今後大河ドラマ『青天を衝け』では、幕末・明治期の偉人:五代友厚(ごだいともあつ)西の五代、東の渋沢と称された2大実業家です。
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今後大河ドラマではどのように登場していくのでしょうか?
渋沢栄一とはどのように関わっていくのか?
是非最後までご覧ください。
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五大友厚(ごだいともあつ)とは?
薩摩藩儒官・五代秀尭(ごだいひでたか)の次男として生まれます。
藩の群方書役助(こおりかたかきやくたすけ)となり、1857年、長崎へ派遣され、海軍伝習所で航海術や測量、砲術などを学び、勝海舟らと出会います。
儒官とは?
儒学をもって公務に就いている者のことです。
郡方(こおりかた)とは?
農村を回って農業について調査を行い、年貢などの監督をする部署です!
1862年、御船奉行副役となり、藩命でイギリス人武器商人のグラバーと上海へ渡航して汽船を購入します。
翌年の薩英戦争で捕虜となるが脱走して、貿易促進などを上申(意見を上の者に申し述べること)しました。
1865年、薩摩藩の遣英使節団として、イギリスをはじめ、欧州各国を視察し渡欧中に貿易業務を行いました。
明治維新後は、海外で培った知見や実務経験を活かし、新政府の外交事務掛となり、外国官権判事、大阪府権判事兼任となり、外交官として神戸事件や境事件などの事後処理や貿易の交渉にあたります。
また大阪商人たちの共同出資による為替会社、通称会社の設立や造幣局の大阪誘致を働きかけました。
1869年会計官権判事に任じられ、横浜転勤を命じられると、官直年会計官権判事に任じられ、横浜転勤を命じられると、官吏(かんり)の職を辞して下野(げや)します。
官吏(かんり)とは?
公法上の任命行為に基づいて任命され、官公庁や軍などの国家機関に勤務する者を指します。
下野(げや)とは?
官職を辞めて民間に下ること
大阪に戻った五代友厚(ごだいともあつ)は実業家に転身し、衰退の一途をたどっていた大阪経済再建に動き出します。
通商会社や金銀分析所、活版所などの設立を皮切りに、鉱山経営に乗り出し、管理会社の弘成館を立ち上げる一方で、三井・小野組合銀行の設立にも関わります。
※三井・小野組合銀行は後の第一国立銀行にあたります。
1876年には、国産藍の輸出促進を図るため、製藍会社の朝陽館の設置、維新前は隆盛(りゅうせい)を極めていた堂島米商会所を再興します。
1878年には、8月には大阪株式取引所(現大阪商工会議所)を設立して初代会頭となり、大阪経済界のまさに顔(^^♪となりました。
会頭(かいとう)とは?
会や団体を主宰し代表する人や会長、座長をさします。
後進の教育にも力を注ぎ、大阪商業講習所(現大阪市立大学)も設立します。
大阪の経済復活の立役者となった五代友厚でしたが、1881年、北海道開拓使官有物払い下げについて薩摩閥が結託した不正と大きな批判を浴びます。
事件は政界に広がり、伊藤博文(いとうひろふみ)が大隈重信(おおくましげのぶ)と追放した明治一四年の政変にきっかけになりました。
1885年、東京築地の別邸で、49歳の若さで亡くなりました。
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五代友厚渋沢栄一との関係とは?
「東の渋沢、西の五代」と並びに称される2人は、官から民に転じたのもほぼ同時期で、五代は栄一に向かって
「渋沢は東京でしっかり活動してくれ、五代は大阪の方で活動するから」
と語ったと渋沢栄一は回想しています。
東京・大阪の商法会議所の初代会頭として、2人の間で交わされている書簡も多く残されています。
また、出資などを通じてお互いの事業に関与していたこともうかがえます。
五代は実業界に転じて早々に製藍会社・朝陽館を設立するが、栄一の実家が藍の製造・販売を家業としていたため、設立以前から郷里の製藍に従事する親戚を斡旋したこともあったといいます。
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五代友厚大阪の恩人は大久保利通の知恵袋!
五代は殖産興業へと国政の舵を切った大久保利通(おおくぼとしみち)の政治経済のブレーンとしても知られています。
1875年には、征韓論をめぐり対立していた大久保と木戸孝允(きどたかよし)、板垣退助(いたがきたいすけ)を一堂に会した大阪会議を根回しするなど、政界のフィクサーとしての役割も担っていました。
「大久保公なぞへは能く取り入って居った」
と明かしており、政界の実力者に顔が利く立場と活用したことは間違いないだろうが、五代自身は晩年に
「天下の貨財は決して之を私すべきものに非ず」
と語っています。
巨万の富を得る一方で、莫大な負債も抱えるなど、単なる政商ではなかった。
銀目廃止で両替商はほとんど廃業するなど疲弊した大阪を、東洋のマンチェスターと呼ばれるほどの工業都市に変貌させた功労者であることは疑いなく『大阪の恩人』とうたわれます。
銀目廃止(ぎんめはいし)とは?
江戸時代には金・銀・銭3貨とお札が流通し、そのうち銭貨は全国的に流通したが金貨は江戸を中心とする関東で、銀貨は大坂・京都を中心とする関西で流通した。
銀目廃止は、明治政府が幣制の統一、不合理除去のためにとった処置のひとつであり、正しくは銀目停止という。
大阪商工会議所、大阪取引所前のそれぞれに五代の銅像が建ち、大阪の街を見守っています。
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