学校では教えてくれない歴史の話 学校では教えてくれない!歴史の話(戦国時代編)

2021年【織田信長】比叡山焼き討ちの新事実 イメージをぶっ壊します。

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過去の記事で

桶狭間の戦い

長篠の戦い

の脚色を解説しましたが、信長の

教科書で習っていたこととはずいぶん違う歴史が今では次々と証明されています。

今回は比叡山延暦寺と本願寺という、信長を苦しめた宗教勢力との戦いについて解説していきます。

是非最後までご覧ください。

【織田信長】残虐の象徴比叡山延暦寺とは?

日本のカリスマ武将の織田信長の合理的で残虐なイメージとして引き合いに出されるのが、

1571年「比叡山焼き討ち」

ではないでしょうか。

比叡山は平安時代、中国留学から帰国した最澄(さいちょう)が開山した仏教の一大聖地です。

最澄は中国でブームだった天台宗を日本風にアレンジし、

「鎌倉仏教」

の繁栄を導いた日本仏教界のヒーロー的な存在です。

戦国時代になると、比叡山は山が丸ごと信仰の拠点となっていて、延暦寺の根本中堂を筆頭に3000を超す塔頭などがたつ巨大宗教施設でありました。

比叡山が特殊なのはそういった面の他に、武装宗教勢力という顔を持っていたことでした。

歴史の要所に登場しては京都を支配する朝廷や幕府と対立し、権力者の頭を悩ませていました。

戦乱の世になってもそれは変わらず、信長が上洛し支配すると比叡山は

「信長包囲網」

を実行します。

信長は宣教師ルイス・フロイスを気に入るなど、仏教を絶対視しておらず、キリスト教も取り入れ当時としては先進的な人物でした。

信長にとって延暦寺は修行もせず武装し、酒食に溺れる僧も多かった延暦寺。

比叡山系の寺院は国から認定された大金持ち組織でした。(違和感ありますが)

そして信者からのお布施やそれらの基本となる収入だけでは飽き足らず、最初は低金利の金貸し(2%程度)をしていましたが、最終的には高利貸しの事業(48%~72%のブラック金融)で庶民に恨まれることも多かったようです。

取りたて等での略奪行為もひどかった武装した集団を

「抵抗勢力」

のひとつとでしか見ていませんでした。

また、比叡山が越前(現在の福井県)の朝倉義景、近江(滋賀県)の浅井長政と連携しているのも気に食わなかったようです。

地図にするとすぐわかりますが、朝倉・浅井連合を信長が美濃(岐阜県)や京都から攻める場合、琵琶湖南方から東へ進めば比叡山に背後を取られ、西岸を進軍すれば、比叡山が盾となり、朝倉・浅井連合に背後を突かれる恐れが出てきます。

なので信長は比叡山に対し

「我が方に味方せよ」

という警告を何度も発しました。

しかし、比叡山は、信長が自ら進んで仏敵になることはないだろうと、たかをくくっていました。

しかし、1571年、十分な軍事力を手にした信長は、ついに比叡山に攻撃を加えます。

一般的なイメージでは、信長が配下に命じて比叡山と取り囲み、片っ端から火を放ち山を丸ごと焦土にしたことになっています。

のみならず、炎をかいくぐって下山してきたものは老若男女を問わず皆殺しして、

「修行する場である比叡山に女がいるわけがない」

と非情な宣告をして、女性を目の前で突き殺させた、などといういつわまでのこされていますが・・・

【織田信長】比叡山全山焼き討ちはウソ!

このこの虐殺行為によって比叡山は焼け落ち、僧兵たちは全滅したというのが今までのイメージですが、結論から申しますと

実は違います。

この一件は信長の異常なまでの残虐性を強調することになり、一般的に定着している冷酷非道な信長像の形成に大きく貢献しています。

しかし、この攻撃によって比叡山が丸ごと焼け落ちというのは事実とは違います。

確かに信長は放火を命じましたが、全山が焼け落ちるほどのスケールではなかったのはもちろんですが、なんと全焼されたとされていた建築物が当時存在していなかったのです。

1956年、延暦寺の大講堂の再建と、周囲の道路工事に併せて滋賀県が発掘調査を行いました。

すると驚くべき事実が判明しました。

当時関わった技師の1人、兼安保明の報告書によると、延暦寺が

「信長の焼き討ちのよって焼失した」

としている建築物は根本中堂と大講堂だけだったことが判明したのです。

他は焼け落ちのはるか前の消失していたものがほとんどで、火災が原因とされるものは極めて少なかったようです。

兼安は

「全山数百の諸堂が紅蓮の炎に包まれ、大虐殺が繰り広げられたとするイメージを生み出すのとは打って変わった。閑散たる光景しか存在しなかったのが、現実である。このようなことは山上の放火・掃討がわずか二、三日とできわめて短期間であったことからもうかがえよう」

と結論付けています。

建築物の被害も軽微なら、人的被害も怪しいものである。

というのも奈良興福寺多聞院の僧侶が140年にわたって畿内に事情を書いた

「多聞院日記」

という史料によれば、当時僧侶の多くは比叡山近くの坂本に移っており、そこに生活の拠点があったらしいです。

つまり未曾有の大虐殺と考えられていた焼き討ちは、実際は閑散とした山を舞台に行われた数棟への放火行為だったと考えられます。

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