皆さんはアニメキングダムをご覧になっていますでしょうか。
今は延期になっており、待ち遠しい限りですね。
漫画のほうも、わたくしはファンで読みあさっております。
今回は主人公信(モデルとなった李信将軍)の実際のところどんな武将だったの?漫画の今後はどうなるかなど実際の歴史書「史記」をもとにお話をさせていただこうと思います。
秦の始皇帝に仕えた李信という将軍との生い立ちや戦績、今後の予想などを、キングダムと史実を比較し徹底考察します。
是非ご覧ください。
【キングダム】の信は元々は高い家柄の出身だったかも
信が初めて従軍した際、自らたからかと
「城戸村の信とは俺のことだ!」
と名乗っているように、秦国の城戸村に暮らしています。
ただし、10年前にこの村の里典(村長)に戦争孤児として引き取られてきたのであり、現時点の出身は不明と言えます。
ちなみに作者の原泰久さんの生まれた佐賀の隣県であり、大学時代には氏が通ったと思われる福岡県には「城戸」という名字の約3割の方が住んでいるとか。
「城戸」は作者の耳になじんだ言葉だったのかもしれません。
※史実とは違うかもしれませんが、そこにキングダムの面白さ歴史ファンを引き付けるなにか作者原様のセンスとすごさがあるのではないかと思っております。
一方李信将軍ですが、出生は「史記」の「李将軍列伝」の中に手掛かりが記されています。
それによれば、もともとは槐里に暮らし、のちに隴西群成紀県に移り住んだといわれています。
地名辞書などによれば、前漢の高祖が廃丘を槐里に改名し、周の懿王や楚の章邯が都に置いた地域で、現在の陝西省咸陽市興平市あたりとされます。
つまり秦の都咸陽の近くです。
また隴西は現在の甘粛省の南東にあり、秦代に郡が置かれ、現在では甘粛省定西市に位置し、隴西県とも呼ばれています。
ちなみに、中国で一番多いといわれているのみならず、韓国やベトナムでもその姓が見られる李氏の発祥の地がこの隴西群成紀県だといわれ、一説では秦国の祖先とともに犬丘から咸陽に入った一族だともいわれています。
事実李信の末裔で、前漢の文帝、景帝、武帝に仕えた李広(りこう)は、李将軍列伝のなかで「良家子」の出身と記されています。
この「良家子」というのは、隴西、天水、安定、北地、上郡、西河の六郡の上流階級の子孫で武術に熟達した者を言うとされています。
つまり李信とは、もともとは実はかなり高い家柄出身の武将だったとも考えられるのです。
もしかしたら今後キングダムでも信の出生の秘密などが描かれていく可能性も考えるとますます面白くなっていきますね。
【キングダム】今後のキングダムの信は弓術を極めていく?
漫画「キングダム」の最初で、王弟成蟜(せいきょう)の反乱によって殺されてしまった、親友漂(ひょう)の形見として入手した王剣を血塗られた手で握りしめながら「李将軍、李信将軍」と歓呼され、大矛を握って騎乗する姿が描かれている李信将軍。
信はまさにその光景通り、その剣を手にして戦っています。
ちなみに王騎(おうき)の巨大な矛(ほこ)を使うようになり、麃公(ヒョウコウ)の盾を使うようになります。
※アニメでは少し先の話になります。ネタバレの場合はごめんなさい。・・・
しかし、合従軍戦2年後の紀元前239年の21歳となった信は、飛信隊軍師である河了貂の言葉を借りれば「自ら先陣にて矛をふるい軍の指揮を高める武将」として
「受け継いだ王騎将軍の矛を使う準備に入っているんだ」
漫画キングダム35巻
「皆とともに修羅場をくぐりなさい、素質はありますよ信」
漫画キングダム16巻
と言われながら死の間際の王騎から託された矛を手に戦う武将へと成長していきます。
つまりこの後の信は、政のもとで戦国七雄の武将たちを相手に、先陣に立って矛を振り回し戦うような将軍に成長していきます。
実際に単行本のほうでは剣から矛、そして王騎の矛を使って様々な武功を手にし将軍になっています。
「史記」の「李将軍列伝」の信とは
しかし「史記」の「李将軍列伝」によれば、李広の家は代々弓術を習い伝えたと記されています。
李信の子孫である李広は、前漢の文帝で匈奴(きょうど)が大挙して侵攻してきたときに良家子として従軍したと記されていますが、ここには、馬上の弓術が巧みで数多くの匈奴を殺して捕虜にしたと記されています。
そのあとも李広(りこう)は、景帝、武帝に仕えた弓に優れた将軍であったと記されています。
李広が生まれた年は不明なのですが、紀元前166年に良家子弟として従軍し、紀元前119年にの頃には、高齢を理由に匈奴との戦いから外されていますから、従軍したのは10代、もしかしたら10代前半であった可能性があります。
また「史記」の「白起王翦(おうせん)列伝」によれば李信は年若くたくましく、わずか数千の兵で燕(えん)の太子丹を追いかけて首を討ち取ったと記されています。
この丹が、討たれたのは紀元前226年(始皇帝21年)ですから、この当時に将軍王翦(おうせん)に従って燕(えん)の首都の薊を攻めた李信は、秦国のなかでもまだ若い将軍だったとされています。
つまり少なくとも20代だったと考えられます。
実際は勇猛果敢な剣や矛を振り回す武将ではなく弓術?
李信と、その子孫である李広の歳の差はおおむね80~90歳くらいだと考えられ、つまり李広は李信の孫もしくは曾孫、遠くとも玄孫だったとかんがえられますから、直接教えた・・・
とはいわないまでも、
李広はまさに李信から代々弓術を引き継いだ可能性が高く、つまり李信は弓術に長けた武将だったと考えられるのです。
しかし、始皇帝の覇業を支える将軍となっていく李信という将軍の成長を描く「キングダム」の、ある意味無謀ともいえるほどの勇猛果敢に敵軍に立ち向かう信の姿が、敵国の将軍を射って討ち取る姿はあまり迫力にかけます。
下僕であった少年が、のちに秦始皇帝となる当時は秦国弱王であった嬴政(えいせい)と出会い、その覇業を大将軍として支える姿が描かれていく物語の展開を考えれば、まさに、大将軍として先陣に立って大矛をふるい、敵軍を薙ぎ払う信こそが、この物語に相応しい李信将軍の姿と言えるのではないでしょうか。
【キングダム】信の行く末に待っている大失敗とは?
作品の中で信は、紀元前245年(始皇2年)の魏を攻める麃公(ひょうこう)軍に15歳で従軍し、呉慶将軍っ率いる魏軍と蛇甘平原(だかんへいげん)の戦いで、その功によって百将(百人将)となります。
そして、紀元前244年(始皇3年)に、龐煖(ほうけん)将軍率いる趙が秦国に攻め込んできたとき、王騎将軍直属の特殊百人部隊の百将と任命され、さらにその戦いの最中王騎に「飛信隊」という名を与えられます。
そこでめざましい活躍をみせ、その功により特殊部隊のまま三百人将となります。
そして信は、紀元前242年(始皇5年)に始まった対魏大攻略戦に蒙驁(もうごう)大将軍が率いた20万の軍に加わったとき、同じ三百人将として出会った、特殊三百人隊玉鳳隊 の王賁(おうほん)や特殊三百人隊楽華隊蒙恬(もうてん)といった同世代の人物たちと競い合い、前線で、王賁(おうほん)と蒙恬(もうてん)が千人将に任命されると、
「敵将の首じゃ、千人将なら3つ以上将軍なら1つ以上の首をあげてもらう。落とせなかったら三段階降格し伍長からやり直しさせる」
マンガ キングダム19巻
と蒙驁に約束させられて臨時千人将の昇格しました。
約束通り廉頗(れんぱ)四天王のひとり 輪虎(りんこ)を討って名実ともに千人将となります。
その時の論功行賞の政と信の場面ではその後信が大物になっていくような感覚を家臣たちは不思議な感覚として描かれていました。
その後副長羌瘣(きょうかい)の離脱による作戦の不備で千人将はく奪の危機に見舞われるものの、昌平君(しょうへいくん)の食客となって軍師へと成長した河了貂(かりょうてん)が加わったことで飛信隊はよみがえりました。
その後、紀元前241年(始皇6年)に起こった秦と合従軍の戦いで、趙の将軍万極(まんごく)を討ち蕞(さい)で李牧の趙軍と戦って龐煖(ほうけん)と一騎討ちを繰り広げて深傷を追わせ、この論功行賞によって三千人将に任命されました。
そして現在は将軍の位にやっと上り詰め、将軍になるために姓が必要といわれ「李」という姓を名乗ることになりました。
【キングダム】「史記」にみる李信(りしん)将軍の活躍は?
では「史記」にみる李信将軍の活躍とはどのようなものなのでしょうか。
まず上げあれるのは、「刺客列伝」に記された、王翦(おうせん)将軍に従って従軍した紀元前236年(始皇11年)の趙攻めでの活躍です。
このとき李信は、数十万の大軍を率いて趙を攻め落とした王翦(おうせん)に従って、太原・雲中に打って出て、趙の都を陥れ陥落させ全土を平定する
ことに貢献したとされています。
「白起王翦(おうせん)列伝」によれば、趙を平定した紀元前228年(始皇19年)の翌年、燕(えん)の太子丹が 荊軻(けいか)を説得して始皇帝を暗殺させようとしたことへの報復として、始皇帝が王翦(おうせん)に燕(えん)を攻めさせた際、王賁(おうほん)とともに燕(えん)に攻め入っています。
この時李信は数千の兵で燕(えん)の太子丹を衍水(えんすい)の辺りまで追いかけてとうとう打ち破り、その首を得たとされています。
これによって李信はその武勇と賢明さを始皇帝に気に入られたとされています。
さらに「白起王翦(おうせん)列伝」によれば、始皇帝に気に入られた李信は、始皇帝が、楚(そ)攻略を考えたときに「兵は何人必要か?」と聞かれ、「20万」もあれば大丈夫と豪語し、始皇帝始皇帝が同じ質問を王翦(おうせん)にしたところ「60万は必要でしょう」と答えました。
「それほど楚(そ)を恐れるとは王翦(おうせん)も衰えたか。勇猛果敢な李将軍の言葉に間違いはないだろう」と王翦(おうせん)に変わって楚侵攻の指揮を任されています。
こうして李信は蒙恬(もうてん)とともに20万の兵を率いて楚を征伐に出陣し、二手に分かれ、李信が平与、郢など平輿(河南省駐馬店市)、蒙恬軍は寝丘(同信陽市)などを攻め攻略しました。
しかし、軍を西に進めて城父で蒙恬と合流しようとしていた李信は、三日三晩休むことなく楚のあとをつけその軍におそわれて、城に攻め入られて部隊長7人を殺されるという大打撃を受けて大敗してしまうという大失態をおかしてしまいました。
この不手際に始皇帝が激怒したと記されていますが、李信はその後も紀元前222年(始皇25年)から紀元前221年(始皇26年)に王賁(おうほん)とともに燕や斉の領土を攻略平定されたとされているので、失態によって将軍を罷免されてといったことはなく、その後も秦の将軍であり続けました。
ちなみに楚の攻略は始皇帝が王翦(おうせん)に「もうしわけなかった、楚攻めをやってくれるか」と頼み、断っていたが最終的には当初の60万という兵力で出陣し見事攻略しました。
【キングダム】今後のキングダム信の動向を独断と偏見で予測
「史記」に記述でもわかるように、史実も李信が始皇帝に気に入られた武将の一人だったということがわかります。
ライバル蒙恬(もうてん)、王賁(おうほん)とともに、始皇帝の中華統一を最後まで支えた秦末の「秦三代将軍」のひとりといっても過言ではありません。
ただし戦がなくなると蒙恬(もうてん)のようにその後の本人の功績や行く末が「史記」に書き残されていません。
かなり後世になって、その子孫の生く末が書かれた史書もあるのですが、その系図はあまりあてにならないものです。
つまり、紀元前221年(始皇26年)に始皇帝の天下統一を見届けた李信は、歴史からその姿を消してしまったのです。
ただし、死亡した記述はなく、子孫の李広もいるので、秦末や楚漢時代に参加して戦死したりもしていないと思われます。
しかしこの後、始皇帝は、書経・詩経・諸子百家の書物を焼き、儒者たちを生き埋めにした焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)や不老長寿に傾倒した錬金術を研究させるなど、のちに暴君とよばれるもととなる奇行を始めます。
(個人的にはキングダムでも描かれているとおり、法治国家を目指す始皇帝と、儒教を基本とする地域などの軋轢などから儒教よりの後世の人々が言い出しただけだと思いますが・・・)
キングダムとは信から李信への成長を描く物語
キングダムを読んでいる皆さんはあたりまえかもしれませんが、信はのちに始皇帝となる嬴政(えいせい)の元で李信将軍へと成長していく人物であります。
すぐに少年期の信が登場します。
そのことで「キングダム」は信の成長がテーマであることを印象付けていると考えられます。
それでは、物語に登場したばかりの信とはどんな人物だったでしょうか。漂という良き友達、良きライバルを持ったことで、戦争孤児であり下僕のような生活を、剣技という適度に目標も持てる遊びに明け暮れながら自らに
「僕は大将軍になるんだ」
と言い聞かせ、辛い生活をとにかく生き延びている少年というふうに映った人もいるでしょう。
漂は本当に大将軍になることを目指していたのかもしれませんが、登場した頃の信はといえば、
「友達が言うから」
「もしかしたらこの生活から抜け出せるかも…」
といった短絡的思考で、日々の辛い毎日を省みずに済むように目標を持って生きる漂にただ追従しているだけの、ある意味健気に生きる少年に思えました。
1話目で里典の子供に殴られ、睨みながらもじっと我慢したにもかかわらず、その後には
「あいつらみんなぶんなぐってこんな家出て行ってやる」(1巻6P)、
キングダム1巻
「じゃあ盗賊にでもなるさ!」(1巻7P)
キングダム1巻
と、できもしないであろう事を口にする姿に、その内面をうかがい知ることができるでしょう。
それは、
「戦争孤児で下僕のような生活」
まではありえませんが、不況に沈み手が届くぐらいの明るい展望は描けず、まさに夢のような目標を掲げるしかない現代の日本人が共感を覚えそうなキャラクターだとも思わせます。
普通に考えれば、信があのまま剣技を磨いたところで中国随一の大将軍になることなどありえないでしょう。
漂がいなくなった1ヶ月後、信は買い出しに行った街で
「お前少し変わったな信」
「赤ちゃんザルが小ザルになったって感じだ……」(1巻SP)
キングダム1巻
と店のおやじに声をかけられます。
前ページを見れば、信はひとりで剣技を鍛えるでもなく野良仕事と料理に黙々と頑張っています。
大望を語る友が身近から去り、地に足を付けた生き方を始めたといった姿に見えます。
その後信は、街で宮廷のクーデターを聞き、親友の死をまことしやかに語られても、激発するどころかただ親友が生き延びることを願いながら小屋で寝てしまいます。
これらの行動を見ても、現実に目覚めた信をうかがい知ることができると思います。
しかし、そんな信に今度はとんでもない転機が訪れます。宮廷に召し抱えられた親友の漂が目の前に瀕死で現れ、やがて死んでしまいます。
しかしここでも信は最初、死した親友が託した手紙すら見ようとせずただ暴れるだけです。
里典の子に殴られ、子供らしい実直さで手紙を手渡され初めて行動するといった状態です。
その後信は言います。
「漂はいけっつった。だから行くだけだ!」(1巻8P)
と。ここで信は、
漂という道しるべを周りを見ずにただ追いかけていた自分に戻ります。
見方によれば、信は死した親友に死して追いつこうと決意したようにも思えます。
信が大将軍ではなく漂だけを人生の道しるべにしていたことは、政の回想の中の漂のこんなセリフでうかがえると思います。
「私が勝てない猛者がいたとしても信はその猛者に勝てます」
「信はいつも真剣ですただどういうわけか私とは互角なのです」
キングダム
つまり信はすでに剣技で漂を超えていたにもかかわらず、大将軍という目標をしめしてくれる漂を、無意識のうちに負かすことができなかったということが考えられるのです。
しかし信はそこで、漂とそっくりな秦王である政と出会います。
信はここで新たな道しるべに出会ったのです。それが政だったのです。
信にとって、漂と同じ顔をし、漂以上に理詰めで物事を語る政の言葉は、まさに道しるべとなる説得力があったのではないでしょうか。
政とともに一端窮地を脱した信は
「俺と漂の路のためにお前を利用するだけだ」
キングダム1巻
と言い、政を新たな道しるべとすることを決意します。
もはや生き延びるのも厳しいという周りの状況を見ることを止めたように付き従うのです。
その後の信は、自らの剣技と秦王の政が身近にいるということだけを頼りに「大将軍になる」という遠い夢に向かってまさに猪突猛進します。
信が政を新たな道しるべとしながらも、この時点では「大将軍になる」ということを目標というより夢のように考えていることは
「俺はどうしたら将軍になれるんだ?」
キングダム2巻
という信のセリフに見ることができます。
つまりこの時点で信は、政と昌文君の軍勢と出会うまでの恩賞で家や土地や地位の望むのではなく、あくまで政を道しるべに「大将軍」になるという夢を見ながら政に付き従うことの決めたのだと思わせるのです。
政に従った信は、その後戦いの中で戦闘力を磨き、様々な人との出会いを通し內面を成長させていきます。
昌文君や壁との出会いももちろんですが、何よりも信を成長させたのは現時点では王騎に他ならないと思います。
王騎との出会いと親交、そして別れは、信を大きく成長させたと思わせるのです。
龐煖との戦いに深手を負った王騎の愛馬に跨り戦場を駆け抜けながら、王騎に将軍の何たるかを説かれ
「いや少しは何か分かった気がする」
キングダム
と答える信。
そして信は、死の間際の王騎から愛矛を渡されます。
その後の信は、王騎に突如無法地帯に落とされ人を率いて戦う方法を覚えた以降にも増して、
「ザコ部隊をいくつ倒したって……意味はねェ」
と、目の前の戦いに拘るのではなく戦局全体を見据えたような言葉を口にするようになります。もはやこの時の信は、漂や政といった他人を道しるべにする人物ではなくなったのではないかと思わせます。
自ら考え目標を決め生きる人間へと成長し始めたと思わせるのです。
さらにその後の合従軍との戦いで、李牧の軍勢に秦を攻め入られ、最の砦で守り抜き李牧を撃退した後の政との会話の中に
「民もバカじゃねェ連中も乗せられてることに気づいてんだろうな気づいてなお あんなに目ェ輝かして最後まで戦ってくれたんだと思うぜ」
キングダム
といった信のセリフがあります。まさに自戒するように語るその言葉は、信が自らにも当てはめながら語っている言葉のような気がします。
そして、信は今後も李信将軍へとなるためにさらに成長していくのでしょう。
【キングダム】のちに秦国将軍李信へ 李信とはどんな人物なのか?
李信は『史記』の中で、本紀にも記されておらず、単独の列伝も残されていない謎の多い将軍です。
「史記」の中で李信が登場するのは「白起王期列伝」と「刺客列伝」です。
その中で李信は若々しく勇ましい人物であったと記されています。まさにそれは『キングダム」の信を彷彿とさせる姿であったようです。
『白起王翦列伝」ではその他に、「紀元前229年に王翦が趙を攻めた際、李信が趙の太原と雲中に出撃した」と記されています。
また
「紀元前227年に、燕が秦王政の暗殺を企てるも失敗に終わった際も、1000の兵を持って燕の太子丹を行水まで追いかけ破り、太子丹を捕虜にした」
と書かれています。
この手柄で李信は始皇帝に大変賢く勇ましいと褒められたと記されています。
さらに「白起王驚列伝」の中には、始皇帝が楚を攻めるにあたっては上記前半でお話しましたが復習もかねて再度解説します。
「どれだけの兵力が必要だろうか?」
と問い、それに対し李信は
「20万の兵があれば十分」
と答え、その後始皇帝は同じ質問を王翦(おうせん)にも行い、王翦(おうせん)は
「80万の兵がいなければ不可能」
と答え、始皇帝が王翦は老いて気が弱くなったのかと怒り、李信に兵を率いらせて造を攻めさせたと記されています。
そして李信は軍を任されて楚へと進軍します。李信は最初言葉通り楚の攻めて破ります。
しかし楚軍の伏兵に攻撃され大敗し、追われて7人の武将を討ち取られ敗走させられてしまうのです。
しかも紀元前224年には王翦が3万の兵を率いて楚を平定したとされています。
まさに李信は、王朝を引き立てるような大言壮語し敗北した情け無い将軍にさせられているのです。
ある意味これも信らしくもありますが、『キングダム』ではどのように描かれるのでしょうか。
その後も李信は、王翦の子である王賁と共に燕と斉を破って平定したとも記されており、敗戦によって降格され王賁の配下に入ったりしたのかもしれませんが、大敗を喫しつつも大きな罰を受けることなく、始皇帝の臣下として軍を率いて戦い、秦王政の中国統一にしっかりと貢献したと考えられるのです。
しかし「史記」は前漢の武帝時代の司馬遷によって記され、紀元前5年に成立した歴史書です。
記述の正確さは兵馬俑の発見などで証明されてもいますが、李信が生きた時代からすれば100年以上ものちの世ということになり、「史記」が書かれた時点で李信はすでに歴史上の人物であったわけで、その姿を正確に伝えているかはさだかではありません。
【キングダム】『新唐書』に残された李信(りしん)の家系図の意味とは?
中国唐代の正史である「新唐書』には李信の家系が記されています。そこには唐を建国し初代の皇帝となった李淵が、李信の子孫であると記されています。
ちなみに「新唐書」によれば、李信は秦の大将軍になったのちに贈西侯に封ぜられ、李信の子李超は漢の大将軍となって漁陽太守に任ぜられたとされています。その李超の子が李広です。
李広は文帝・景帝・武帝に仕えた中国前漢時代の将軍で、紀元前166年には匈奴征代の功があったと記され、匈奴から飛将軍と恐れられた武勇の将軍であったとされます。
その李広の子孫は、五胡十六国時代に西涼を建国し、武将王となった李嵩へと繋がります。
その直系子孫には盛唐時代の詩人李白も名を連ねています。
このように李信の子孫は中国の歴史に名を残す隴西李氏という名家なのですが、秦滅亡時に李信の子孫がどこで何をしていたかといった記録は無く、これほどの歴史上の人物を排出している李信の子孫が、その時期になぜ歴史の表舞台に出てこなかったのかははっきりしてしていないのです。
そのためじつに謎の多い家系であると言われています。
ただし「新唐書」とは西暦1060年に成立した歴史書であり、李信が生きていた時代からは1000年近くものちの書物です。
現在の『新唐書』の李氏の家系図に対する一般的な説は、中国古代十大名門塁族のひとつである麗西李氏の家系の正当性を担保することを目的として後世に記されたのであろうとされています。
【キングダム】大将軍たちとの出会いが信を成長させる
『キングダム」の登場人物は基本的にみんな強い信念を持っています。中でも信と政の精神の強さは群を抜いています。2人が深く影響しあっているのは間違いないのですが、他にも信の成長に影響を与えた人物がいます。
第一に挙げられるのが、やはり「秦国の怪鳥」こと王騎でしょう。
がむしゃらに突っ込んで行くだけの信に「兵を率いることの難しさ」「集の強さ」を実戦で思い知らせたのが王騎(おうき)でした。
信が率いる隊に「飛信隊」という名を与えたのも王騎です。
秦趙攻防戦で、王騎の指示に従って見事に趙軍の馮忌を討った信に、王騎は
「馮忌を討ったあなたの名はおそらく――そのうち中華全土に広まります」
と告げます。
そこで信はようやく実感するのです。
「これをくり返せば少しずつでも名が全土にしみ込んでいくそうやってなるんだ 天下の大将軍に!」(第3巻のページ)
王騎は「大将軍の生き様」とともに「大将軍への成り方」も教えてくれた存在でした。
続いて挙げるなら、魏に亡命中の道の大将軍・廉頗(れんぱ)です。
廉頗は秦六将と拮抗していた趙三大天のひとりでした。
廉頗との遭遇で、信は初めて敵の大将軍の姿に触れたのです。
廉頗の指摘で信は目的をさらに具体的なものにします。
それが、秦六大将、趙三大天がなし得なかった大業「中華の統一」でした。
政の路と信の路がここで重なったのです。
さらにもうひとり、信の成長を促した人物を挙げるとすれば、趙軍の万極ではないでしょうか。
万極は秦軍が趙軍40万人を虐殺したという長平の生き残りでした。
対峙した信は
「ひ人は で 出口なき闇でえ 永劫に呪い合い こ 殺し合う」
という万極の怨念(おんねん)に引き寄せられてしまいます。
そんな信を食い止めたのが、
「境があるから内と外ができ敵ができる国境があるから国々ができ戦いつづける」
という政の思想でした。
大将軍という自分の夢のためだけでなく、政が行おうとしている大業の意義を理解した瞬間。
それが万極戦だったのではないでしょうか。
「俺はその金剛の剣だ」
というセリフには、信の意識が広がったことが示されています。
将来、信がならなければいけない、秦国王を護り援ける「李信大将軍」の姿が、このセリフからはっきりと読み取れるのです。
最大の強敵・李牧が信に「李」の姓を与える?
ところで、ここで1つ疑問が出てきます。
信は「信」のままです。
李信とは一度も呼ばれていません。
蒙驚(もうごう)、蒙武(もうぶ)、蒙恬(もうてん)の一族を考えるとわかりやすいのですが、それなりの地位の一族には「姓」があります。
しかし、下僕出身の信や漂には姓がありません。
ということは、信が李信になるためには「李」の姓をもらう必要があるのです。
現在、作品内に登場する李姓は2人。
趙国元宰相の李牧(りぼく)と、呂氏四柱のひとり李斯(りし)です。
このうち李斯はいまだ信との接触は少なく
(史実を考えれば、これから政と深く関わってくる人物なのですが)
、反対に、李牧と信の間には深い因縁があります。
王騎将軍の死しかり、最防衛戦しかり。
また宴の際に直接会話をしたり、第巻162ページでは、楚の春甲君(しゅんしんくん)と趙の李牧との密談現場にも居合わせています。
合従軍と最防衛戦で敗北した李牧は現在、趙の宰相の任を解かれていますが、信の最大級のライバルといっていいでしょう。
この李牧から「李」を受け継ぐとすれば、物語に華も添えられるのではないでしょうか。
李牧の項目で詳しく触れますが、『史記』では、李牧は秦国の奸計によって謀反の疑いをかけられ、趙王に暗殺されてしまいます。
現在の政はそんな姑息な手段を取るようには思えません。
また、信自身も李牧に
「お前は俺が正面から越えなきゃなんねェ壁だからな」
と言っています。
とすると、暗殺という史実に政、信がどう絡んでいくのか。
信の姓は本当に李牧からのものなのか。
それはこれからの見どころのひとつでしょう。
まさかの史実の李信将軍は強い将軍ではなかった?
『キングダム』の読者、とりわけ信のファンにとって気になるのは、史実との兼ね合いではないでしょうか。
実は李信という将軍、『史記』にはそれほど顔を出していません。
紀元前229年、王翦(おうせん)が数十万の軍を率いて趙と対峙したとき、李信も出陣していたこと、紀元前226年、王翦(おうせん)と王賁(おうほん)が燕王と太子を遼東に敗走させた後、李信がこれを追撃し太子を討ち取ったことなどの記述がありますが、大活躍というにはほど遠いのです。
それに加えて、紀元前225年には、蒙恬とともに花に侵攻しつつも将7人を失うほどの大敗を喫した、とあり、その後、王翦(おうせん)に任務を取って変わられています。
しかし史実でも不可解なのは、大損失をもたらしたにもかかわらず、秦王からお咎(とが)めがなかったらしいことです。
楚の失敗から3年後の紀元前222年、燕の遼東を攻めてこれを減ぼしていますし、紀元前221年には王賁、蒙恬と斉を攻略しています。
これらからも李信が普通に軍役に就いていたことがわかります。
当時の秦王は史実上は苛烈(かれつ)でしたから、あれだけの失態を見せた李信は即座に首を刎ねられてもおかしくはないはず。
にもかかわらず、何も沙汰がなかったというのは、李信もそれだけ秦王の信用を得ていた武将なのかもしれません。
一方、『キングダム」の信も、政の中華統一の上で、この李信敗北のエピソードは避けて通れないでしょう。
少なくともそれだけの大敗を喫してしまえば、大将軍と豪語するのは難しくなってしまうはずなので、この史実と作品との乖離をどのように原先生が料理していくのか、非常に楽しみなところではあります。
なお、『新唐書』によれば、李信の家系はやがて唐を建国した李淵につながっていくとされています。
しかしこの家系図は李淵を名家の出身にするため後付けされたものともいわれており、信の妻や子については不明なところが多いため、もしかすると今後、信は河了貂(かりょうてん)や羌瘣(きょうかい)、後宮女官の陽などとのロマンスが描かれるかもしれません。
こちらも要注目です。
【キングダム】信についてまとめ
理想としては政が死んだあと政の子供や孫たちに仕え、あのキャラクターで剣術や政との思い出を子供たちに話すなどのように描かれてほしいと思っています。
最後までご覧いただきありがとうございました。
キングダムおすすめ動画
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