武田信玄(たけだしんげん)自らの死を三年間秘するよう遺言
武田信玄で真っ先に思い浮かぶのは「風林火山」の旗印である。
軍旗に記されるのは
「疾如風徐如林侵掠如火不動如山(その疾きこと風の如く、その徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し)」
だが、
原典は「其疾如風其徐如林 侵掠如火不動如山」。
中国古代の兵法書『孫子』軍争篇の一節を引用したものである。
孫 武は、中国古代・春秋時代の武将・軍事思想家。兵法書『孫子』の作者とされており、兵家の代表的人物。斉国出身。字は長卿。孫臏の先祖。「孫子」は尊称である。
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まさにこの通りに行動した信玄は、「甲斐の虎」と称され、戦国最強の名をほしいままにしたが、ついに天下人にはなれなかった。
1573年、たびたび吐血するなど持病が悪化していた武田信玄は、行軍を停止して長篠城で療養する。
ところが病状に改善の余地はなく、すぐ甲斐への撤退を決意。
その帰途、三河街道上で死去した。
上洛して天下に号令するという信玄の夢は、あと少しのところで死をもって断たれてしまった。
享年53。
信玄は、死がもはや逃れられぬものと悟ったとき、嫡子・勝頼や諸将を枕元に呼んで遺言を残した。
『甲陽軍鑑』によると、それは
「自身の死を三年の間は秘匿し、遺骸を諏訪湖に沈めること」
というものだった。
また、後継者となる勝頼には
「信勝継承までの後見として務め、越後の上杉謙信を頼ること」
と言い残した。
武田の家督を相続した勝頼は、遺言を守って父の死を秘匿したが、三年を待たずして、信玄の死は諸大名の知るところとなった。
信玄の最大のライバルであった謙信は、信玄の死を知ると
「吾れ好敵手を失へり、世に復たこれほどの英雄男子あらんや」
と言って号泣したという。
武田信玄
武田信玄(たけだしんげん) クーデターを起こして父・信虎を駿河に追放
信玄は1521年、甲斐国守護・武田信虎の嫡子として生まれ、勝千代と名づけられるが、弟の次郎(のちの信繁)が誕生すると、父の寵愛は弟に移って勝千代は疎んじられるようになったという。
1536年、元服すると室町幕府第十二代将軍・足利義晴から「晴」の偏諱を賜って名を晴信と改め、継室(最初の妻は1534年に死去)に左大臣家の娘である三条夫人を迎えた。
1541年、晴信は二十一歳となる。この頃、父の信虎は信濃への侵攻をたびたびくり返していた。
甲斐の領民はこれに伴う軍役と、凶作に際する過酷な重税に苦しめられ、領主の信虎への不満を日々募らせていた。
晴信自身も、弟の信繁とだけ正月の盃を交わすなど、長男の自分を顧みない父に廃嫡の危機感を覚え始めていた。
ことここに至り、重臣の板垣信方や甘利虎泰らの協力を得て、信虎を駿河へ追放する。クーデターである。
このとき、信虎より晴信が武田家の当主であったほうが与しやすいと見た駿河の今川義元(いまがわよしもと)が、晴信の後押しをしたともいわれるが、異説もあり判然としない。
どちらにしても、晴信は武田家第十九代家督を相続した。
上杉謙信
武田信玄(たけだしんげん) 川中島での宿敵・上杉謙信との戦い
「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり」
どれだけ城を堅固にしても、人心が離れれば国は治められないという理を述べたものだ。
しかし、晴信は当初からこの考えに至っていたわけではない。
1547年、志賀城の笠原清繁を攻めたときのこと。
晴信は関東管領・上杉憲政の援軍が加わった笠原軍に、小田井原の戦いで大勝する。
この戦の最中、晴信は討ち取った約三千人の敵兵の首級を城のまわりに打ち立てて、城兵への脅しに使った。
結果、城兵の士気は大きく衰え、同じ目に遭うのを恐れて籠城を解かなかったため、笠原清繁以下、笠原軍の多くが討ち死にした。
また、晴信は残った女子供にも、人質や奴隷にするなどの過酷な処分を下した。
この一件により、信濃の国人衆に晴信への不信感が生まれたために、同国平定は大きく遅れ、1553年までかかってしまう。
上杉 憲政は、戦国時代から安土桃山時代にかけての上野国の大名。室町幕府の関東管領。山内上杉家15代当主。北条氏康に敗北した後、長尾家の長尾景虎を養子とし、上杉家の家督と関東管領職を譲った、謙信の死後、上杉家の家督相続をめぐり争われた御館の乱で戦死。 ※憲当、光徹とも名乗っているが、よく知られた憲政の名で統一する。
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同年、晴信によって国を追われた北信濃の大名・村上義清が上杉謙信(当時・長尾景虎)を頼ったことから、第一次川中島の戦いが勃発する。以後、同地を主戦場とした武田、上杉間の合戦は5回を数え、両者に因縁が生まれる。
ちなみに第四次川中島の戦いで最大の見せ場となった信玄と謙信の一騎討ちは、実際にはなかったとされる。
『上杉年譜』によると、信玄に討ちかかったのは荒川長実という武者で、この合戦中に討ち死にしたと伝えられている。
なお、この頃から、晴信は信玄を名乗るようになったと考えられている。
武田信玄(たけだしんげん) 天下に号令するため満を持しての上洛
1560年、盟友の今川義元(いまがわよしもと)が、上洛の途中、桶狭間に戦いで織田信長に討たれる。
これより弱体化した今川氏との同盟を破棄した信玄は、1567年、三河の徳川家康(とくがわいえやす)と共に今川領の駿河に侵攻する。
駿河を巡っては今川氏の縁戚である北条氏康の介入もあり、平定までは二年近くの月日を費やすこととなった。
1569年、信玄が駿河攻略にかまけている間に、信長が将軍・足利義昭を奉じて上洛を果たした。
しかし両者は対立、義昭は信長討伐計画を諸将に通達する。
信玄は信長の盟友である家康に圧力をかける一方、氏康が死んで代替わりした北条氏との甲相同盟を復活させた。
1572年、信玄は上洛するため、甲府を出発する。三万を超える大軍勢だった。
信玄率いる二万の本隊は、徳川氏諸城をまたたく間に落としていく。
同じ頃、信長は浅井長政(あさいながまさ)、朝倉義景、石山本願寺が形成する信長包囲網の前に、容易には動けない状態だった。
そのため、家康にもわずかな援軍しか送ることができなかったのです。
敗色濃厚となった家康が、籠城策を捨てて遠江三方ヶ原に出陣してくると(三方ヶ原の戦い)、信玄はこれを徹底的に叩いて敗走させた。
このとき、家康は恐怖のため、逃走中に馬上で脱糞したという逸話が残っている。
武田信玄(たけだしんげん) 自分の死後を見通せなかった信玄
信玄の死によって信長と家康の逆襲が始まると、勝頼も負けじと積極的に外征を行ない、勢力拡大をはかる。
信玄も落とすことができなかった遠江の高天神城を陥落させるなど、短い間ではあるが、この時期の武田の勢いは先代に勝るものがあった。
その流れが一気に変わるのは、1575年の長篠の戦いがきっかけだった。
この戦は、信玄以来の重臣たちが制止する中で強行されたもので、 織田・徳川連合軍による鉄砲と馬防柵を使った近代戦法の前に、武田騎馬軍団は、敗戦を余儀なくされる。
同時に、敗走する中で多くの有力武将を失い、領国経営にも大きな影響が出てしまった。
勝頼はなんとか流れを変えるため、上杉・北条との同盟を強化するが、上杉家の後継者争いで、北条から上杉に養子入りした景虎の支援を反古にし、北条との同盟も解消となってしまう。
そして1582年、天目山の戦いに破れて勝頼は自害。
甲斐・武田氏は450年の歴史に終止符を打った。
同時代では紛れもなく最強の座にあり、天下取りにもっとも近い場所にいた武田家が、死後十年を待たずして滅亡したのは、信玄への依存がかなり大きかったためだろう。
また、信玄が後継者の育て方と選択を誤ったことをも意味する。