、その後秦を出て遥か中国を合計4度の渡って巡りました。
その最後の巡遊中に病死しました。
なぜ始皇帝となった政は中国全土の大きな土地を巡ったのでしょうか。
最初の秦国内で巡遊を行ったのは天下統一という事業を祖先や他の関係者に報告したのではないかという可能性があります。
原作でも秦のために命を落としている者がたくさんいます。
そうした人たちの霊に語りかけたかったのかもしれません。
その後、天下を巡ったのは秦と皇帝の力を見せたかったのではないかと思います。
最初に巡遊で、始皇帝は泰山で封禅という儀式を行いました。
封禅というのは帝王が天と地に自らの即位と天下安寧であるということを報告する儀式であり、周王朝のころは頻繁に行われていましたが、始皇帝が即位したころにはながらく行われていませんでした。
政には
「自分はひとつの中国を完成させた」
という自負があったと思います。
そのため封禅を行うことは重要な意味がありました。
最も長らく行われていなかったためやり方が分からず専門家に聞いても答えが様々だったため我流で行われたそうです。
この封禅が代表例だと思われますが、とにかく中国が一つになったことを示すためにそのシンボルとしての工程が中国を巡る必要があったと考えたのでしょう。
儀式をおこなうのはもちろん、中華統一という事業を石碑等の形で残すこともしました。
巡遊のために道路も整備され皇帝のために道も作られました。
こうした工程のための道を中国中に張り巡らせることも中国が一つになったことを示すためだったと考えられます。
【キングダム】嬴政(えいせい)始皇帝に迫る暗殺の危機?
このように壮大な中国を築き始めていた始皇帝の統治時代でしたが、暗い側面もありました。
まず始皇帝は皇帝時代に3度暗殺未遂にあっています。
暗殺をしようとした人物は高漸離(こう ぜんり)という人物で、彼は荊軻(けいか)の友人でした。
荊軻(けいか)の暗殺未遂失敗後、友人の仇として狙っていたのですが、捕まってしまいました。
ただ、高漸離(こう ぜんり)は筑という楽器の名人であったため、始皇帝はその才能を惜しみ、目を潰して筑の演奏をさせることにしました。
目が見えなければ暗殺はできないと考えていたのか・・・
ですが高漸離(こう ぜんり)
は諦めず、あるとき鉛を仕込んだ筑を始皇帝のいる方向に投げつけました。
もし頭に直撃していれば始皇帝も危なかったのですが、目に見えない悲しさか筑は外れてしましました。
怒った始皇帝は高漸離(こう ぜんり)を処刑するとともに、以降は秦以外のの出身者を身近に近づけないようになったと言われています。
更には巡遊中にも始皇帝は狙われてしまいました。
首謀者は秦に滅ぼされた韓の貴族であった張良(ちょうりょう)でした。
後の時代には劉邦の軍師として名を馳せることになる人物ですが、この時は亡国の貴族であり、始皇帝を仇としてつけ狙う青年でした。
とはいえ、自分で暗殺を行えるほど張良は武芸優れてはいませんでした。
後の大軍師らしく、彼は怪力の持ち主を味方にして、高所から巡遊中の始皇帝の車目がけて鉄槌を投げさせました。
重さ一二〇斤(約三〇キロ)といいますからまともに当たれば命はなかったことでしょう。
ただ、鉄槌は外れ、始皇帝は辛くも助かりました。
始皇帝は怒って徹底した捜索を行わせましたが張良はうまく逃げ、後に劉邦陣営に加わって秦への恨みを晴らすことになりました。
また、咸陽で夜間にお忍びで外出していた時にも賊に命を狙われたことがありました。
この時には護衛の奮闘もあって(ひょっとしたら李信もいた?)賊の取り押さえに成功しましたが、単なる盗賊であったのか、政治的な意図をもった暗殺未遂だったのか、背後関係を洗い出すことはできなかったようです。
一つの中国を目指した政でしたが、その実現は容易ではなかったようですね。
【キングダム】嬴政(えいせい)焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)で言論を弾圧
始皇帝時代の暗い側面のもう一つが焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)と呼ばれるものです。
元々始皇帝は韓非子をはじめとした法家の思想に馴染んでいました。
国家は法によって治められ信賞必罰をもって民衆を動かそうというものでした。
手柄を立てれば褒賞が与えられますし、失敗をすれば処罰されます。
みんな処罰されるよりは褒賞が欲しいはずなので頑張るはずだ
という考え方でした。
これに対して儒教の考え方は徳をもって治めようというものです。法と徳では、法は目に見えて
分かりやすいですが、徳は中々目には見えません。
法家は儒家のこうした分かりにくい部分を攻撃し、始皇帝もそうした考え方に賛成していました。
ただ、儒家は孔子の時代から続いている学問ですので、完全に排除するつもりはなかったようです。
それが儒家に対して一気に否定的になったのは、まず先ほど見た封禅の儀式のことがあります。
始皇帝は儒家の学者を呼んで封禅について尋ねたのですが、答えは全員違っていました。
聖人の学問と言われる儒教を修めていたのに儀式のことも分からないのか、と儒家に対してがっかりしたようです。
そして、始皇帝に対して不老不死を勧めた質の良くない儒家の学者が途中で逃げてしまい、しかも逃げた先で始皇帝の悪口を言ったりしたため、更に始皇帝を怒らせることになってしまいました。
始皇帝は儒家を数百人に渡って殺害し(坑儒)、民間人が所持していた書経や詩経、諸子百家の書物は破棄されてしまいました(焚書)。
以上動機もあるのですが、仁王を心がけようとしていた始皇帝(政)を知る者としては、この焚書坑儒はさすがにやりすぎだとも言えます。
政はどうしてここまでしたのでしょう?
分かりやすい動機を考えるならば、やはり政治的な対立でしょうか。
既に見てきたように始皇帝は法家を中心とした国家体制を考えていましたから、儒教側にとっては転覆すべき相手ということになります。
こうしたグループが秦と敵対する勢力…例えば呂不韋あたりと組んでいたとしたらどうでしょうか。
呂不韋は後に政との対立に敗れて自殺してしまいますが、残党が反秦の運動を繰り広げていたという可能性もありそうです。
儒教は聖人の学問ですから、ひょっとしたら誰か聖人を担ぎ上げて政と対立させようとしたのかも・・・。
【キングダム】嬴政(えいせい)そして・・・始皇帝の死
このように中国改造を目指していた始皇帝でしたが、広い中国を変えていくには莫大なエネルギーと膨大な年月を必要としました。
始皇帝もひとりの人間ですから永遠に活躍できるわけではありません。
このため、始皇帝は晩年不老不死に関心をもつようになりました。
この中には先ほどの焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)でも見たように質の悪い者が多く、始皇帝を騙して財を築こうというものがほとんどでした。
そうした中でも一番スケールが大きかったのは徐福(じょふく)という人物です。
彼は始皇帝に対して東方に不老不死の薬を求めることができるが、そこに行くには大勢の童子童女が必要であり、また多くの職人が必要だと説明しました。
話がうまかったのか、始皇帝はこれを信用し、言われた通りのものを徐福に与えました。
徐福は大勢の童子童女と職人を連れて東へと旅立ち、そのまま戻ってこなかったのです。
どこか未開の地にたどりつき、新しい国を作るつもりだったのかもしれません。
その新しい国というのが他ならぬ日本なのだという徐福伝説も日本の一部地域に残されています。
始皇帝は帰ってくるはずもない徐福や他の不老不死探究者を待っていましたが、絶対に自分が不老不死になれるという確信はなかったようで、早くから自分の墓を作らせていました。
更に巡遊中に体調を崩すと死期を悟るようになり、長男の扶蘇(ふそ)を後継者とするよう文書を作り、これを超高に預けました。
その間も始皇帝は巡遊を続けていましたが、最終的には沙丘というところで
病没しました。49歳でした。
しかしながら、始皇帝の死後、事態は彼が期待したようには推移しませんでした。
超高は自らが権力を掌握したいと考えており、そのためには有能な扶蘇(ふそ)が二世皇帝になってはまずいと考えました。
そこで趙高は李斯と組んで遺言を作り替えてしまいました。
また、始皇帝の死が早くに伝わると各所にな混乱が予想されるため、しばらく死んだことを隠していました。
ただ、死んだことを隠すといっても時期が夏であったため、始皇帝の死体は次第に腐っていきました。
このため、彼らは大量の魚を取りよせて魚の臭いで死体の臭いを誤魔化したそうです。
偉大な皇帝であった始皇帝ですが、その死は非常に寂しい悲しいものでした。