今回はキングダムの作中できっと重要でものすごいスケールで描かれることのなるであろう楚との戦いで、最終的に大勝利を収める王賁(おうほん)の父王翦(おうせん)大将軍と、その相手の楚とは?についてお話させていただきたいと思います。
王翦(おうせん)大将軍はどんな人物なのか?
楚との戦いでどんな活躍をしたのか
そしてその相手の超大国楚とはどのような国なのか
これらの内容を徹底解説いたします。
これを読んでいただければ、これからのキングダムがますます面白くなること間違いなしです。
是非最後までご覧ください。
キングダム王翦(おうせん)将軍とはどのような人物なのか?
キングダムの中ではミステリアスで、自身が王になるという野望を持っている?
といった強烈なキャラクターですが、史実ではどのような将軍だったのでしょうか。
史記によれば始皇帝の戦いに最も活躍したのは圧倒的に王翦(おうせん)
史記を見れば今後キングダムで活躍すると考えられるのは間違いなく王翦(おうせん)大将軍です。
「始皇本紀」、「白起王翦(おうせん)列伝」などによると嬴政(えいせい)は、紀元前236年趙への侵攻を命じます。
王翦(おうせん)は 鄴(ぎょう)周辺の9つの城と趙の閼与(あつよ)を攻め落とし、桓騎(かんき)、陽端和(ようたんわ)と合流して鄴(ぎょう)の安陽を攻め落とします。
ちなみにキングダムの中で王翦(おうせん)と李牧(りぼく)の激戦となった朱海平原の戦いですが史実では朱海平原という地名は存在しません。
そして李牧(りぼく)も参戦しておりません。
そしてその後は大将軍蒙驁(もうごう)将軍亡き後、王翦(おうせん)を大将軍に任命し、紀元前237年に桓騎(かんき)らと、戦国七雄との戦いに乗り出しました。
そしてその後は大将軍蒙驁(もうごう)将軍亡き後、王翦(おうせん)を大将軍に任命し、紀元前237年に桓騎(かんき)らと、戦国七雄との戦いに乗り出しました。
さらに王翦(おうせん)は、紀元前229年に再び大軍を率いて趙に攻め入りました。
陽端和(ようたんわ)、羌瘣(キョウカイ)李信(りしん)らと、李牧(りぼく)率いる趙軍との戦いです。
王翦(おうせん)は趙臣の郭開(かくかい)を買収し、再び攻撃を仕掛け邯鄲を陥落させ、趙を攻め滅ぼすことに成功します。
紀元前227年には、燕太子丹による暗殺事件をきっかけに、王翦(おうせん)は辛勝(しんしょう)という将軍とともに燕(えん)の攻略戦を始め、紀元前226年、王翦(おうせん)は燕の首都の薊(けい)城を陥落させました。
この時、李信が燕太子丹を討ち取り一躍将軍の座を得るとともに嬴政(えいせい)に気に入られました。
王翦(おうせん)は史記を見る限りは指揮能力の高さ、相手の心理も見事に攻略する天才将軍として活躍します。
キングダム王翦(おうせん)楚を大敗北させる!楚とは?
楚という超大国の繁栄とその成り立ち
昭襄王(しょうじょうおう)の時代に領土を拡大した秦は、戦国時代末期には最大の強国となっていました。
その秦の最大の敵と言えば、こちらも大国の楚という存在です。
楚なんてたいしたことねぇよと甘く見る主人公信に対して、軍師河了貂は、
「楚は超大国だ。国土は楚一国で六国を足し合わせたほど広大な国だ」
キングダム24巻
と信に説教しています。
楚は、戦国時代以前の春秋時代から力を蓄えてきた国です。
その領土は長江中流域を本拠地にし、紀元前5世紀には数々の敵を打ち破りその実力は中華全土にとどろきました。
中原の地で猛威を振るっていた越が衰えだすと、楚はさらに強力になりました。
紀元前329年には斉軍を徐州で追い詰め、同322年には魏軍を撃破します。
さらに越を圧倒しこれを滅ぼしました。
秦の外交政策は、楚と斉をなかを悪くさせることに力を注いだといわれています。
キングダムの中では、楚の春申君(しゅんしんくん)を総大将とする合従軍が函谷関(かんこくかん)迫ったとき、秦の宰相である 蔡沢(さいたく)が斉の王建王に対面を申し入れました。
王建王は
「岩茂将軍に鳥を飛ばせ!全軍引き返せ」
キングダム25巻
と家臣に命じます。
合従軍を抜けるようにと蔡沢(さいたく)の提案は受け入れられました。
楚を始めとする合従軍は、背後の斉という国が気になって、長期の戦争が不可能となりました。
戦国四君に数えられる楚の春申君とはどんな人物
作品ではイケメンで王子様で知的なビジュアルの春申君(しゅんしんくん)ですが、実は昭襄王の時代から活躍しているベテランの政治家です。
合従軍のの戦いの際にはいきなり登場してきて、今回の戦いの総大将を務めてすごい大物という感じで紹介されてましたね。
作中では(李牧と見た目年齢一緒ぐらいの顔つきでしたが(^^♪)
春申君(しゅんしんくん)は宰相と同じ程度の役職の令尹という役職でした。
春申君(しゅんしんくん)は、昭襄王(しょうじょうおう)のもとに人質として預けられていた楚の王子「完」を、国元に脱走させることに成功しています。
この完がのちの考烈王です。
当然ながらこの考烈王に厚い信頼を受けることになります。
大国の楚ですが、一時は王族などの権力争いなどで国力を低下させてしまいますが、春申君は20年以上の仕事の中で楚の国力を回復させます。
ついには合従軍を率いて合従軍を率いて函谷関を攻めることになるのですが、作中のエピソード通り、その戦いは失敗に終わってしまいます。
秦に敗北した春申君の失意は、相当のものだったと考えられるでしょう。
「もはや山陽一帯ごときではこの合従軍の溜飲は下がらぬ!次の標的はすでに決まっておるのだ」
キングダム33巻
と怒りの矛先を斉のむける春申君が描かれています。
そして春申君は斉をせめて一定の成果を得ることに成功はしましたが、楚の考烈王は秦との戦いに負けた春申君を許すことができませんでした。
その後春申君は、自分の子供を宿した女性を考烈王に送り込むといった愚かな画策をしてしまい、考烈王はこの女性を后とします。
しかし、女性の兄である李園は、真相を知る春申君を暗殺しています。
春申君の死後、楚にはまともに国政を司る人間はいませんでした。
こうして、大国楚は国を弱体化させ、滅亡のカウントダウンへと向かってしまうことになります。
キングダムの将軍信、楚の最強の武将?項燕に挑む
主人公信は、李信将軍がモデルとなっています。
李信は史料が少なく、謎のベールに包まれているため漫画でも今日れるなキャラクターとして描きやすかったのではないかと考えられます。
そんな李信ですが、決定的に敗北した将軍が、いることは分かっています。
楚の項燕大将軍です。
函谷関の攻めにおいて、蒙武(もうぶ)に討たれた汗明(かんめい)が討たれたことを知った考烈王は、
「これは楚の恥辱以外の何物でもない」
キングダム30巻
と怒りを表しました。
楚に亡命していた廉頗(れんぱ)にたいして、
「やはりこれは儂の出し惜しみが愚かであったという事かのぉ。廉頗よ」
キングダム30巻
とも言っています。
これに対して、廉頗は
「出し惜しみというなら大将軍項燕のほうであろう」
キングダム30巻
と答えているシーンがあります。
元趙三大天である廉頗は、遠慮してそういったのでしょうか。
廉頗は目立ちたがり屋で自尊心の高い武将ですから、遠慮は考えにくいというものがあります。
項燕の力を素直に認めていると考えられます。
現在のところ項燕はその名前以外は漫画内では登場していません。
しかし、作品の後半においては、重要な役割を果たす人物になると思われます。
なぜなら、史実上は項燕は李信を破った将軍になるからです。
秦が楚を大々的に攻略したのは、昭襄王時代に始まります。
キングダムの前の時代です。
すでにその頃には、秦の軍事力は楚を凌駕していました。
総大将となったのは名将白起(はくき)です。
紀元前278年には、首都は郢(えい)が陥落します。
やむなく陣に遷都し、その後は春申君のすすめでさらに寿春へ遷都しています。
白起に荒らされた楚の国は、食客3000人を抱えたという聡明な春申君(しゅんしんくん)によって多少復活しましたが、その後も秦の勢いはやまず、秦王政は、李信を総大将として楚に攻め込みます。
この時、李信の兵は20万もの大軍で、名将蒙恬(もうてん)李信の将として参戦しています。
李信は蒙恬(もうてん)と兵を二つに分け、どちらの軍も破竹の快進撃を重ねましたが、項燕(こうえん)は秦の二つの軍が合流するところを狙って、背後から奇襲をかけます。
連戦連勝で浮かれていた秦軍はさんざんにやられてしまい、7人の将が打ち取られるという大敗北を喫しました。
秦の軍勢20万はほぼ壊滅してしまったと伝えれていますから、どれだけひどい戦だったのか恐ろしい戦いでした。
キングダムで描かれること必須!項燕を打ち破る歴戦の将王翦(おうせん)
李信の敗北を受け、項燕に挑んだのが、その時は老将となっていた王翦(おうせん)です。
王翦(おうせん)は、
「60万の兵を預けてください」と秦王政に言いました。
政はこれを許し、王翦(おうせん)は砦に立てこもる持久戦を展開するといった戦いします。
項燕は王翦(おうせん)を挑発しますが、さすが歴戦六代将軍に匹敵するともいわれた天才の将王翦(おうせん)はその手には乗りません。
楚軍は攻撃をあきらめ、東方へ引き上げを開始しますが、この時を待っていた王翦(おうせん)は全軍に出撃命令を下します。
楚軍は総崩れとなり、楚王の負芻(ふすう)は捕らえられ、秦の完全勝利となりました。
キングダムの作中の王翦(おうせん)を思い浮かべると、あの天才李牧とも対等に、いやそれ以上に戦った王翦(おうせん)ですから、兵力の差もあるかもしれませんが、圧倒的であったと想像がつきます。
楚は、中国に周代・春秋時代・戦国時代にわたって存在した王国。現在の湖北省・湖南省を中心とした広い地域を領土とした。首都は郢と称したが、名前が同じだけで場所は何度か変わっている。
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