皆様は明治天皇についてどのような人物だと考えていますか?
幕末の英雄たちのエピソードは、大河ドラマや漫画、本などでいろいろ語られることはありますが、明治天皇についてはあまり語られることはないと思います。
ただ幕末、明治時代という日本の歴史的大改革という時代のなかで色々なものが変わっていった大きな時代のうねりの中にいた重要人物であることは間違いありません。
そこで今回はそんな明治天皇について今まで語られてこなかった人物像やエピソード、そして明治の大きな歴史的出来事になった「改暦」についてお話させていただきます。
どこよりも詳細に、五分でわかる明治天皇とは?そのその仰天エピソード。
是非最後までご覧ください。
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酒と西洋文化を愛した明治天皇の素顔
豪快で懐が深い西郷隆盛、厳粛で実務に長けた大久保利通、いつも冷静で慎重な木戸孝允・・・。
※いつも冷静で慎重木戸孝允
大隈重信は、木戸のことを大久保と並ぶ「二大英傑」と詳しつつも、
「神経質で、随分小さいことを心していたようだ」
とも述べていました。
実像は脇に置いておいて、激動の明治時代においては、活躍した人物のキャラクターも濃く、さまざまなイメージを持たれていると思います。
そんななかで「明治天皇」の人物像は……と考えると、なかなか頭に思い浮かびにくい。
肖像画としては、剣を握った軍服姿を思い浮かべる人がほとんどではないだろうか。
威感にあふれて、自分にも他人にも厳しい人物。そんなふうに思われがちです。
少なくとも、とっつきやすいイメージではないことは確かです。
明治天皇机の上にある酒を飲み干した
だが、実際の明治天皇は陽気な性格で、厳粛なイメージとはかけ離れていたようです。
明治天皇はワイワイと賑やかにお酒を飲むのが好きで、若い頃は臣下と毎晩のように酒を飲んでいました。
日本酒を愛飲し、テーブルの上の酒がなくなるまで席を離れることはなく、深夜から明け方まで飲むこともあったようです。
大酒飲みと言えば、黒田清隆です。
その暴れん坊ぶりはものすごいものでした。
のちに大正天皇となる皇太子の御内宴においても、天皇皇后の前で、黒田はやはり泥酔。
※御内宴 皇太子を立てる儀式のあとに開かれた宴会のことです。
同席していた旧幕臣の榎本武揚を指さして、
「陛下、この席に賊がおります。賊がおる。賊がおる」
そんな失礼な黒田を放置して宴会は続いたというから、明治天皇はそこまで厳粛な性格
ではなかったのだろう。
何より自身が大酒飲みだったから、黒田にも寛容だったのかもしれない。それでいて、
お酒に強いというわけではなく、明治天皇は酔いつぶれて、側近に抱えられながら帰宅す
ることもしばしばあった。
文部省が雇っていたドイツ人医師に「ワインのほうが体によい」と言われてからは、ワインもよく飲み、特にシャンパンがお気に入りだった。2本を1人で空けてしまったこともあったくらいだ。
その飲酒癖は皇后の悩みの種でもあった。
皇后が詠んだこんな短歌のなかにも、それは表れている。
ほとほどにこそ 花の春紅葉の秋の盃も 汲ままほしけれ
お酒はほどほどに……と皇后は心配していたわけだが、その皇后を明治天皇は「天狗さん」と呼んでからかっていたという。
皇后の鼻筋が通っていることからつけられたあだ名だったが、酒を飲むといつも皇后を振り返って
「な、天狗さん」と話しかけ、場を盛り上げた。
火事を恐れて電気を使うことが好きではなかった明治天皇は、ロウソクをよく使った。
※火事を恐れて一1873年5月、深夜に皇居が火事になり、3時間近く炎上するという事件が起きました。
天皇や皇后、三種の神器は無事だったが、延焼範囲は広く、財政的なダメージは大きかったのです。
天皇は赤坂離宮を仮皇居として執務を担ったが、新皇居はすぐには着工できず、完成したのは、10年以上後の1889年でした。
だから火事に対してナーバスになっていたのですね。
その火をつけたり消したりして、女官たちを困らせて、からかうこともあったという。
これではまるで、親戚に一人はいそうな、気の良いおじきんである。
だが、どれだけお酒を飲んでる。明治天皇は、朝5時に起きて御学問所に現れたといいます。
明治天に威厳があるというイメージが強いのは、そんな自分に厳しい一面が、周囲の印象に強く残っていたからかもしれません。
明治天皇は西洋化にも柔軟に対応していた?
明治天皇の父にあたる孝明天皇が、西洋人を猛烈に嫌っていたのは有名な話である。
終始、攘夷を望んでいた孝明天皇は、倒幕を望んでいなかったが、結果的に攘夷を提げる長州、薩摩藩を勢いづけることになった。
だが、明治天皇はそんな父親の影響を受けず、もしろ反面教師としていたのかもしれない。
即位して1年経つか経たないかのううに、明治天皇は外国人と接見。
外国人と食事をすることも苦ではなく、食事会にも積極的に出席していた。
なぜ明治天皇はここまで柔軟な対応をとれたのか。その理由の一つに、大久保利通の影響をあげることができる。
明治維新後、あらゆる分野での西欧化が図られたが、民衆に完全に浸透するには、時間が必要となる。
明治維新を成功させるためには、明治天皇自身の生活慣改革しなければならないと、大久保は考えた。
天皇の装いが変われば、それにならうものが、まずは官中から出てくるだろう。
大久保自らが、宮内知に就任して行ろうと思っていたくらいに、それは重要なことだった。
大蔵卿から離れるのが状況的に難しかったため、大久保は同郷の吉井友実に宮中改革を
そこで吉井は、横浜で机、椅子、ランプなどを購入して御学問所に運び込むなど、西洋化に向けた改革に乗り出したが、天皇の服装や髪形を変えることまでは難しかったようです
。
なにしろ、奥の空間には、侍従ですら入ることが制限されていたのだから、当然といえば当然である。
そんななか、明治天皇が突然、西洋風に断髪したのだから、女官たちは驚いた。
なかには涙を流す者までいたという。
即位してしばらくは宮廷の正式な衣装をまとっていたのに、断髪後は洋服にシフト。
お歯黒や眉描きなど、公家の元服に欠かせなかったものも、それ以後は禁止されたという。
それが、1873(明治6)年のことである。急速な西洋化に抵抗を持つ人も多いなかで、明治天皇は率先して、文明開化を実践した。
その姿に、明治維新を推し進めていた新政府の面々は、随分と勇気づけられたことだろう。
食事についても、旧習に固執することはなかった。従来の和食だけではなく、洋食も抵抗なく受容。
なかでも、アイスクリームやアスパラガスなどは大好物だったという。
むしろ、刺身や海の魚などが嫌いだったというから、当時の日本人としては珍しいタイプだったのかもしれない。
日本の伝統的な季節の行事である花見も好まなかったようだ。
※花見 明治天皇は、向島に残っていた旧水戸藩下屋敷へ花見のために行幸したことがある。そのとき家臣から献上されたのが、木村屋がつくったあんぱんだった。天皇はこれを気に入り、「引き続き納めるように」といったという。これがきっかけで木村屋がブームとなり、さらには日本各地であんぱんがつくられるようになった。
日本だろうが、外国だろうか、自分の好きなものを取り入れていたということなのだろう。
開明的な考えを持ち、周囲には、いつも冗談を言っては陽気に振る舞った、明治天皇。
伊藤博文の女癖をたしなめるなど、周囲を見守ったうえで、タイミングを見てアドバイスすることが多かった。
また、つい怒ってしまったときは、あとで自らよく謝ったというから、周囲にも慕われていたに違いない。
そんな明治天皇の存在があったからこそ、明治維新はバタバタのなかでも、成し遂げられたのではないだろうか。
明治天皇は、日本の第122代天皇。諱は睦仁、御称号は祐宮。お印は永。 倒幕および攘夷派の象徴として近代日本の指導者と仰がれた。皇族以外の摂政を設置し、かつ在位中に征夷大将軍がいた最後の天皇。複都制としながらも東京府に皇居を置いた。
明治天皇 - Wikipedia
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