秦の六大将軍は秦の栄光の時代をつくった華々しい戦いの象徴的存在であります。
王騎に関しては、信が出会っていたことから描かれる場面が多いかと思いますが、その他の六大将軍は登場が少し描かれている程度です。
なので今回は六大将軍について解説していきたいと思います。
これを読んでいただければ、これからのキングダムがますます面白くなること間違いなしです。
是非最後までご覧ください。
【キングダム】軍事の天才白起(はくき)
長安での虐殺を悔いていた?
白起(はくき)は、秦の総大将として、政の曽祖父・昭王に仕えていた人物です。
史実において彼が登場したのが紀元前294年、左庶長(さしょちょう)最下級の将軍として兵を率いて韓の新城を攻めたという記録が残されています。
その翌年には再び韓を、そして魏を攻め、伊闕の戦い(いけつのたたかい)では24万もの首をあげ、楚に攻め入りその王都を陥落させています。
これを足掛かりに秦は楚を弱体化させていったといいます。
このように、おおまかな戦歴を見ただけでも彼が軍事の天才だったということがわかりますが、その中でも最も有名なのが、作中で何度も語られている
長平の戦いです。
韓の領土だった長平をめぐる趙との戦いの末、秦の副将・王騎(おうき)がついに敵将の趙括を討ち取ります。
対象を失った趙軍は降伏しますが、白起は食料の問題と反乱の可能性を危惧し、40万もの捕虜を生き埋めにしたというエピソードです。
その背筋が凍るような未曾有の大虐殺は中国史に残るものとして深く刻まれています。
しかし、秦の食料も乏しく大勢の捕虜を養うのは困難であったことや、反乱を起こされる可能性があったと考えるとやむを得ない決断だったとも言えます。
そして、この並外れた武功が、後に彼自身の悲劇へとつながっていきます。
当時、白起よりも高い地位にいた范雎(はんしょ)が彼の活躍に恐れ、軍の疲労を理由に邯鄲(かんたん)攻めをやめるように昭王に上奏し、軍を引き上げさせます。
その一年後昭王は再び邯鄲(かんたん)を攻める決断をしましたが、これに苦言を呈したのが白起でした。
「戦いには機があり、今はそのときではない」
という彼の予想通り、邯鄲(かんたん)は全く開城する気配を見せませんでした。
白起なら落とせるのではないかと考えた昭王は、彼に軍を率いるように命じますが、彼は病気を理由に動こうとしませんでした。
そのうえ、
「私の意見を聞かず、今のあり様はどうか」
と批判しているとの噂が昭王の耳に入り、ついに白起は自害を命じられてしまいます。
自害の直前、白起は
「自分には何の罪があるのか」
と自問し、
「自分は死ぬべきだ。長平の戦いで降伏兵40万を生き埋めにした。それだけで死罪に値する」
と嘆き、果てたとされています。
長平で虐殺を行ってから自害するまでの3年間、彼は罪悪感に苛まれ続けていたのかもしれません。
【キングダム】謎多き大将軍摎(きょう)
愛する王騎のために戦い父昭王の「戦神」の血を開花させるも志半ばで絶命
ちなみに摎(きょう)は女性だっと記述がないため男性だったとされています。
なので王騎とのエピソードはフィクションだったと考えられます。
秦はおろか中華全土にその名を轟かせた「六大将軍」の中で
「最も若かったが、その戦いの苛烈さは六将一だった」
キングダム第117話
と言い伝えられ、数々の武功を挙げた摎(きょう)。
謎とされていた素性は、王騎と龐煖(ほうけん)の馬陽の戦いでの戦いのさなか、昌文君(しょうぶんくん)から嬴政(えいせい)へ伝えられました。
摎(きょう)は実は女で、しかも昭王に実の娘でした。
生後すぐに王騎の屋敷に引き取られた摎(きょう)は、幼少のときに交わした
「城を百個とったら王騎様の妻にして下さい」
キングダム第164話
という約束を信じ武芸の達人へと成長しました。
しかし約束の達成直前に龐煖(ほうけん)の殺されてしまい、戦時に与えられる影響の大きさを考慮した王騎と昌文君(しょうぶんくん)によってその事実はひた隠しにされていたのです。
史実でも作中と同様、「六大将軍」のわりに極端に記述が少ない謎の武将。
史実でも、もしかしたら大きな謎が隠されているのかもしれません
【キングダム】「六将一の怪力」王齕(おうこつ)
無骨な大将軍で史実では王騎との「同一人物」説!?
作中では「六大将軍」に一人とされている王齕(おうこつ)。
王騎が信に過去の「六大将軍」の活躍ぶりを語るシーンや、楚の汗明が過去の王齕(おうこつ)との戦いを改装する場面を見ると、長い髭と顔面を斜めに走るキズが特徴的な、いかにも無骨な雰囲気が感じられます。
また作中では王齕(おうこつ)が
「六将一の怪力豪将」
と呼ばれていたことが描かれ、さらに楚の大将軍である汗明が、王齕(おうこつ)との一騎打ちで深い傷を追わせ敗走させたと語っていますが、秦にはその情報が一切伝わっておらず、真相は定かではありません。
そんな王齕(おうこつ)ですが『史記』の『秦本紀』にはとうじょうするものの、その後の時代を描いた『秦始皇本紀』にはいっさい現れず、逆に『秦本紀』に登場しない王騎が『秦始皇本紀』にだけ登場することから、
王騎と同一人物だという説があります。
【キングダム】魏や趙と激闘を繰り広げた大将軍胡傷(こしょう)
趙の三大天とも激突
語られていない部分の多い「六大将軍」の中でも、特に描写が少ないのが胡傷(こしょう)です。
唯一その姿を確認できるのはキングダム第106話での王騎の回想シーンくらいですが、その場面でも横を向いていて、風貌に関して長髪であることぐらいしかわかりません。
ただ史実においては、他国侵攻においていくつかの武功を挙げたことが「秦本紀」に書かれています。
特に魏の攻略に関しては、紀元前274年に昭王の命を受け魏の巻(けん)・蔡陽(さいよう)・長社(ちょうしゃ)の地を奪うなど、目ざましい活躍を残しています。
その一方、紀元前269年に秦と趙の間でおこった閼与(あつよ)の戦いでは、作中では趙の元三大天として紹介されている趙 奢(ちょうしゃ)に敗退に追い込まれました。
【キングダム】司馬錯(しばさく)秦の発展と中国史の伝達に影響を
中国歴史書のルーツ『史記』を編纂した司馬遷(しばせん)の祖先
作中で「六大将軍」の一人として登場し、キングダム第106話での回想シーンにおいては釣り目でこわもてに描かれているのが司馬錯(しばさく)です。
彼の活躍ぶりはキングダムの中では紹介されていないのですが、史実では多くの武勇伝が紹介されています。
昭王の先々代となる恵文王の時代から秦に仕え、蜀を滅ぼして併合したり、楚や魏を攻め領土をうばったりと、国力増大に尽力してきた司馬錯(しばさく)。
それだけの働きを見せていれば、国中から尊敬のまなざしを向けられていたことは想像できると思います。
そして彼の子孫には『史記』を編纂した司馬遷(しばせん)がおり、その存在が中国の歴史を現代へ伝えることに大きく貢献していることになります。
言い換えてみれば、もし司馬錯(しばさく)がいなければ『キングダム』という作品は存在していなかったということになります。
司馬錯(しばさく)ありがとー。