伊達政宗のちに独眼竜と称される英雄の誕生
伊達政宗という人物は名前なら聞いたことがあるという人は多いと思いますが、
どんなひと?
と言われると、具体的には分からないという方も多いはずです。
戦国時代の大河ドラマやアニメ、ゲームなどで必ずと言っていいほど登場する伊達政宗という人物は、それらで描かれている通りそんなに強くて格好いい人物だったのか。
今回は分かりやすく伊達政宗の誕生から晩年まで5分でわかるように解説していきます。
これを読んでいただければ戦国時代の大河ドラマやアニメ、ゲームがもっと面白くなること間違いなしです。
是非最後までご覧ください。
伊達 政宗(だて/いだて まさむね)は、出羽国と陸奥国の武将・戦国大名。伊達氏の第17代当主。近世大名としては仙台藩の初代藩主です。 幼名は梵天丸。没後は法名から貞山公と尊称されました。
伊達政宗 - Wikipedia
伊達政宗
伊達政宗幼少期時代
独眼竜・伊達政宗は1567年、伊達家第16代当主・輝宗の嫡男として出羽米沢の米沢城に生まれます。
幼名は梵天丸(ぼんてんまる)。
政宗が右目を失ったのは五歳のときのこと。
当時は不治の病とされていた疱瘡(ほうそう)に罹ったためで、一命こそ取りとめたが、病後は失明した右の眼球が飛び出し、顔はアバタだらけになってしまいました。
これにショックを受けたのが母の義姫(よしひめ)です。
次男の小次郎が生まれたこともあり、政宗を遠ざけるようになりました。
母の愛を失い、心を閉ざす政宗。
輝宗は嫡子の将来を心配して臨済宗(りんざいしゅう)の禅師・虎哉宗乙(こさいそういつ)を家庭教師につけるが、性格は内に籠もる一方でした。
そんな彼を救ったのが、のちに伊達家の軍師として政宗を助けることになる、片倉小十郎景綱(かたくらこじゅうろうかげつな)です。
小十郎は輝宗の許しを得て、小刀で政宗の右目をえぐり取ってしまいます。
申し訳ございませぬ。すべては若のため・・・
この荒療治(あらりょうじ)によって、政宗は一時、生死の境をさまようが、やがて回復すると、本来の明るさを取り戻していきました。
こうして人生最初の苦境を克服した政宗だったが、隻眼の負い目は生涯ついてまわります。
「たとえ病によって失ったとはいえ、親よりいただいた片目を失ったのは不孝」
との考えから、政宗の死後に作られた肖像は、やや右目を小さくしたうえで両目が入れられています。
伊達政宗衝撃的な皆殺し作戦と父殺しの汚名
1577年、政宗は11歳で元服すると、2年後に田村清顕の10歳の娘・愛姫(よしひめ)を正室とします。
相手は戦国大名の娘、間違いなく政略結婚だが、輝宗はこれにより自分の後継者が政宗であることを示しました。
初陣は15歳、勝ち戦だったーーーー!
そして1584年、18歳のときに家督を相続して政宗は第17代伊達家当主となります。
このとき父の輝宗は41歳の壮年であったため、家中に反対も多く、政宗自身も年少を理由に辞退を申し出るが、息子の将器が自分より上と見抜いた輝宗が最終的には押し切ります。
輝宗の決心の背景には、政宗に片倉小十郎らの優れた家臣があったことも大きく関係していました。
そんな若き当主・政宗を侮るかのように、友好関係にあった小手森城主・大内定綱が、畠山義継と手を組み、伊達家に対抗しようとしました。
激怒した政宗は、1585年、小手森城に攻め入ります。
ここで政宗は、定綱の降伏申し入れを拒否、800人に及ぶ城内の人間全員を、女・子供関係なく皆殺しにしました。
このとき、人間ばかりでなく、牛馬や鶏までもが一匹残らず殺されたといいます。
この事件は「小手森城の撫で斬り」として後世まで語り継がれています。
徹底した粛清(しゅくいせい)の衝撃は大きく、諸大名は政宗に恐怖しました。
若く非情な戦国大名の登場に、地域のパワーバランスは一気に崩れ、奥州も後ればせながら戦国時代に突入していきます。
同年、政宗は父・輝宗を失います。恭順を申し出た二本松城主・畠山義継が、一転して輝宗を拉致、これを追跡した政宗の部下が撃った弾が、輝宗の命を奪ったのです。
輝宗は政宗に「わしと義継もろとも撃て」と叫んだというが、いずれにしても政宗は、
以後しばらく「父殺し」の汚名を着せられることに。。。。
伊達政宗秀吉の天下統一に最後まで抵抗するが....
1587年、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が関東・奥州地域に大名間の私闘を禁じた「惣無事令(そうぶじれい)」を発布するが、政宗は構わず地域平定を目指した戦闘を続行。
1589年の摺上原(すりあげはら)の戦いはその総決算で、すでに太閤秀吉傘下に入っていた会津の蘆名氏を滅ぼしました。
1590年、奥州の覇者となった政宗に対し、秀吉から小田原攻めへの参陣要求が舞い込んだ!!
父の時代から北条氏とは同盟関係にあり、天下への野心も抱いていた政宗は、恭順して豊臣方に参陣するか、北条と結んで抵抗するか大いに悩むが、軍師 -片倉小十郎の助言もあり、秀吉への服属を甘受します。
出立前日、母・義姫による政宗毒殺未遂事件が起きました。
食事に毒を盛られて死にかけた政宗は、母の代わりに弟の小次郎を斬り殺します。
義姫は4年後に兄・最上義光のいる山形城に出奔するが、政宗による追放だったともいわれています。
遅参した政宗は秀吉に軟禁されるが、詰問にやってきた前田利家らに、
「茶人・千利休の指導を受けたい」
と悪びれずに言って、秀吉を感嘆させました。
これは派手なことを好む秀吉の性格を知っての行動だといわれています。
対面を許された政宗は、髷(まげ)を切り落とし、死に装束に身を包んで秀吉の前に現れたといいます。
秀吉は北条氏降伏後、政宗の居城・黒川城へ入城して奥州仕置を行ない、日本統一を完成させました。
政宗は本領を安堵されるが、会津領などは没収されてしまいます。
伊達政宗尽きぬ天下への野心が秀吉と家康を刺激
1591年、政宗は蒲生氏郷と、葛西大崎一揆を平定。
ところが政宗が書いたとされる、一揆勢にした書状が見つかり、首謀者の疑いをかけられます。
上洛を命じられた政宗は、金の磔柱を先頭に立て、またも死に装束で秀吉の前に進み出ました。
これも名軍師片倉小十郎のアドバイスだったのでしょうか・・・
そして問題の書状にある儀鶴型の花押を示し、いつも鶴鶴の目に空けている針の穴がないと言い張り、真偽は今もって定かではないが、この弁明が効いて政宗は窮地を脱しました。
1592年の朝鮮出兵にも政宗は従軍。このとき、伊達軍の部隊が身につけていた豪華絢爛な戦装束が話題となり、上洛の道中では軍勢が通過するたびに歓声が沸いたといいます。
これ以降、派手な装いを好んで着こなす者を指して「伊達者」と呼ぶようになったと伝えられています。
謀反の疑いをかけられ、関白・豊臣秀次が切腹した1595年の聚楽第事件では、秀次と親しかったことから、政宗は連座の危機に陥りました。
このように、何かと秀吉から疑いの目で見られがちな政宗だったが、秀吉が死ぬとその遺言に背き、長女・五郎八姫を徳川家康の六男・松平忠輝に嫁がせます。
政宗はこの忠輝を将軍にする構想を描いたともいわれています。
豊臣秀吉にしても徳川家康にしても、天下への野心を隠そうとしない政宗からは、目が離せなかったでしょう。
1600年の関ヶ原の戦いでは、徳川家康(よくがわいえやす)から上杉領7郡100万石のお墨つきを得て東軍につきました。
しかしここでも色気を出した政宗は、北方の南部氏領国の獲得まで論み、和賀忠親を使って郡内での一揆をそそのかし、これが戦後に明るみに出て家康はお墨つきを反古にし、政宗への恩賞は仙台開府の許可と陸奥国刈田郡白石、合わせて2万石の加増にとどまります。
伊達政宗仙台開府と海外技術を活用した領国経営
1601年、政宗は仙台に居城を移し、100万人もの人員を動員して城下町の建設に着手しました。
仙台藩は48カ所に館が配置された大藩となり、石高は加賀・前田、薩摩・島津に次ぐ62万石を有していました。
政宗はこの地を南蛮貿易の拠点とするべく、その足がかりとして1613年、宣教師ルイス・ソテロを正使、家臣・支倉常長を副使に任命し、一行180人あまりをヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)を経由して、エスパーニャ(スペイン)、およびローマへ派遣しました。
これが慶長遣欧使節です。
政宗の計画はのちの鎖国政策によって断たれるが、キリシタンとの交流による恩恵は多大でした。
領内の経済基盤を支えた産金、製鉄、馬産などの発展はキリシタン技術者の協力がなければあり得ず、北上川水系を現代まで続く穀倉地帯になしえたのも、彼らの土木技術があればこそでした。
結果、実収は100万石を超え、経済面で他国を圧倒します。
また、政宗は領内の文化的発展にも力を入れていました。
上方の文化を積極的に導入し、数多くの技師や大工を招聘。
桃山文化の特徴である荘厳華麗さに、北国の特性を加えた独自の様式を用いて、国宝となる大崎八幡宮や瑞巌寺、塩竈神社、陸奥国分寺薬師堂などを建造しました。
政宗は徳川第三代将軍・家光の治世まで生きました。
酒での失敗が多い政宗ですが、酔って秀忠との約束をすっぽかしたり、家光との対面中に居眠りするという失態を演じたりしたこともあるようです。
1636年、江戸にて死去。享年70。死因はガンだと推定されています。
辞世の句は
「曇りなき心の月を先だてて 浮世の闇を照してぞ行く」
戦国の世を生きていくのは本当に本当に大変だったでしょうね。
自分を信じて突き進んできた伊達政宗。かっこいいですねー
伊達政宗といえば、仙台城跡の銅像を思い浮かべる方も多いかと思います。
騎馬に堂々とまたがり、半月の前立ての兜を身に着け、仙台市を見下ろしているその姿はまさに東北の英雄そのものです。
隻眼でありながら奥州に覇を唱えた姿から「独眼竜」の異名をとった政宗は、日本の戦国時代の中でも様々なアニメやドラマに登場し、、トップクラスの人気を誇ります。
ですがドラマやアニメで絵が画れているような人物、姿だったのでしょうか
ここからはドラマやアニメでは描かれていない伊達政宗のエピソードをご紹介いたします。
伊達政宗元服を急がされる
伊達政宗幼名梵天丸は1567年現在の山形県米沢市にあたる、米沢城で産声を上げました。
父は伊達家16代当主輝宗。
母は最上義守の娘・義姫。
二人は今でいうとこの政略結婚で結ばれました。
両家は互いの家督争いにたびたび介入する緊張状態にあり、この結婚はそれを解消する狙いがあったといわれています。
梵天丸が生まれたころ、既に中央では織田信長が美濃をとり岐阜城を本拠地に定め、天下布武の印判を使い始めた信長は、33歳になっています。
伊達家は室町幕府と縁が深い・・・
彼らは幕府の地方官制である奥州探題を任されていました。
しかし信長が室町幕府を滅ぼすと方針を即座に切り替えます。
「東北の全権を統率できる強い意志を持った跡取り、天下を狙える男こそが伊達家の跡取りぞ」
輝宗は日頃より息子たちをよく観察していました。
戦国大名の元服は通常15歳前後で行われることが多いのですが、梵天丸が11歳という異例の速さで元服を済ませたことは、欧州の情勢や旧体制の崩壊による緊張感が強い後押しをしていました。
元服の際に、父・輝宗はおりを込めて、伊達家中興の祖政宗の名前を梵天丸に付けました。
それまで伊達家は将軍足利家の名前を一字もらって跡継ぎの名前に組み込んでいたが、その習慣も政宗の元服とともにあっさりと捨てられました。
伊達政宗本当は右目に未練があった
片倉景綱が眼球を切り取った際、あまりの痛さに政宗は気絶しそうになり、そのことを政宗は常に気にしていました。
「我、目の玉をきりおとしたるときの不覚は、生涯の不覚なり」
と、その恥じらいが明良洪範(めいりょうこうはん)によって静かに伝えられています。
ところで切り落とした目玉はどうなったのでしょうか・・・
これは諸説ありますが、母親が政宗の前で干からびた目玉を食べてしまったとか・・・
理由は
「もともと息子は私の胎内からでてきたもの。腐った目玉とはいえ、それを私が食べるのは、一度胎内から出てきたものを戻すだけの話なので、何もおかしいことはない」
というものでした。
ただこの説は母が政宗を疎んじていたことと整合性がとれていません。
政宗自らが食べてしまったという説もある。豊臣秀吉や徳川家康と謁見した際、
「右目はどうした?」
と問われると、
「木から落ちたときに、右目が飛び出てしまった。しかし、あまりに美味しそうだったから、思わず食べてしまった」
と答えたというのだ。
この場合、木から落ちて目玉が取れたので、景綱の必死の目玉えぐり話は、無かったことにされています。
この政宗自身が眼球を食べた話は、景綱に目玉を切られ気絶をしかけたという不覚を恥じる気持ちと、過去の深刻なコンプレックスを隠したい心情が生んだ“豪胆なジョーク"と見るべきだろう。
政宗の複雑な心情が垣間見える。
晩年になっても政宗は隻眼のことをとても気にしていたらしく、70歳になった頃、彼は遺言で次のように言い残しています。
「もし私の肖像画や、木像を作るようなことがあったら、両眼健全な顔に作ってくれ」
作家の海音寺潮五郎は、
「70歳になった爺さんがそんなことを言い出し、遺言にまでしてしまうのは、よほど右目の無い人生がこたえたのだろう」
と述べている。
現在、仙台城址にある政宗像や、狩野安信筆の伊達政宗像が隻眼ではなく、両目が備わっているのは、そのような事情からであります。
こういった逸話からは、コンプレックスに悩む意外に繊細な政宗像が浮かび上がって来ますね。
伊達政宗阿武隈川の悲劇
秀吉が関白に就任した1585年、1歳になった政宗は東北の平定を志し、隣国との合戦に明け暮れていた。
その年の10月、政宗が鷹狩に興じていると突如、 宮森城にいた父・輝宗が拉致されたという知らせが飛び込んできた。 二本松城主・畠山義継の仕業である。
義継は、二本松城を攻略しようとした政宗に先んじて、降伏を申し入れてきた人物だった。
和議は隠居した輝宗が受け持ったが、義継は大幅に領地を没収されることになった。だが、お家取り潰しは避けられたものの、義継の心境は煮え切らなかった。そこで和議当日、部下数名を引き連れ、
「今回は和議を受けてくれて感謝しています。私たちの命も助けて頂いた。御礼をさせてください」
と一見和やかに輝宗を訪問し、挨拶を済ますと、玄関まで一人で見送りにきた丸腰の輝宗に短刀を突きつけ人質に取ってしまったのである。
家臣が異変に気づいた頃には、既に義継らは宮森城を脱出していた。
輝宗は馬に乗せられ身動きできない状態のまま、拉致されてしまったのである。
義継には勝算があった。このまま二本松城へ逃げて輝宗とともに籠城してしまえば、いかに政宗といえども容易に手出しはできなくなる。
義継はこの千載一遇の好機に必死に馬を走らせた。
目の前に阿武隈川が見えた。川を越えれば二本松城は近い。
そのときだ。
宮森城からの追っ手よりも早く、政宗の一隊が立ちはだかった。
政宗は鷹狩の最中だったが、知らせを受けて急遽、鉄砲で武装した一隊を引き連れて義継らを追撃せんと追いかけていたのだ。
阿武隈川を渡らせたらそれまでだ。高田ヶ原で義継を追い詰めた政宗の部隊は、一斉に鉄砲を構えるが、撃てない。輝宗が盾にされ、首に短刀を突きつけられている。輝宗は叫んだ。
「撃て! ワシともども義継を撃つのだ!」
政宗が苦渋の末に下した命令は、発砲であった。鉄砲隊の銃口が次々と火を噴いた。
弾丸は、父もろとも義継らを貫いた。
これが、輝宗拉致事件の顛末である。
ところで、この事件には奇妙な点が指摘されている。
義継をすぐに追撃した宮森城の部隊よりも早く、鷹狩をしていた政宗の部隊が武装して到着していたこと、義継が輝宗を拉致した時に
「後で俺だけを殺すという噂は本当か!?」
と口走ったとされることだ。
実は、輝宗拉致事件の真相については諸説入り乱れている。
例えば、高田ヶ原で輝宗が死んだことは確かだが、政宗の部隊は現場に間に合わず、政宗自身はその場所にいなかった、とする説、政宗がようやく追いついたとき、既に輝宗は義継に殺されていた後だった、とする説、さらに、拉致事件は政宗が義継と謀った共謀説などが挙げられる。
歴史学者の高柳光寿は「青史端紅』で、政宗はまず義継に輝宗を殺させ、次に父の仇として義継を殺す予定があったと解釈する。
歴史評論家の相川司も、「看羊録』の一節を引用し、政宗が父を抹殺した可能性に触れる。
伊達家は輝宗の代も含め、代々当主と跡継ぎの闘争が繰り広げられてきた家でもある。
政宗が隠居した父をも排除し、あくまで伊達家の全権掌握を企んだということ、さらに隷属した大名を駒のように使い捨てたのだとすれば、拉致事件から浮かび上がってくるのは、通説とは少し違った計算高く狡猾な政宗の一面ではないだろうか。
伊達政宗母親に毒殺されかける
ここで政宗の母・義姫という女性の人となりに触れておこう。
東北地方南部の名門・最上家と、実力者・伊達家の縁組で始まった義姫の結婚生活は、決して平穏なものではなかった。
政宗が生まれる前、義姫は不思議な夢を見ていた。ある日のこと、彼女が湯殿山に祈ったおり、夜に静かに寝ていると、夢枕に白髪の老人が立ち現れてこう呟いた。
「あなたの胎内に宿りたい」
突然の出来事に戸惑った義姫は、気味の悪さも手伝って、その晩は僧侶と思しきこの人物にお引取りいただいたという。
翌朝、夫の輝宗にこのことを相談すると、
「それは瑞夢(ずいむ)ではないか。良き夢である。 次に現れたなら、迎え入れなさい。きっと才知ある子が授かるぞ」
許可を得た義姫がその日寝入ると、再び白髪の老人が現われた。
今度は輝宗に言われた通り、義姫は老人の頼みを受け容れた。
夢から覚めた義姫は孕んでいたことに気づいたというが、この子こそ後の政宗であった。
政宗を授かったものの、彼女が伊達・最上両家の緊張状態の狭間に立たされていることに変わりはなかった。
1588年には、大崎氏の内紛から最上義光と伊達家が対立。
これを憂いた義姫が両軍の間に輿で乗りつけ、
「戦うなら私を斬ってからはじめなさい」
と、命を賭けて停戦にこぎつけている。
その気性の激しさは、疱瘡を患って以来、疎んじるようになった政宗をも標的とした。
姫は次男・小次郎を可愛がるあまり、1590年に政宗が秀吉の命を受け小田原へ参陣する途中、彼に毒入り菓子を与えたのだ。
これを食べた政宗は毒消しをもっていたため、危く一命は取りとめた。
この騒動は、政宗の弟・小次郎を擁立しようとした義姫と、その兄・義光が企てた暗殺事件だったといわれている。
事件ののち、義姫はすぐに実家に引きこもってしまった。
政宗は毒殺騒動があった二日後に弟を呼び寄せ、
「小次郎、お前に罪はない。だが、母親を殺めることはおれにはできぬ。やむをえず死ね」
と言い放って弟を惨殺してしまった。 小次郎は、
「どういうことだ兄者!」
と政宗に斬られながら必死に抗議を続け、疑念のうちに果ててしまった。
近年では、政宗による弟の処刑は事実だが、毒殺計画を母親が企てて実行したという話は、創作という見方も出ている。
いずれにしても政宗と母親の間に複雑な関係があったことは確かだ。
その母子関係も、月日と共に修復されていく。後年、政宗は秀吉の朝鮮戦争のためにはるばる海を渡ったおり、政宗は義姫から手紙を受け取り、その感激は一通りではなかったという。
手紙には、息子を気づかう優しい文面と、現金3両の小遣いが入っていた。政宗は返信する。
「母上。異国の水は合わず、多くの人々が死んでいきました。でも、私は内臓が丈夫なためか、健康です。どうかこのまま命永らえ、もう一度母上にお会いしたいと念願しています。この他、申し上げることはございません」
政宗筆となる貴重な一通。 毒殺未遂事件の真偽は定かではないものの、両者は過去のい
さかいを乗り越え、親子の信頼関係を取り戻していることがうかがえる。
伊達政宗家康の鷹を盗む
両親との複雑な関係を示すものを筆頭に、政宗にはひと癖もふた癖もある、策謀に関する逸話が数多い。
かつて秀吉は獰猛なペット猿を飼っていた。ある日、それを政宗が鑑賞と称し、拝借すると、毎日のように猿を厳しくムチ打って調教した。
この猿は大名を見ればすぐ威嚇してくる。
猿が秀吉のもとへ返されると、この猿が相変わらず他の大名に歯をむきだして威嚇するその様子を秀吉は楽しんで見ていた。
次に、政宗が城にやってきた。
猿は政宗にだけは怯えてしまい、このとき秀吉は政宗の器量に感嘆したのだという。
周到な準備と、策略。政宗の知将ぶりがうかがえるエピソードである。
同じ動物の逸話でいえば、政宗は鷹狩りが大好きだった。
まだ信長が生きているとき、政宗は立派な鷹を信長に贈って喜ばせたことがある。 威風ある鷹を目利きし、見込みある特別な人物に捧げる。
それが政宗の密かな趣味であり自慢だった。
大坂の陣が一段落した数年後、政宗は広大な鷹場を徳川家から賜った。
政宗の鷹場の隣には、家康の鷹場があったが、それが政宗のものより広大だったため、少々小憎らしく思えた。
あるとき政宗は、鷹狩をしながらこっそり隣の鷹場に侵入すると、誰も人がいなかった。そこで政宗は思い切り羽を伸ばし、気づけば鳥を3羽・4羽と立て続けに盗み取っていく。
果ては鶴にまで手を出したところ、木々がざわめいたので振り返ると、近くに家康が飄々と鷹を使いながら向かってきている。
驚いた政宗は、我先に竹やぶの中に逃げ込むと、盗んだものをまず隠し、自らもその中に息を潜めた。
驚いたのは家康も同じだ。政宗はしゃがみながら、
「是非に及ばず」
と覚悟を決めたが、こんなことでは死に切れない。いざ気を取り戻して周りの様子を窺うと、なぜか家康の姿はなかった。
後日、家康に呼びだされた政宗は、居心地の悪さとともに、家康の話を聞いていた
は突然、 鷹場の話題になった。
「この前、ワシはその方の鷹場へ鳥を盗みに入った。だが、意外な所にその方がおる。ワシは驚いてやっとの思いでその場を逃げた。竹やぶの中にうずくまっていると、その方がわざと見ないふりをしてくれていると思い、息をかぎりに逃げたよ」
政宗は唖然とした。これは運がいい。
「なんと。それがしもその日はお鷹場へ盗み狩りに参りましたところ、見つけられたと思い、息をこらして竹やぶに隠れておりました」
すると家康は、
「互いに泥棒と知っていれば、逃げながら少しは息を休められたものを、双方とも罪人であるから慌てた」
と大声で笑った。
政宗も思わず吹き出し、その場にいた家臣も腹を抱えて笑ってしまった。
つまり、政宗が家康の鷹場に入っていると、政宗の鷹場に侵入した家康の姿が見えた。
ここで本来、お互いが、
「ワシの鷹場でなにをやっている?」
と追求すればいいのだが、二人とも盗人の意識が先走り、まずは一目散に逃げてしまった、
というわけだ。
この逸話の隠れた意味は、いわずもがな、天下に近づくものはみな等しく盗人である、ということでもある
伊達政宗夏の陣で大暴れ
秀吉のもと小田原征伐、朝鮮戦争へと出兵した政宗だったが、秀吉が1598年に死去
すると、新政権を画策する家康側に彼は加担する。政宗は二人に付き合ったことで、20代で荒盗りした会津領ほか100万石近くを60万石に減らされていた。 家康に詐欺同然の仕打ちを受けたこともある。
関ヶ原の合戦前のこと、家康から次のような書状が彼に届けられた。
「勝利した暁には100万石を加増させる。ぜひ東軍に参加してほしい」
政宗はこれを信じ参戦した。
が、後にその文面が“覚書”程度であったため法的拘束力が発生せず、この”100万石のお墨付き〟は、いとも簡単に反故にされてしまったのだ。
さらに、政宗は関ヶ原の合戦が終わっても、まだ西軍の上杉景勝を執拗に追い詰めていた。
遠方にいた政宗には、東軍勝利の結果が即日届かず、2週間も彼は勝利を知らずに戦っていたのだ。
そう考えると何とも間抜けで不遇な政宗像が浮かび上がってくる。
1614年、家康は豊臣家の血を絶ち天下を統一すべく大坂の陣を起こす。
大坂参陣した武将の誰もが、これが戦国時代最後の合戦だと考えていたに違いない。
政宗もまた、自身を詐欺に嵌めた家康の天下統一事業の締めくくりを手伝うと知りつつも、しぶしぶ従った。
その たる思いが政宗を駆り立てたのだろうか、冷静な彼らしからぬ逸話がいくつか残っている。
あるとき、政宗が馬上で大坂城を巡回していると、突然銃弾が飛んできた。
政宗は身をよじって思わず伏せたが、弾はなんと見当違いの方向に飛んでいた。
政宗は伏せたことを恥ずかしく思い、自らの根性を叩き直すため心機一転、馬を下りると徒歩で弾を避けながら城に近づいた。
このとき、彼は城壁の前でしばらく立ったまま銃撃隊を挑発して、また歩いて帰ってきている。
この話は上杉謙信にも類例があった。
恐らく、当時の火縄銃の精度が低かったために可能となった、一流武将の肝試しではあったのだろうが、どこか政宗らしからぬ無謀さである。
また、夏の陣最後の決戦である天王寺の合戦でのことだ。
豊臣方の猛反撃を受けた徳川方の神保相茂隊は崩れに崩れ、後方に控えた政宗を頼って、一斉に退却。だが、なんと政宗は彼らに業火の如く一斉発砲を加えた。神保隊は、
「味方であるぞ! 味方であるぞ!」
と旗を降って必死にアピールを繰り返すが、その間にも次々に銃弾に倒れた者が地面を血で埋め尽くした。
政宗の集中砲火はやむことがなく、神保隊300名からすれば、まこと不条理な全滅を遂げてしまった。
後に、この件で徳川方から事情聴取をされた政宗は、次のように強弁している。
「味方とて、自軍の前を侵すものは敵である」
部隊は全滅、当主も射殺されてしまった神保家を気の毒に思った家康は、神保相茂の遺児を直参旗本に取り立てている。 味方討ちの衝撃は、九州一の武勇を誇る島津家にも届き、
「まるで卑怯者の行いである」
と書かれている。
諸大名もこの考えに異論はなかったであろう。合戦自体は徳川方が圧倒的な勝利を収め、秀頼と淀君を葬り去った。
伊達軍も、片倉小十郎の息子・重長が豊臣方の猛将、後藤基次を討ち取るなど多大な戦果をあげたが、味方撃ちの一件で諸大名の政宗を見る眼は冷たいものとなったことだろう。
一方で政宗は合戦の最中、豊臣方の大物・真田幸村の遺児を何人も匿っている。
そのうちの娘、阿梅に至っては片倉重長の後室に迎え入れているのだ。
大坂夏の陣最後の戦いで、数度に亘る突撃を敢行、徳川方の本陣を壊乱させ、家康の身をも危機に陥れた幸村。
その血が続くことは家康にとってあってはならないことであったはずだ。
逆に、その遺児たちが徳川家に引き渡されることなく子孫を残しているという事実は、当時の政宗の存在感の大きさを感じさせる。
味方を射殺し、敵の大幹部の遺児を匿う政宗でなければ「乱心」「謀反」の咎で罪を問われかねない暴れぶりだ。
銃撃に身を晒した一件と考え合わせると、この時の政宗は戦国時代が終わり、自身の夢も潰えることへの苛立ちでコントロールが効かないほどの激情に駆られていたのかもしれない。
伊達政宗東北地方をスペインに売る
大坂の陣が終結して以来、政宗はある人物の帰国を心待ちにしていた。 支倉常長だ。
政宗は大坂の陣の前年、1613年に常長を代表とする遣欧使節をヨーロッパに送り込んでいた。
横須賀の浦賀に黒船のペリーが来航したのが約240年後の江戸時代である。
日本外交史において特筆されるべきことだ。
政宗の目的は、表向きは通商条約を結ぶことである。強国スペイン、メキシコとの貿易を開始すること。
そして、影の目的は、国内の政権奪回であったといわれている。
その野望も、使節団には伝えていた。スペイン国王や、ローマ教皇に謁見すれば、あわよくば海外から援軍を貰えるだろう。
当時、スペインには世界に誇る無敵艦隊が存在した。
彼らが味方に加われば、家康に落ちた天下を奪回できる。
政宗はそう考えた。
政宗最後の大博打とも言うべき書状は、次のような主旨だった。
「政宗は、次期皇帝になるべき奥州の王である。実力でいえば最強である。 家康とも縁が深い。日本との通商は利益をもたらし、キリスト教の宣教師は厚遇されるだろう」
"次期皇帝になるべき〜”は完全な詐称である。 奥州王といえば聞こえがいいが、東北の一大名だ。
さらに、支倉常長がスペイン国王フェリペ三世に演説した口上が凄い内容だ。
「我が奥州王・政宗は、スペイン国王が、保護を求める者に対して寛容な人物だと聞いたので、私たちを派遣したのです。 スペインと国交が生まれるなら、政宗は奥州の領土と地位を陛下に捧げます。 今後、いつでも陛下の望みに応じ、喜んで全力を用いるでしょう」(『伊達政宗遣使録』)
これではまったくの売国だ。
通訳が当時の日本語を正確に訳すことができたか不明だが、ローマでは貴族の称号を与えられたものの、条約を交わすことは叶わず使節としては空振りに終わった。
それは政宗の夢がついに潰えたことを意味していた。
その後の政宗は領国開発に力を入れ、江戸幕府を支え続ける日々を送った。
家康から将軍職を継いだ秀忠、さらにはその子家光からは「伊達の親父殿」と慕われ、外様大名の中では無類の信頼を得ていたという。
晩年にグルメに目覚めた政宗は、急激に太ってしまったが、共に戦場を駆けた大名たちが次々と世を去る中、実によく生き、食べた。
後年、旧仙台藩邸のゴミ捨て場跡が発掘されると、当時の日本人があまり食べなかったものが次々に発見された。
カワウソ・羊・鶴にスッポン・・・
現代でも珍味とされるものばかり。
海外に目を向けた政宗ならではのラインナップかもしれない。
1636年5月24日、政宗は享年70歳でこの世を去った。
1974年には、政宗の墓所「端鳳殿」の再建に際して遺骨の調査が行われ、晩年は歯槽膿漏で上あごの左右の犬歯を残し歯が抜け落ちていたことが判明した。
「伊達男」にしては少し寂しい最後の姿である。
仙台城跡せんだいじょうあと
仙台城跡 | 【公式】仙台観光情報サイト – せんだい旅日和 (sentabi.jp)
伊達62万石の居城、仙台城(青葉城)。標高約130m、東と南を断崖が固める天然の要害に築かれた城は、将軍家康の警戒を避けるために、 あえて天守閣は設けなかったといわれています。残念ながら今では城は消失し、石垣と再建された脇櫓が往時をしのばせます。政宗公騎馬像の前に立てば、天下取りの野望に燃えた政宗公と同じ視線で、市街を展望できます。
仙台城跡 | 【公式】仙台観光情報サイト – せんだい旅日和 (sentabi.jp)
青葉城資料展示館では、コンピューターグラフィックスによる青葉城復元映像などが見られます。周囲には仙台ゆかりの土井晩翠の文学碑も。 平成15年夏、国の史跡指定を受けました。
城跡一帯は青葉山公園となっており、本丸跡からは仙台市内、太平洋を一望できます。
土井晩翠銅像前では「荒城の月」の自動演奏が9:00から18:00までの30分ごとに流れます。
日没~23時まで石垣と伊達政宗公騎馬像がライトアップされ、100万都市仙台の夜景を楽しむことができます。
住所 | 980-0862 宮城県仙台市青葉区川内 |
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アクセス | JR仙台駅西口バスターミナル16番のりば るーぷる仙台「仙台城跡」前下車すぐ(※バス停から本丸跡までは階段があります。)/地下鉄東西線「青葉山駅」から仙台市営バス 八木山動物公園行、または「八木山動物公園駅」から青葉台行き「仙台城跡南」下車。 詳細はこちら |
見学等料金 | 青葉城資料展示館 個人:大人700円、中高生500円、小学生300円/団体(20名以上)大人630円 中高生450円 小学生270円 |
見学時間の目安 | 40分(青葉城資料展示館は25分) |
営業時間 | 入園自由 青葉城資料展示館は、9:00~17:00(11/4~3/31は~16:00) |
休業日 | 無 |
駐車場 | 普通自動車:あり(有料) 大型自動車:あり(有料) [大型バス]30台/2時間2,000円 以後1時間ごと1,000円 [普通車]150台/1時間500円 以後30分ごと200円(18時以降無料) |
飲食施設 | あり(青葉城資料展示館) |
バリアフリー | 身障駐:身障者用駐車場、 入ス:入口にスロープ等の設置あり、 点ブ:点字ブロック、 自ド:入口、通路等に自動ドアあり、 受案:受付案内、 点案:点字案内板、 身障ト:車椅子(身障者)用トイレ、 手小:手すりつき小便器、 洋ト:洋式便器、 身障エ:身障者対応エレベータ-、 エス:エスカレーター、 車公:車椅子対応公衆電話、 車イ貸:車椅子貸出し、 盲犬:盲導犬同伴可 |