【キングダム】司馬尚(しばしょう)最新刊以降の最重要人物?
司馬尚(しばしょう)は、趙の東部にある中都市・青歌城(せいかじょう)の城主です。
表向きは長年病床に伏しているとされていますが、実は病と称して中央からの命令をすべて無視しているという、それで許されているという大物っぷりです。
また驚くことにかつて三大天に任命されたこともありますが、これも病気という理由で断っています。
趙国の最高の評価といっても過言ではないこの三大天を断った本当に理由は司馬尚が中央との確執があることが原因です。
史実においても何が原因で確執が生まれてしまっているのかは不明ですが、過去の記事
【キングダム】李牧2020その最後は秦の陰謀か?李牧のすべて | あきちゃんの生活向上LABO
でも書いた通り当時の趙の中央政権、または趙王の無能さに嫌気がさしていたのではないでしょうか。
趙の最後の大物天才李牧をありもしない謀反の疑いがあるといったくだらない情報で更迭してしまった無能さですから・・・
話は戻りますが、秦が趙の西部にある 鄴(ぎょう)へ攻め入ると、西部に軍を軍固めたため東部が手薄になりました。
その隙をついて燕のオルドが侵攻して、いくつもの要所を落とし青歌へ向かってきました。
司馬尚は青歌を守るために迎撃し、わずか五千の兵でオルド軍二万の兵を足止めすることに成功しました。
かなりのエピソードです・・・
また北東部長官の趙泊(ちょうはく)が、燕の陽と貍(り)を落としたため、オルドは一時退却を余儀なくされます。
こうして趙は東部の憂いを断つことができました。
作中の司馬尚は、中央を嫌う理由が不明だったり、顔立ちがまともにまだ描かれていないので(60巻では相当かっこよい斜め後ろでしたが・・・)まだミステリアスな存在ですが史実でも司馬尚は謎多き人物です。
【キングダム】司馬尚(しばしょう)史実の登場は?
史実の司馬尚は紀元前229年に李牧の副官として忽然と歴史に出現しました。
それ以降の情報は少なく、王翦(おうせん)が邯鄲(かんたん)へ迫った際に李牧と共に迎撃したとされています。
ところが
【キングダム】李牧2020その最後は秦の陰謀か?李牧のすべて | あきちゃんの生活向上LABO
でも書いたように李牧は王翦(おうせん)の企みによって
「李牧と司馬尚が謀反を企てている」
と嘘の情報を流され幽繆王(ゆうぼくおう)に抹殺されてしまいました。
その際、司馬尚は殺されなかったものの、解任・更迭されています。
史実の司馬尚は歴史の闇へと消えてしましましたが、ところどころ史実と異なる描き方をする『キングダム』では、また違う描き方がされるかもしれません。
そのため抹殺された李牧の無念を晴らすため、趙に牙をむくなどロマンチックな展開になるかもしれませんね。
ちなみに李牧と兄弟という説もあるようです。
【キングダム】司馬尚(しばしょう)はどれほどの強さを持つのか
司馬尚は『キングダム』の単行本第46巻で突如登場した趙の武将です。
詳細はまだ作中では明らかにっていませんが、作中でもトップクラスの実力を持つ李牧が「彼を三大天に推したのは私です」(46巻)と三大天に推薦していたことを明らかにしており、非常に高い実力を持っている様子が確認できます。
この司馬尚は『史記』の中にも出てくる実在した武将です。
史実では紀元前220年に道が秦の王翦(おうせん)、楊端和(ようたんわ)、羌瘣(きょうかい)による大軍で攻め入られた時に、李牧と司馬尚が協力してこれを防いだとされています。
これは現在の連載で描かれている王翦(おうせん)、桓騎(かんき)、楊端和(ようたんわ)による鄴攻めの約7年後の出来事です。
司馬尚の実力はどれほどなのか?
李牧から高い評価を受けている様子が描かれている司馬尚ですが、実際にはどれどの実力を秘めた存在なのでしょうか。
キングダムの作中では、上記でも解説しましたが司馬尚は燕によって趙の東側が攻められた時に登場し、そのままの将軍・オルドの軍勢と戦っています。
この報を聞いた趙の副官・馬南慈は
「虎の尾を踏む、とは正にこのことオルドめ東の情報収集が甘かったようだな」
キングダム46巻
と言い放ちますが、実際に、
司馬尚軍5千、オルド軍2万という圧倒的な兵力差があるにも関わらず、司馬尚は燕の軍勢を撃退しています。
この時にはオルド
「李牧よ 燕国側に大虎。が眠っていたのなら先に言わぬかバカ者がァ」キングダム(514話)
と感じていたようです。
この戦いは史実にも記述されており、
「紀元前236年、趙は燕を攻め貍(り)と陽城を取る」
とされており、キングダムの作中でもこの点がナレーションによって触れられています。
しかしここで注目したいのは、史実ではこの時に燕を攻めたのは龐煖である、とされていることです。
龐煖はこの時に燕を攻めていたため、秦の鄴(ぎょう)攻めに間に合わなかったとされています。
キングダムでは、あえてこの燕との戦を龐煖(ほうけん)ではなく司馬尚に置き換えて描いている可能性があります。
これは
「司馬尚が龐煖(ほうけん)と同程度の実力者である」
ということを表しているのかもしれません。
また、もしくは司馬尚は龐煖と同じように「人間離れ」した何らかの力を持っていることを表している、と考えることもできます。
【キングダム】司馬尚は「三大天」に入るのか?
司馬尚は
「前に『三大天』の任命をもその言い訳で断っておる」
キングダム46巻
という馬南慈の言葉の通り、三大天に入ることを自ら辞退しています。
ですが李牧が推薦したことなどから、その実力は三大天としても申し分ないものだと考えていいでしょう。
現在の趙の新三大天は李牧と龐煖(ほうけん)が明らかになっており、最後の一人はまだ作中に登場していません。
今後、この欠番状態の最後の三大天として、司馬尚が加わる可能性は十分に考えられます。
先ほども取り上げたように、史実における司馬尚はこの後、紀元前229年に李牧と協力してと戦っています。
この流れと同じようにキングダムの物語が描かれるのであれば、この時までに司馬尚が趙の三大天の一人になっている可能性は高いはずです。
しかし司馬尚が現在と同様に、最後まで三大天にならなかったとした場合、司馬尚以外にその候補となる人物はいるのでしょうか。
ここで注目したいのが舜水樹という存在です。
舜水樹は現在は秦の昌平君が考案した兵糧の策略にいち早く気付くなど、李牧の片腕として活躍しています。
しかし現在描かれている鄴(ぎょう)を巡る攻防戦では
「とにかく大将"の位を引き継ぐ舜水樹様が到着するまで待機せよと」
キングダム(518話)
と重要局面で大将に抜擢されており、その秘めた実力が、物語が進むにつれて明らかになる可能性があります。
実績は未だ描かれていませんが実は三大天に匹敵する、名将の素質を持っていることも十分に考えられるのです。
【キングダム】司馬尚(しばしょう)「仮病」を使うのは一族の血統?三國志司馬懿の先祖?
キングダムの司馬尚は、
「死んではいません。そして病でうありません 中央を嫌う司馬尚は病と称して中央からの命令を全て無視しているのです」キングダム46巻
という李牧のセリフから、「仮病」を使って趙の命令から逃れていることが明らかになっています。
また三大天を断る際にもこの仮病を理由に使っています。
司馬尚がどうして病気という嘘をついてまで中央の命令に背こうとするのか、そして三大天までも断るのか、という理由については先に考察しました。
では司馬尚はなぜ断る手段として「仮病」を使ったのでしょうか。
そこで興味深いのが、三国志の時代に生きた、司馬尚の子孫に関する逸話です。
歴史上では、司馬尚の子孫として司馬懿という三国時代の魏の将軍がいるとされています。
司馬懿は三国時代の魏において、敵対する蜀、呉に対する戦争指導の最高責任を負っている存在でした。
諸葛孔明が指揮する蜀軍と対決して、孔明を病死に追いこみ、蜀の脅威を根絶するなどの功績を上げ、後に朝鮮半島北部まで魏の勢力範囲を広げた名将と言われています。
このように歴史上では名将として知られている司馬懿ですが、その若年期には少し面白い逸話が残されています。
司馬懿は8人兄弟であり、若いころから兄弟みな聡明であったことから、「司馬八達」と呼ばれていました。
やがて司馬懿はその聡明さから、後に魏の王となる曹操に見出され、仕えることになります。
しかし司馬懿はこれを嫌がり、病気を理由にして辞退してしまいます。
怒った曹操は刺客を放ち、
「もし驚いて逃げたら殺せ」
と命令しました。
しかし司馬懿は床に付したまま、全く動かなかったので殺さずに済みました。
そしてその後も曹操が再び部下に
「捕らえてでも司馬懿を連れてこい」
と命令したため、司馬懿はやむを得ず仕えるようになった、という逸話です。
この逸話は創作という説もあり、史実かどうかははっきりとはしていません。
しかしキングダムの作中における司馬尚の子孫が、この司馬懿であるとすれば、仮病で出仕を断るというのは一族伝統の性質のように思えてきます。
もちろん、キングダムの司馬尚が仮病を使って三大天になるのを拒んでいるのは、この逸話を元に創作された設定なのかもしれない、と考えることもできます。
『キングダム』の物語の中では登場して間もなく、まだまだ謎の多い司馬尚ですが、歴史上では、司馬尚には息子がいたとされています。
いつどのようにして司馬尚に子どもが出来たのかは定かではありません
が、その子の名前は司馬卬(しばごう)と言います。
司馬印は秦の皇帝が亡くなり、衰退を始めていた紀元前209年に歴史上に現れています。
この時には、後に秦を滅ぼす劉邦や項羽に先んじて秦に反乱した、陳勝という人物がいました。
司馬卬(しばごう)は趙の滅亡後のこの付近に留まり続けていたとされ、陳勝の部下である武臣が趙に派遣されたことをきっかに武臣に従軍したとされています。
しかし武臣は部下であった李良に殺されてしまい、次に張耳の配下になっています。
張耳は後に、秦から奪還した趙の王となる人物で、司馬印は張耳の下で、河内地方(現在の河南省)の平定に活躍しています。
秦が滅亡すると、秦討伐の盟主であった項羽により、秦によって治められていた各地は諸侯に分封されました。
この時に、司馬算は河内地方の平定に関する功績が認められ、河内地方を治める殷王に封じられています。
しかし、項羽(こうう)の行ったこの分封や論功行賞は不公平が激しく、満足している者はほとんどいませんでした。
そのため紀元前209年ごろになると、斉や趙などが次々と反乱を起こし始めます。
この各地の反乱に合わせて司馬卬(しばごう)も蜂起しますが、結局は項羽の配下、陳平に鎮圧されてしまっています。
その翌年、今度は漢王となっていた劉邦(りゅうほう)が進軍を始めます。
これを聞いた司馬卬(しばごう)は今度はあっさりと劉邦に降伏しています。
劉邦は司馬卬(しばごう)の治めていた股を河内郡とし、この時から河内地方は漢の直轄領となりました。
その後も司馬卬(しばごう)は劉邦に従い、項羽の楚軍と劉邦の漢連合軍が戦った彭城の戦いに参戦します。
この戦いで劉邦が大敗し、司馬卬(しばごう)も死亡したとされています。
武将としては、戦国七雄の時代に活躍した司馬尚よりも、項羽と劉邦の楚漢戦争期に活躍した息子の司馬卬(しばごう)の方が記録が多く、一般的にも知られています。
司馬尚の残した武将の血脈は、時代が変わった後もしっかりと受け継がれていたのです。
【キングダム】司馬尚(しばしょう)まとめ
今回はこれからの趙との戦いの内容が盛り込まれており、かなりのネタバレになってしましましたが、これから司馬尚という武将の活躍が重要なポイントになっていく可能性が高いです。
是非これからさらなる展開を楽しみに登場を待ってみたいと思います。