イケメンであり個人的にとても大好きな武将です。
引用:マンガキングダム
あなたは昌平君(しょうへいくん)をご存じですか?
キングダムの中でも秦国の最高司令官として活躍し、軍略もそして自ら一騎打ちができるほどの武力を持つほどの才能をもっています。
まさに完全無欠のキングダムを代表するキャラクターです。
今回はネタバレ覚悟で昌平君(しょうへいくん)の今後について考察していきます。
驚きの展開になること必須ですので、
【キングダム】昌平君(しょうへいくん)秦軍総司令が最終的に楚に走る理由とは?
「あのお方が「秦」ではなく 生国の「楚」で立っていたとしたら」
これは嫪毐(ろうあい)反乱を鎮めるために、敵将の戎奮公と昌平君が戦っている時、昌平君の腹心・介億が昌文君らに伝えた言葉です。
史実を知っている読者には、おそらくこの言葉が重く響いたのではないでしょうか。
中華全土の統一を進める秦。
しかし、最後の最後になって、衝撃的な出来事が勃発します。
紀元前223年に、相国である昌平君が楚に走ったのです。
『キングダム』の昌平君は当初、呂氏四柱のひとりとして登場し、昌平君は4人の中でも軍略に秀でた存在で、秦軍総司令の地位にあり、山陽攻略戦も昌平君の立案でした。
また、呂不韋が相国に出世したと同時に、右丞相の地位を得ました。
その後、合従軍との激闘、成蠣(せいきょう)の反乱、魏の著雍攻略戦を経て、昌平君は政を中華統一という夢を捧げるにふさわしい王と認識しました。
そして、毒国反乱の情報をこっそり政側に流し、加冠の儀が終わった瞬間に、呂不韋に反旗を翻したのです。
こう考えていくと、昌平君は呂不韋の一派でしたが、政たちと命を取り合う直接対決はしていないのです。
これはラッキーなことだったでしょう。
何しろ昌平君といえば、
「誇張していうなら 武力は蒙武級 そして誇張なしに頭脳は李牧級」(キングダム)
と介億がいうほどの、知力・武力を合わせ持つ存在だったのですから。
呂不韋から離反後も昌平君は秦軍総司令の座にあり、黒羊丘の戦いなどで信たち現場の人間に指示を出していました。
現在、本編で行われていた 鄴(ぎょう)攻略戦も基本的に昌平君の作戦立案ですが、現場を率いる主章には
「授けた釉攻めの攻略は 戦局の流れによっては捨てていい」(キングダム)
と伝えていました。
この言葉からも昌平君が柔軟な頭を持っていることがわかります。
今後、秦王政の元で中華統一が進んでいくはずですが、軍総司令という昌平君の立場が揺らぐことはないでしょう。
【キングダム】昌平君(しょうへいくん)昌平君=楚の媧燐(かりん)の弟なの?
ここで史実に登場する昌平君を見ていきましょう。
といっても、『史記』に登場する昌平君の記述は多くありません。以下の件のみです。
- 楚の公子のひとりである。
- 若い頃に秦に人質として赴き、秦で頭角を現して、最終的には相国にまで上り詰めた。
- 紀元前239年、嫪毐(ろうあい)の反乱が起こると、昌文君と2人で鎮圧した。
- 紀元前223年、楚王負が王翦(おうせん)に捕まり楚が滅亡すると、項燕によって淮南の地で楚王に建てられる。
- 王翦(おうせん)、蒙武軍に敗れて戦死した。
公子ですから、昌平君が楚の王族の流れを汲むことは間違いありません。
しかし、昌平君の生年は不明のため、どの王族の公子かは不明です。
また、いつ頃に秦に来たのかもはっきりしていません。
『キングダム』では呂不韋の食客となったと描かれていますが、史実の呂不韋も孟嘗君や信陵君に対抗して1万人以上の食客を抱えていたといいますから、昌平君が世話になった可能性もあるかもしれません。
また、史実によれば、昌平君は相国に就任しています。相国といえば、『キングダム』で呂不韋が
「丞相を卒業するぞ」(キングダム)
とまで言いはなって就いた、国王に次ぐ高位です。
『史記』には、いつ頃相国に就任したかの記述はありませんが、『キングダム』では少なくとも嫪毐(ろうあい)の反乱の段階では、まだ右丞相でした。
とすると、これから昌平君をそれだけの地位に押し上げる功績があるはずです。例えば、現在の秦国の最大の敵である李牧は、秦国の策略によって趙王の信頼を失います。
この策略などを昌平君が指揮したとしたら、大きな功績になるでしょう(ただし、『キングダム』の政がそういった方法を好むか、という問題はあるのですが)。
そして、何よりも気になるのが、最後の一文です。史実によれば、なんと昌平君は、楚王が秦に捕まってしまうと、生国の楚に戻ってしまうのです。
そして、項燕により、楚王を名乗りますが、結局は王翦(おうせん)軍、蒙武(もうぶ)軍の前に討ち死にしてしまいました。
どの歴史書にも、なぜ昌平君が楚に戻ったか理由は示していません。
ここで『キングダム』ならではの理由を推測してみましょう。
キーワードは前項でも登場した媧燐(かりん)説です。
あれだけ思わせぶりに出てきた媧燐(かりん)ですからメインキャストに近い誰かではないかという推測、その中で楚出身とはっきりわかっているのが昌平君しかいないことが大きな理由となっています。
ただし、媧燐(かりん)は荒野をひとりでさまよった。
過去からして、おそらく下民の出です。
楚の公子である昌平君とは身分が違うように思えます。
例えば、実は昌平君も下民で、媧燐(かりん)同様に荒野をさまよっているところを公子として秦の人質に送るために拾われた、という展開も考えられます。
そこまで具体的でないにしても、貴人・王族が戦争孤児を何か役に立つかも、という理由で拾ったのかもしれません。
こじつけですが、これならば媧燐(かりん)と昌平君に血縁関係があってもおかしくはないでしょう。
【キングダム】昌平君(しょうへいくん)姉の死に目に負い目があって楚に走るのか?
先ほどの項目で、媧燐(かりん)含め現在登場している楚軍は、信や蒙恬(もうてん)率いる軍と死闘の末、鮮烈に討ちとらえるのではないかと推測しました。
希代の軍略家である媧燐(かりん)を打ち取るために、現場の武将たちはもちろん、秦国でも周到に作戦が練られるはずです。
例えば、媧燐(かりん)を最期に討ち取ったのがどの武将であれ、きっかけとなったのが昌平君の策だとしたら。
そして、その後に物が自分の生き別れた姉だと知ったとしたら、史実に沿うならば、自分の元を訪れた項燕によって昌平君はその事実を知ってしまうのではないでしょうか。
昌平君ほどの切れ者であれば、今この時に楚へ戻ったとしても、自分たちに勝ち目がないことい十分にわかるはずですが、それでもあえて戻ったのです。
姉を手に掛けたという自責の念を項燕にうまくつかれたとすれば、昌平君の不思議な裏切りにも、立派な理由ができます。
(もちちろん、これは『キングダム』に限っての推測になりますが)。
楚王に立った昌平君は王翦(おうせん)と蒙武(もうぶ)の軍に敗れます。
蒙武と昌平君は旧知の間柄で、介億の
「幼少期、あの蒙武(もうぶ)より強かったのだぞ」(キングダム)
というせりふからすると、幼なじみといってもいいのかもしれません。
とはいえ、大人になって秦最強といわれる蒙武(もうぶ)とでは、やはりの蒙武(もうぶ)の方に分があるのではないでしょうか。
もしかしたら、幼なじみである蒙武の手にかかって死ぬのは、死を覚悟していた昌平君の願いだったのかもしれません。
【キングダム】昌平君(しょうへいくん)まとめ
『キングダム』で、呂不韋と共に政の元に登場した昌平君。
作品では、蒙武をはじめとした体格が良い武人の中にあって、蔡沢に
「そこに貴様より強い男が一人おるぞィ」(キングダム)
と言わせるように、この後、秦国の軍司令官として右丞相という地位に就き、軍師養成学校を自費で運営して秦の富国強兵に務めながら、秦国一の戦略家として中国統一に向け貢献します。
しかしそんな昌平君は『キングダム』の中でも自らを
「元々…楚出身の俺が言うのだ」(キングダム)
と語っていますが、史実での昌平君も、
楚王の同母弟で楚の公子であったとされています。
史実から探る昌平君の今後とは?
『キングダム」では、秦と合従軍との戦いで万にひとつの辛勝策を練り上げるなど、秦の軍師として華々しく活躍している昌平君ですが、史実をみれば、今後の秦王政の中国統一にいろいろな意味で関わってくる人物であるといえます。
ここからは『史記』をはじめとした歴史書に見る昌平君から 『キングダム』での今後を考えてみたいと思います。
昌平君は『史記』に、紀元前238年、相国として昌文君と共に炒毒の反乱鎮圧にあたったとして登場します。
そして紀元前224年、楚の将軍・項燕が負け、楚王・負芻が捕虜となると、昌平君は逃げ延びた項燕にかつがれ蘭陵を首都として楚王を名乗ります。
しかし紀元前223年、王翦と蒙武の軍に攻められ、『東周列国志』では、城内を巡察中に流れ矢にあたって死亡したと記されています。
このように史実の昌平君は、祖国である造の滅亡を前に、中国統一目前だった秦の相国の座をなげうって、楚王として立つのです。
【キングダム】昌平君(しょうへいくん)クイズ