江戸時代末期(幕末)、京都治安維持のため結成された『新選組』(しんせんぐみ)。
局長「近藤勇」、副長「土方歳三」、隊士「沖田総司」など、彼らは小説やドラマ、漫画やゲームなどで取り上げられ、今でも歴史ファン魅了しています。
今後大河ドラマ『青天を衝け』では、『新選組』は、どのように登場していくのでしょうか?
是非最後までご覧ください。
2021年【大河ドラマ】新選組とは??
新選組とはどんな組織?
「攘夷大将軍を警護」するために結成された「警察部隊」です。
その後、京都の治安維持を担当しました。
隊には腕利きの剣士が多く、史上最強の剣客集団ともいわれます。
そんな『新選組』の主要メンバーをご紹介していきます。
2021年【大河ドラマ】新選組局長:近藤勇(こんどういさみ)
武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市)の農家に生まれる
1848年、江戸牛込の天然理心流剣術道場「試衛館(場)」に入門し、近藤周助から剣術を学び、後に養子となります。
1863年、清河八郎の献策により、上洛(京都へ行くこと)する徳川家茂(とくがわいえもち)警護のため結成された浪士組に加入し、土方歳三(ひじかたとしぞう)、沖田総司(おきたそうじ)、山南敬助(やまなみけいすけ)らとともに上洛します。
浪士組はすぐに江戸へ帰ることになりますが、これに従わず京都守護職の配下として京都の治安維持活動を行い、その後、働きぶりが認められ新選組の隊名が下賜(かし)されました。
下賜(かし)とは高貴の人が、身分の低い人に物を与えること。
会津藩より『新選組』の名前を与えられました。
同年、隊の規律をめぐって対立していた芹沢鴨(せりざわかも)を静粛。
以後、近藤が新選組局長として君臨しました。
池田事件ほか、尊王攘夷派志士の取り締まりで名をあげていきました。
池田屋事件とは?
1864年、近藤勇率いる新選組が京都三条の池田屋に集結していた長州藩を中心とした尊攘派志士を襲い、20数名を殺傷・捕縛した事件!
1867年、近藤、土方、沖田ら新選組太子105人が幕府の召し抱えとなります。
鳥羽・伏見の戦い後は江戸に引き上げ、甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)を結成するが、甲府入城に失敗してしまいます。
甲州勝沼の戦いに敗れ、下総流山で官軍に投降、1868年板橋において斬首されました。
渋沢栄一とも面識があり、『実験論語処世論』のなかで近藤を
「会ってみると案外温厚な人で、事の道筋を理解している人」
と評しています。
渋沢栄一に関して詳しくはこちら↓
2020年、近藤の愛刀「虎徹」がオークションに出されて話題になりました!
偽物だとの評価もされましたが、鞘に明治時代の政治家・金子賢太郎の字だと思われるもので「神奈川宿の中で村家当主から手に入れた」と書かれていて近藤の刀の可能性も出てきました。
こんなお宝、本物だったらすごいですね!
2021年【大河ドラマ】新選組鬼の副長土方歳三(ひじかたとしぞう)
1853年、武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市)に生まれる。
家業の石田散薬(粉薬のこと)の行商をしつつ剣術を学びはじめ、天然理心剣術道場の試衛館門人である近藤勇と出会い、1859年に同じ流派に入門した。
1863年、近藤らと浪士組に応募し上洛。
近藤及び芹沢鴨(せりざわかも)らと将軍の警護をする壬生浪士組(みぶろうし)を結成、その動きが認められ新選組の名前を与えられる。
新見錦(にいみにしき)、局長の芹沢を排して近藤局長、土方副長の体制が固まると新選組は池田事件、油小路事件などで実績を上げていきます。
油小路事件とは?
元新選組VS新選組の事件!!
御陵衛士(ごりょうえじ)の伊東甲子太郎(いとうかしたろう)(元新選組)は、新選組の襲撃を企てていたという疑いにより、逆に新選組の手で斬殺されました。
1868年、1月3日に勃発した鳥羽・伏見の戦いを皮切りに始まる戊辰戦争で敗走した新選組は、沖田総司や近藤らを失い縮小していきます。
榎本武揚率いる旧幕府海軍と合流した土方は蝦夷地(えぞち)へ渡り、榎本や大島圭介らと箱館・五稜郭に陣を構えて蝦夷共和国の成立を宣言します。
土方は陸軍奉行並として数々の戦いを指揮するが、1869年、箱館に上陸した明治政府軍と一本木関門での守備戦の指揮中に銃弾に倒れ落命します。
とても濃い人生で享年35歳。若くして亡くなったんですね・・・
五稜郭は5月17日に陥落。
これによって戊辰戦争は終結しました。
2021年【大河ドラマ】新選組一番隊隊長沖田総司(おきたそうじ)
新選組最強の剣士といわれる一番隊隊長・沖田総司。
近藤勇が当主を務める試衛館で天然理心流を学び、13歳で白川藩の指南役を倒し、20歳の若さで免許皆伝を受けるほどの実力者だったといいます。
新選組に入隊して多くの不逞浪士の取り締まりに奮闘します。
一瞬で三度の突きを繰り出す「三段突き(無明剣)」を好んで使っていて,池田屋事件での活躍をはじめ、前局長芹沢鴨(せりざわかも)の暗殺や脱走藩士・山南啓介(やまなみけいすけ)の静粛などにも関わり、名実ともに新選組で最強の人斬りとして語られるようになりました。
しかし、長州藩士を取り締まった池田屋事件において、喀血により、肺結核に罹っていたことが判明。
才能に恵まれながら、20代という若さで亡くなりました。
2021年【大河ドラマ】新選組ヒラメ顔の沖田総司?近藤勇は剣術が弱かった??
ここからはこれまで新選組のイメージとして語られてきたことと事実とはちがうということを解説していきます「。
沖田総司はイケメンじゃなかった??
沖田総司はドラマや漫画ゲームなどでは、美青年のイメージが強いですが、新選組後援者は「色黒で猫背な愛嬌のあるヒラメ顔」と証言を残しているし、実の姉が似ていると評した実孫の顔もハンサムとは言い難いそう・・・。
沖田総司が「新選組一の美形」というのは怪しい・・・
沖田が愛用したという三段突きに関しても、どのようなものだったのかわかっていない。
天然理心流は突きを得意とする流派だったので、後世の人が沖田の剣術に評判と合わせて創作したと推測されています。
実は沖田に関する確かな史料はかなり少なく、本当はどんな人物だったのか、謎が多いのです。
近藤勇剣術の達人じゃないの?
新選組の局長である近藤は、剣術の達人だったと思われること多いですが、若くして養子先の試衛館を継ぎ、新選組の精鋭たちをまとめ上げたのですから、そう思われるのも無理はないですね。
しかし、近藤は剣術の試合はめっぽう弱かったと言われています。
近藤は実践に強かった一方、型をつくって技を競い合う試合で真価を発揮するのは苦手でした。
人物像の史料が少ないからこそ、自由に描かれていて「新選組」の中でも人気のキャラクターなんですね~
2021年【大河ドラマ】新選組は刀剣主体の剣豪だったというのはウソ??
新選組は幕末一番の剣豪集団だったが、剣術にこだわり過ぎたことが仇となった。
討幕派が洋式装備を導入して近代的な兵制に切り替えていったのに対して、新選組は刀を主体とした白兵戦で戦っていました。
そうした兵制の違いが両者の差となり、新選組は討幕派との戦いで敗走を重ねることになったのです。
その真相は?
結成当初は剣術を重視していた新選組だが、禁門の変以降は兵制の洋式化を進めていました。
禁門の変とは?
長州藩が京都での復権を目指して、会津藩の排除を挑んだ武力衝突で、1864年7月19日、京都御所付近で戦闘となった。蛤御門が禁門の変の最大の激戦地になったことから、蛤御門の変(はまぐりごもんのへん)とも言われます。
鳥羽・伏見の戦いでは最新式の小型銃を装備して戦い、戊辰戦争ではほぼすべての隊士が洋装に切り替えるなど、時代に合った戦い方に対応していたのです。
小銃装備の剣豪集団
だんだら模様の羽織姿で、京の警備役として、攘夷派の志士を取り締まった凄腕のの剣客集団の新選組。
近代化の波が押し寄せながらも武士らしく最後まで刀で戦い続けて破滅の道を歩むことになってしまった・・・
しかし、だからこそそんなイメージが新選組の生き方として多くに人々の心を動かす理由なのではないでしょうか。
新選組には沖田総司や斎藤一といった超一級の剣士などが在籍し、京の治安を守っていたのは事実です。
しかし、事実は新選組が刀と和装で戦い続けたというのは誤解であり、かなり早い段階で西洋の技術を取り入れた装備へと転換が進められていました。
そのきっかけとなったのは1864年7月19日におきた禁門の変です。
禁門の変とは長州軍が京都でクーデターを起こした事件です。
この事件では新選組は幕府側として戦い、さぞ功績をのこしたのであろうと思われますが、刀主体の装備では大した活躍はできませんでした。
結果的には幕府が勝利を収めたものの局長の近藤勇と副局長の土方歳三は、この先の時代で新選組が活躍するには組織の強化を図ることが重要だと実感することになりました。
そこで出た具体策が人員の強化と装備の西洋化です。
翌年三月に本拠地を壬生から西本願寺に移した新選組は、装備や兵のの洋式化を幕府陸軍と、大砲や小銃などを多く準備して兵に訓練をさせました。
鳥取藩に残る記録によると、
「剣槍は差し置き砲術訓練盛んに相行われし候」
と、剣術以上に砲術が重視されていたことがわかっています。
また、効率よく運用することを目指し銃刀戦を指揮する「銃頭」という役職を新設し、さらには蘭学医の松本良順の指導で生活環境を改善するなど、西洋のすべてを取り入れようとしました。
こうした改革が実を結んだのが鳥羽伏見の戦いです。
鳥羽伏見の戦いについて、
「最新兵器を駆使する新政府軍に旧幕府軍がなす術もなく敗れた」
というイメージがあるかもしれませんが、事実は新選組の隊士全員が小銃を装備していました。
しかもその多くがフランス製の最新小銃で、刀は補助としての役割としてだけ装備し、新選組は刀主体の組織から脱却しつつある組織となっていました。
これまでの華麗な剣術のイメージとは少しかけ離れますね
しかし慣れない西洋戦術に苦戦をして過去の戦い方をして討たれる隊士もいたのは事実です。
またそもそも組織の西洋化を嫌う古参の隊士も多かったようです。
近藤勇が処刑された後元隊士の多くが新政府軍と戦いましたが、その中に和装で刀を使っていたようなものはおらず、ほとんどが洋装で小銃を装備していました。
しかもその多くがフランス製の最新小銃で、刀は補助装備として携帯していただけだったそうです。
すでに新選組は刀剣主体の組織から脱却しつつありました。
しかし、慣れない洋式戦術に苦戦して、白兵戦を試みて撃たれた隊士が多数いたのも事実です。
そもそも組織の洋式化に嫌がる武芸者肌の隊士も多く、鳥取藩の記録にも「西洋不服の士多々」と記されています。
軍学者の武田観柳斎(たけだかんりゅうさい)はその筆頭で、二番隊長・山南敬助(やまなみけいすけ)も西洋化に反対したといいます。
とはいえ、生死を賭けた戦いで刀にこだわることが得策でないことを、隊士たちは実感していたでしょう。
鳥羽・伏見の戦いに敗北した後も新選組は降伏せず「甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)」として各地を転戦しました。
近藤が処刑された後も元隊士の多くが新政府軍と戦ったが、その中に和装で刀を振るう者はいなく、ほとんどが洋装で小銃を装備していたといいます。
2021年【大河ドラマ】新選組『局中法度』の真実
新選組の強さを支えたもの。
それは強固な統率力です。
近藤勇と土方歳三は隊をまとめ上げるために厳しい掟を制定し、違反者は有無を言わさず切腹させたといいます。
こうした厳しい条項を含む鉄の掟は「局中法度』と名付けられ、新選組の厳しさを表すルールとして現代に伝わってきています。
『局中法度』の真実とは?
新選組に隊規があったのは確かだが、「違反者は切腹」という条項はなかったし、当時は局中法度と呼ばれていなかったそうです。
厳しいルールや局中法度という名称は、作家さんでっちあげであるそうなのです。
新選組隊規の実情
血気盛んな浪人たちをまとめるためにつくられた、新選組鉄の掟。
それが有名な『局中法度』・士道に背くべからず。
- 局を脱するべからず。
- 無断で金策を致すべからず。
- 勝手に訴訟を取り扱うべからず。
- 私闘をするべからず。
このルールに違反すれば、切腹や粛清は免れなかった。
隊規を元に組織は運営され、粛清された隊士は、新選組が成敗した志士の倍近くいたといいます。
しかし実際には、新選組はこれほど厳しく運営されたわけではありません。
確かに、新選組に隊規があったことは、隊士だった永倉新八が話していますが、その内容は、5項目のうち4項目だけで、私闘禁止のルールは含まれていなかった。
永倉新八は隊規のことを禁令と呼んでおり、局中法度という呼び名が幕末からあったことを示す史料は存在しません。
なぜ新選組の規律として局中法度と呼ばれた私闘禁止のルールが設けられたのか?
これにはのちの作家子母澤寛(しもざわ かん)が書いた
『新選組始末記』が影響しているといわれています。
子母澤寛(しもざわ かん)は1928年に出版されたこの小説において禁令を局中法度名づけ、本来はなかった私闘禁止の項目を付け加えたことが原因とされています。
子母澤寛(しもざわ かん)がこうした変更を加えたのは、
『軍中法度』を参考にしたからだとされています。
軍中法度とは?
簡単に言うと戦時用の隊の決まりのことです。
ここに私闘禁止の項目が含まれています。
おそらく、子母澤寛(しもざわ かん)はこの軍中法度を参考にして局中法度という名称をつくり、小説の内容を面白くしようとしたのではないかと思われます。
そしてこの小説が大ヒットし局中法度という作られた規律の名称がメジャーになっていきました。
実際の新選組では、規律に厳しい項目があるものの違反者が必ずしも悲惨な運命をだどったわけではなく、軽い罰や謹慎で済むことも多く、厳しい処分が決まっても、脱走が成功し罪を逃れたものも多数いたようです。
例えば柴田彦三郎のように潜伏先から連れもどされ切腹となった隊士も多いが、一方で脱走後にまた出戻りのようなことを許される隊士もいました。
2021年【大河ドラマ】新選組まとめ
今までのイメージやドラマ、アニメでは新選組はある意味、古き良きを大事にする集団とされてきましたが、近代的な武器など実用的な方法をとったりと、古きを大事にしながらも、新しさも取り入れた先頭集団だったのです。
どんな事実にしろ現代の人々を魅了する新選組が2021年【大河ドラマ】の渋沢栄一ではどのような描かれ方をするのか非常に楽しみであります。
新選組ゆかりの地観光
基本情報
八木邸(新選組壬生屯所旧跡)
住所:京都市中京区壬生梛ノ宮町24
問合せ先:074-841-0751(京都鶴屋鶴寿庵)
公開時間:9:00~17:00(現地ガイドがありますので16:30までに入場)
見学料:
●ガイド・抹茶・屯所餅つき
大人1,100円(税込)・中高生1,100円(税込)・小人800円(税込)
●見学のみ
中高生600円(税込)・小人300円(税込)
アクセス:
阪急電鉄「大宮駅」、京福電鉄「四条大宮駅」から徒歩10分
京都市バス「壬生寺道バス停」から徒歩1分
※駐車場(八木家北隣)は、ご見学いただいたお客様は30分無料