【キングダム】楊端和(ようたんわ)史実とは異なる楊端和の設定
多数の国に分断されて以降、それぞれが絶えず衝突していた山界。それらの国を数百年ぶりに統一した楊端和(ようたんわ)は、女性だてらに山界随一の武力を誇る王として描かれています。
『史記』にいくつかの記述があることから、実在していたとされる彼女は、果たして史実ではどのような人物だったのでしょうか。
史実での楊端和は、紀元前238年に魏の衍氏を攻めた後、紀元前236年、王翦や桓騎などと共に趙の鄴(ぎょう)を攻めています。
攻略にはかなりの日数を要したものの、やがて同地を陥落させ、秦の領土としました。
紀元前229年になると、王翦(おうせん)、李信(りしん)、羌瘣(きょうかい)などと共に趙に攻め入ります。
李信が太原(たいげん)や雲中(うんちゅう)、羌瘣(きょうかい)が代(だい)を攻める中、楊端和は政が幼少時代を過ごした邯鄲(かんたん)を、王翦(おうせん)の協力を得て包囲。
翌年には秦の領土としています。
つまり楊端和は、山界の盟主ではなく、実際には秦に仕えた将軍だったのです。
楊端和の性別に関しては『史記』にも記述されていません。
しかし将軍であることから、女性ではなく男性だったと考えるのが普通でしょう。
このような設定の変更は、『キングダム』においては珍しいことではありません。
楊端和と同様、女性として描かれている羌瘣(きょうかい)も、やはり実際には女性ではなく男性だったとされています。
また、桓騎(かんき)のように改名している人物、漂や河了貂のように架空の人物、王騎(おうき)のように史実から大幅に脚色されている人物も多数登場します。
そもそも、当時の中国は儒教思想(じゅきょうしそう)が非常に重視されていたため、女性が権力を持つことはほとんどありませんでした。
やはり『史記』で描かれている女性たちも、そのほとんどは後宮の場のみにしか登場しません。
つまり、女性が話題を集めること自体、『史記』においては非常にまれなことなのです。
また、原泰久先生が各所で公言しているとおり、『史記』を主な資料にして物語が構成されている『キングダム』ですが、『史記』の記述は断片的なうえに簡潔であるため、そのままマンガ化しても単調な作品にしか仕上がりません。
楊端和が秦の将軍から山界の盟主に、そして男性から女性に変更されているのも、単調で男性ばかりが活躍する物語になることを避けて、マンガ的な表現や展開を重視した結果だと考えられるでしょう。
馬酒兵(ましゅへい)の挿話は史実に忠実なのか?
秦の西側にある山に居住している、凶暴な戦闘民族・山の民。
政からの王座強奪を目論む成蟜(せいきょう)らを鎮圧するため、彼ら山の民の協力を得ようと、政と共に信、河了貂、昌文君、壁らは、山の民の王・楊端和の元へと向かいます。
その道中、山の民について詳しく知らない信や河了貂に、壁は馬酒兵のエピソードを伝えました。
紀元前647年、秦の隣国・普が大飢饉に見舞われると、当時晋とは敵対していながらも、彼らを憐れんだ秦の王・穆公は、晋に食料を送っています。
その翌年、秦が大飢饉に見舞われると、穆公は晋に援助を求めました。
しかし普は、秦を侵略しようと大軍で攻め入ります。
やがて秦軍は、晋軍に包囲されてしまいました。
そんな劣勢の秦軍の元に、300人の山の民が出現。
彼らは数千人の晋兵を、凶暴な戦いぶりで制圧します。
以前、秦の軍馬を食べながらも酒を振る舞ってくれた穆公の恩に、彼ら山の民は報いようとしたのです。
果たしてこのエピソードは、実際に起きた歴史上の事実なのでしょうか。
『史記』にも同様のエピソードの記述はあるものの、絶体絶命の状況下にある秦軍に加勢したのは、山の民ではなく野人とされています。
しかし、山の民について壁が
「これだけのものを造り出せる知恵と技術は決して 野人と侮れるものではない」(キングダム第3巻)
と発言していることか
ら、『史記』における野人が、『キングダム』における山の民を指していることは間違いありません。
つまり馬酒兵のエピソードは、史実に忠実な挿話だといえるでしょう。
楊端和ら山の民は何者なのか?
春秋戦国時代の中国には、東胡や月氏、匈奴、犬戎など、どの朝廷にも服属しない多数の異民族が存在していました。
楊端和やバジオウ、タジフ、シュンメンに代表される山の民も、この異民族として描かれています。しかし、どの異民族に属していたのかは描かれていません。
彼ら山の民は、一体何者なのでしょうか。
成蟜(せいきょう)が王座強奪の反乱を起こした際、穆公の避暑地に避難した政は、信や河了貂(かりょうてん)に
秦は中華で最も西に位置するが そのさらに西には深き山々の世界が広がっている 決して平地の民と交わることのない 「山の民 の世界だ」(キングダム第2巻)
と伝えていることから、楊端和ら山の民が、秦の西方にある山に居住していることは明らかです。
史実では、政が秦王に即位した紀元前246年前後、秦の西方は犬戎の勢力下にありました。この犬戎は、それ以前から中国の歴代王朝と衝突を繰り返しています。
紀元前771年になると、暴政を敷く周の幽王を討伐するため、周の諸侯である申公(しんこう)と結託。
幽王の元に攻め入りました。
翌年、周の国都である鎬京(こうけい)の陥落に成功すると、周は洛邑(らくゆう)への遷都を余儀なくされています。
その後、周の旧地に秦が興ると、犬戎は秦と幾度となく衝突しました。
それは穆公(ぼくこう)の時代も例外ではありません。
先述した馬酒兵のエピソードでは、晋軍に包囲され、窮地にある穆公を山の民が助けています。
山の民が犬戎であるならば、穆公(ぼくこう)と犬戎が対立していたという史実と、穆公(ぼくこう)と山の民が盟を結んでいたという作中の話とは矛盾が生じちゃいます。
ただし
「野人は岐山のふもとにて秦の軍馬を食べた」
と『史記』に記述されており、岐山(ぎざん)は秦の西方に位置していることから、やはり野人と犬戎、そして山の民は、すべて同一の異民族と考えられるでしょう。
なお、岐山に関して中国最古の詩篇『詩経』には、
「居住するべき洞窟も存在しない」
と記述されています。山の民の住居が洞窟や平地ではなく、断崖絶壁に建設されていることも、岐山と山の民を結び付けていると言えるでしょう。
「私は今 犬戎のことを思い出していた(中略)周を壊滅させたのは犬戎と呼ばれた山民族軍だったという伝承があるのだ」(キングダム第3巻)
と伝えました。
この壁の発言も、山の民と犬戎を同一視させます。
史実における犬戎は、最終的に一部を除いて秦に吸収されました。
山の民が犬戎であるならば、政と楊端和が結んだ盟はやがて破棄され、再び楽と対立する場面が『キングダム」で描かれるかもしれません。
なぜ楊端和の名前は漢字なのか?
バジオウスタジフ、シュンメンなど、ほかの山の民とは異なり、ただ1人だけ漢字の名前を持っている楊端和。
同じ山の民に属していながら、なぜ彼女の名前だけが例外的に漢字なのでしょうか。
バジオウ以外はすでに滅びているバジ族、シュンメンを代表とする鳥牙族など、複数の部族で構成されている山の民は、それぞれが異なるデザインの仮面を付けています。
彼らは素顔を晒すことがないため、読者が人物を見分ける際は、その仮面を頼りにするしかありません。
しかし、楊端和だけは事情が異なり、たびたび仮面を外して素顔を晒していました。
また山の民は、付けている仮面のデザインを変更することはありません。
しかし、成蟜(せいきょう)による王座強奪の反乱を鎮圧するため、政や信、河了貂、昌文君、壁らが山界を訪れた際、唯一謁見を許された政の前に現れた楊端和。
数百年に渡り、複数の国が衝突を繰り返していた山界を、武力で統一した際の楊端和。
楚・趙・魏・韓・燕の諸国が合従軍を組んで秦に侵攻した際、成陽にある最終防衛地・蕞(さい)に、秦の援軍として山の民を率いて現れた楊端和。
そのすべてで、彼女は異なるデザインの仮面を付けていました。
さらに、山界と秦の言語は異なるものの、その両方を操れるのは、政らが山界を訪れた際に渉外役を務めていたバジオウ、老齢と思われるジィたちを除けば、楊端和しか存在しません。
ただしバジオウは、幼年時代を1人で生き抜いており、楊端和が山界に彼を迎え入れた際には、どの言語も持っていませんでした。
そのため、バジオウに山界と秦の言語を教えたのは、楊端和かジィたちだと考えられます。
つまり、山の民の中で1人だけ素顔を晒して、1人だけデザインが異なる複数の仮面を付けて、山界と巻の言語の両方を扱える4人のうちの1人である楊端和は、非常に特別な存在だと言えるでしょう。
それを明確にするためにも、彼女には漢字の名前を与えて、ほかの山の民と区別しているのかもしれません。
なお、楊という姓は、春秋戦国時代には犬戎の勢力下にあった秦の西方、現在のチベット自治区などでも使用されています。
そのほか、唐の第9代皇帝・玄宗の妃である楊貴妃に代表されるように、楊は妃本来の姓としても知られています。先述したように山の民が犬戎であるなら、史実では秦に仕えた将軍でありながら楊という姓を持つため、楊端和を異民族である山の民の王、そして女性として描くことにしたのかもしれません。
その結果として、山の民の中で唯一、楊端和だけが漢字の名前を持つことになったとも考えられるでしょう。
楊端和はやがて秦の将軍になるのか?
史実における楊端和は、主君である秦王・政に仕える将軍でした。
しかし 『キングダム』においては、血に飢えた死王との異名を持つ、山界の盟主として描かれています。
彼女はこの まま、山界の盟主として君臨し続けるのでしょうか。
それとも史実に即して、やがては秦の将軍となるのでしょうか。
先述したように、楊端和に関しては、紀元前238年に魏の衍氏、紀元前236年に王翦(おうせん)や桓騎(かんき)と共に趙の鄴(ぎょう)、そして紀元前229年に王翦、李信、羌瘣(きょうかい)と共に趙を攻めたという記録が『史記』に残されていました。
『キングダム』の物語は、政が秦王に即位する前年、紀元前245年から始まり、ほぼ史実に即した形で、楚・趙・魏・韓・燕の合従軍を秦が退ける紀元前240年、そしてその翌年、 成蟜(せいきょう)が死没する紀元前239年ころまでが描かれています。
つまり、楊端和が『史記』に登場する紀元前238年、紀元前236年、紀元前229年は、現在のところ『キングダム』では描かれていません。
今後描かれるであろうそれらの場面で、山界の盟主を辞めた楊端和が、秦の将軍となったうえで王翦や桓騎、李信、 羌瘣(きょうかい)らと共に戦に参加することも十分に考えられるでしょう。
なお、政が抱く中国統一という志に共感して、楊端和は秦と盟を結んでいます。そんな彼女は、複数の国が衝突を繰り返していた山界の統一を果たしたものの、
「我が年を重ねるごとに 山界の防壁も幾重にも屈強になっていく すると国の狭さを感じる。戦でも和でも何でもいい 我はただ 世界を広げたいんだ」(第3巻)
とも話していました。
この楊端和の発言も、やがて彼女が秦の将軍となり、紀元前221年に実現する秦の中国統一に、政の片腕として貢献することを示しているのかもしれません。
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