- 本多忠勝(ほんだただかつ)
1548~1610年
通称:平八郎
徳川本家の譜代の家に長男として生まれ、幼いころから家康に仕えます。
家康について、13歳で初陣。同時に元服も果たし「ただ勝つのみ!」という意気込みから”忠勝"と名乗るようになりました。
【本多忠勝】「本多忠勝の行くところに敵はなし」
本多忠勝
最強の戦国武将は誰だろう?
神仏を恐れずに天下統一を進め”第六天魔王”を名乗った織田信長か?
はたまた、”甲斐の虎”と恐れられた武田信玄か?
いや、それとも”独眼竜”の伊達政宗か・・・?
武将にはそれぞれ武功があり、異なる特徴があるため、意見が分かれるのは当然ですね。
直接対決をした武将同士でも、お互いの軍勢や政治状況、戦闘を行った地形など勝負の結果に大きく影響するのですから、実力差を正確に計ることは不可能でしょう。
本多忠勝は13歳で初陣をかざってから、生涯で57回戦場に出ましたが、1回もキズを負いませんでした。
たったの一度も傷を負ったことがない武将がいるとしたら・・・ある意味その男が”最強の武将”ではないでしょうか。
徳川の家臣に、そんな猛者がいる。
57回もの戦を経験し、必ず無傷で帰還した男、本多忠勝です。
無傷だからといって、戦場で逃げ回っていたのではありません。
忠勝は、ときには軍勢の最前線で活躍し、またある時は高度な戦闘能力が必要とされるしんがりとなって家康を助けてきました。
徳川軍と武田軍が争った一言坂の戦いや、徳川家康が豊臣秀吉に挑んだ小牧・長久手の戦いでは、味方の逃げ道を確保するために最期まで戦場に残る、という危険な役目を務めていますが、この時も無傷でした。
家康の歴史的惨敗として知られる三方ヶ原の戦いにおいても、忠勝は敗軍を積極的にまとめ、撤退を成功させています。
忠勝の戦のほとんどが勝ち戦だったことは、家康が天下を取ったという歴史が証明していますが、数少ない敗北においても、主君をうならせる結果を出して、なおかつ自分は無傷で帰れることが忠勝のすごさなのです。
酒井忠次(さかいただつぐ)、榊原康政(さかきばらやすまさ)、井伊直政(いいなおまさ)と並んで”徳川四天王”の1人に数えられる人物としても知られ、戦場での功績は数え上げればキリがありません。
そうした本多忠勝の働きぶりは、天下の評判となります。
武田信玄は「徳川家康の家来にしておくにはもったいない男」
織田信長は「華やかさを兼ね備えた勇士」
豊臣秀吉は「日本一の武士」
と褒めたたえ、もてはやされました。
天下を目指す戦国武将にとっては、忠誠心と強さを兼ね備えた忠勝のような存在は、とにもかくにも魅力的だったのでしょう。
【本多忠勝】 無傷の武将・戦場での姿は?
57戦無傷の忠勝の武装は、意外にも軽装だったことが知られています。
体を守るための装備によって動きが鈍ることを嫌い、徳川四天王のひとり・井伊直政の重装備を批判していたという話もあるほどです。
ちなみに、戦のあとの直政は常に満身創痍だったといいます。
重装備では、歩くのさえ大変そう。。。
忠勝の戦場でのトレードマークは、鹿の角をモチーフにしたデザインの鹿角脇立兜と、肩から下げた大数珠、そしてとんぼ斬りとあだ名される長槍です。
兜の角は、できるだけ軽くするため、和紙を幾重にも張り合わせて黒漆で塗り固めたものでした。
大数珠は、戦場で討ち取った相手への弔いの意味があったとされています。
当時の槍の長さは4mほどが主流でしたが、トンボ斬りは刃長43cm、柄の長さは6mにも及んだそうです。
槍の穂先に止まったトンボが真っ二つになったと言われるほど鋭い「とんぼ斬り」という槍を一本手にしていれば、本多忠勝には防具など必要なかったのでしょう。
晩年、体力の衰えを感じた忠勝は、柄を短く詰めてしまったようですが、トンボ斬りは天下三名槍のひとつに数えられています。
【本多忠勝】 家康への影響力は並ではなかった??
本多忠勝の活躍の場は、戦場だけではなく、交渉ごとでも手腕を発揮しました。
徳川家康と石田三成が対決した1600年の関ケ原の戦いでは、家康軍率いる東軍味方を増やすために、各国の大名たちに手紙を送って、東軍勝利に大きく貢献しています。
これらの功績が認められ、伊勢桑名(三重県)に10万石を与えられました。
人心掌握が得意で、領民からも愛され、政治家としても有能だったようです。
忠勝は、家康に意見できる数少ない人物だったことでも有名です。
本能寺の変で、信長が没したことに衝撃を受けた家康が、後を追って自刃しようとするのを止め、滞在していた堺から三河に戻ることを進言したのは、忠勝でした。
さらに、関ケ原の戦いにあたって、西軍についた真田昌幸・幸村親子の死刑を阻止したかった忠勝は、家康に
「望みを聞いて下さらないのなら、それがしが殿と一戦つかまつる。」
と語り驚かせたといいます。
真田昌幸の長男・信之は忠勝の娘婿でした。
実際に真田親子は死刑を免れているので、忠勝の影響力がいかほどであったかがわかります。
【本多忠勝】 忠勝の娘がオトコマエ!!?
本多忠勝の娘で、徳川家康の養女として真田信之に嫁いだ小松姫も、父親譲りの豪胆さを見せつけています。
「関ケ原の戦い」において、、夫が東軍側の小松姫は西軍側の義父・義弟にあたる真田昌幸・幸村親子と対立。
昌幸は合戦が始まる前に
「孫と最後の対面をしたい」
と小松姫が夫の留守を預かる城に顔を出しました。
すると彼女は、城の前に立つ義父を一喝!!!
「すでに敵同士の間柄。交わす言葉はありませぬ。立ち去らぬなら討ち取るまで!!」
槍を手に仁王立ちする嫁を見て、昌幸は「さすが本多家の娘」と感心したそうです。
城内に迎え入れられたら、隙を見て乗っ取るつもりだったのです。
しかし、まったく取り付く島がない嫁の態度に、かえって安心したといいます。
小松姫の例は極端ですが、夫が出征している間は妻はある種の名代として、家中の結束に貢献したようです。
【本多忠勝】 晩年、生まれて初めての刀傷で...
そんな忠勝も、戦乱の世が治まり、徳川幕府が開かれると家康のもとから遠ざけられるようになっていきます。
政治や経済に強い大名たちが側近として台頭し始め、忠勝のような武芸や人心掌握を得意とする人物たちは必要とされなくなっていったのです。
時代を動かすために力を尽くした結果、忠勝自身が生きにくい世の中になってしまうとは、なんとも皮肉ですね。。。
そこで本多忠勝は長男忠政に当主の座を譲って、62歳で隠居。
翌年、領地の桑名で静かに生涯を閉じました。
長年仕えてきた家康のもとを離れての、不満を感じながらの最後でした。
隠居後の忠勝に、ある事件が起きます。
忠勝は、小刀で自分の持ち物に名前を彫っていました。
すると手元がくるってしまい、左手にキリ傷を負ってしまいました。
左手の小さな傷を見て
「本多忠勝も傷を負ったら終わりだな・・・」
とつぶやくとその言葉通り、この傷を負った数日後に亡くなったといいます。