直江兼続(なおえかねつぐ)
直江兼続(なおえかねつぐ)
直江兼続(なおえかねつぐ)主君・謙信のすべてを受け継ぐ
越後(現在の新潟県)の上杉家に生涯仕えた直江兼続は、知勇兼備にして信義に厚い武士の象徴のような男であった。
幼いころから才覚を見せていた兼続は、すぐに上杉謙信(うえすぎけんしん)の目に止まり、謙信の養子である景勝の近習として側に置かれるようになる。
ただ、なぜ兼続が景勝の側近に登用されたのか明確な理由は不明である。
武田信玄(たけだしんげん)の使者が見せた不審な行動を兼続だけが見抜いたという逸話も残されているが、後世の創作である可能性が高い。
ともかく景勝の近習という役目を通して謙信に仕えることとなった兼続は謙信に追従する形で多くの戦場に出陣した。
戦いの采配や軍略など、謙信の能力と知識を見事に受け継いでいく。
また、兼続は兜に愛の文字をかたどった前立てを付けていたが、これには愛染明王を模すとともに、戦場にあっては私欲のためではなく、民のために戦うことを宣言した「愛民」の意味も含まれていた。
謙信は義のないの戦いを何よりも嫌っていた。
兼続は謙信から高潔な精神も受け継いでいたのである。
※実は上杉謙信の隠し子という説も・・・
1578年に謙信が病死すると、養子である景勝と景虎のあいだで家督相続をめぐる争い「御館の乱」が勃発。
景勝は遺言と称してすばやく春日山城の本丸を奪取、自分こそが謙信の後継者であると内外に宣言し、戦いを有利に進めることに成功する。
この行動を献策した人物こそ、ほかでもない兼続であったといわれている。
2年後、兼続の働きによって養子間の戦いに勝利した景勝は、謙信の遺領を相続。
この戦いを皮切りに、軍師としての才覚を発揮していく。
さてこのころ、兼続はまだ本名である樋口姓を名乗っていたが、直江兼続と名を改めるのは「御館の乱」が終戦してからである。
1581年、「御館の乱」での論功行賞のもつれによって、景勝の側近である直江信綱と山崎秀征が殺害される事件が発生。
直江家の当主であった信綱には跡取りがおらず、このままではお家断絶となってしまう。
ここで直江家の存続を願う景勝は、側近で信望の厚い兼続を信綱の正室であったお船と結婚させ、直江家を継ぐように命じ、直江兼続が誕生したのである。
そして直江家を相続した兼続は、名実ともに上杉家第一の重臣となった。
直江兼続(なおえかねつぐ) 徳川家康に叩きつけた挑戦状
上杉の最大の敵であった織田信長(おだのぶなが)が「本能寺の変」で倒れると、激動の時代に上杉家を存続させるため、兼続は国内外を駆け回るようになる。
そしてその働きは実を結び、上杉家は地方大名から豊臣秀吉政権下で五本の指に入るほどの大大名として名を連ねることになる。
そんなときに兼続が出会ったのが、石田三成(いしだみつなり)である。
ふたりが初めて会ったのは1583年。
互いに上杉家と豊臣家の和睦の使者として対面したし、歳も同じで主君からは絶大な信頼を受けている者同士、何か通じ合うところがあったのだろう。
ふたりは意気投合し、やがて気心の知れた同志、友ともいうべき仲になる。
一方秀吉が死去すると、この機を待っていたかのように徳川家康(とくがわいえやす)が動き出す。
家康は徳川を中心とした世をつくろうと画策。
そんな豊臣家を潰そうとするにする家康に対し、三成は憤慨した。
兼続もその義心に感じ入り、ふたりは打倒家康を誓う。
まず、居城である若松城を手狭と見て、約十二万人もの人夫を動員、会津盆地の中央部に巨大な神指城の造営を開始する。
それに合わせて、軍の移動を容易にするため上杉領内の道や橋の整備を進めていく。
こうして迎えた1600年・・・
兼続は来るべき決戦に向けてさらに軍備を強化していた。
この状況を見て上杉家に謀反の動きありと恐れた家康は、上洛して弁明するように要求。
しかし、これに対して兼続は
「そちらも軍を動かす準備を整えているようだが、越後へきて頂けるのならばいくらでも説明しようではないか」
といった内容の書状を家康に送りつける。
要は「来るなら来い」という挑戦状である。
さらに家康からの書状のなかにあった
「武具を集めているようだが、謀反の準備ではないのか」
という質問に対し、兼続は
「上方武士は、茶碗や炭取り箱など人たらしの道具を集めるそうだが、我々田舎武士は槍や鉄砲などの道具を集めている」
といった強烈な嫌みを込めた一文を添えて返している。
家康が権力誇示のために上杉家を攻めるならば、こちらは義の旗のもと堂々と徳川勢を迎え撃つ。
兼続の思いが込められたこのあまりにも挑戦的で痛快な書状は評判となり、「直江状」として後世に伝わることとなる。
ただし、この「直江状」の原文は残存しておらず、その文面は後世に書かれた可能性もある。
しかし、兼続がなんらかの書状を家康に送ったことは事実のようだ。
直江兼続(なおえかねつぐ)関ヶ原の戦いで敗北。自決を前田慶次郎に止められる
兼続の返答に当然ながら激怒した家康は、挑発に乗る形で上杉討伐を敢行し、大坂城を離れ、江戸城から下野小山 (現在の栃木県小山市)に陣を構えた。
この動きに対して、兼続は策を講じていた。白河の南方にある革籠原という平原に陣を構え、重臣たちを四方に配し、これらの軍で徳川軍を迎えうって家康軍を殲滅するというものである。
しかし、この策は空振りに終わってしまう。
実はこのあいだに三成が挙兵し、留守となった家康の居城・伏見城を攻め落としていたのた。
その知らせを聞いた家康は、上杉討伐を友軍の最上義光と伊達政宗(だてまさむね)、片倉小十郎(かたくらこじゅうろう)らに任せ、いったん西へと引き返してしまう。
伊達政宗(だてまさむね)
そして関ヶ原の地にて、全国の大名が三成を筆頭とする豊臣方の西軍と家康が指揮する徳川方の東軍とに分かれ、大規模な戦いが展開していく。
さて家康軍との対決がならなかった兼続は、関ヶ原での三成の勝利を信じ、最上義光領の出羽(現在の山形県と秋田県の一部)に出陣。
長谷堂城を舞台に激戦を繰り広げる。
しかし長谷堂城の戦いの最中、三成が負けたとの報に接した兼続はあまりに急すぎる敗戦に愕然としたのだろう、その場で自害して果てようとする。
直江兼続を思いとどまらせた人物こそ前田慶次郎
前田慶次郎 ( 前田 利益 )
前田 利益は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけての武将。滝川一族の出身だが、荒子城主・前田利久の養子となった。加賀百万石の祖・前田利家は叔父。利益以外にも利貞、利太など、さまざまな名前が伝えられているものの、現在では小説や漫画の影響で前田慶次/慶次郎の通称で知られる。
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前田慶次郎(まえだけいじ)の説得により敗北を受け入れた兼続は全力で撤退。
最上の援軍として伊達政宗までが現れる絶望的な撤退戦であったが、慶次郎が奮戦し、兼続が鉄砲を巧みに操って道をつくることで、無事越後へと辿り着いた。
「関ヶ原の戦い」のあとの兼続は、上杉家を存続させるために徳川への謝罪に奔走。
この戦いの発端は自分の責任であり、主君は一切関係なしとする兼続の言葉に家康は感心し、兼続は上杉家とともに許された。
しかし、減封を免れることはできず、上杉家の禄は百二十万石から三十万石に減らされている。
大所帯を抱える上杉家としては死活問題であったが、兼続は上杉の将兵たちを誰ひとりとして見捨てることなく、新たな上杉家のなかに組み込んだ。
以後兼続は粉骨砕身し、1620年、病をえて60歳でこの世を去るまで町の発展に力を尽くす。
兼続の跡継ぎが急逝していたため、直江家はお取り潰しとなるが、これは兼続自身が望んだことであり、兼続の禄は上杉家に加えられることとなった。兼続は死してなお、上杉家に奉公したのである。