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七卿落ちの太宰府幽閉から太政大臣に返り咲いた名門公卿:三条実美(さんじょうさねとみ)
大河ドラマ『青天を衝け』でも今後渋沢栄一と大きく関わっていくこと確実な、重要人物です。
今後2021大河ドラマ『青天を衝け』を楽しむためにも大注目の三条実美(さんじょうさねとみ)劇的人生を解説します。
是非ご覧ください!
三条実美(さんじょうさねとみ)七卿落ちの太宰府幽閉から太政大臣に返り咲いた名門公卿
1873年公卿・三条実方の三男として生まれる。
幼名は福麿(よしまろ)
三条家は、公家の家格最上位の五摂家(ごせっけ)に次ぐ九清華家(せいがけ)の名門だった。
教育係で尊王攘夷思の持ち主だった儒者・富田織部(とみたおりべ)の影響を強く受けて成長しました。
1859年に朝廷の尊攘派の中心メンバーだった父:・三条実方が「安政の大獄」により隠居を余儀なくされると、公武合体派である岩倉具視(いわくらともみ)らを弾劾して退けるなど、父の意を継いで積極的の活動しました。
1862年には14大将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)に攘夷督促を伝える勅使として江戸に赴いています。
朝廷に攘夷を働きかけていた長州藩とも結びつき、攘夷実現に努めたが、公武合体論をとる会津・薩摩両藩らによって1863年8勝ちに実行された
「八月十八日の政変」
※八月十八日の政変とは、江戸時代末期の1863年9月30日に発生した政変です。。 孝明天皇・中川宮朝彦親王・会津藩・薩摩藩など幕府への攘夷委任を支持する勢力が、攘夷親征を企てる三条実美ら急進的な尊攘派公家と背後の長州藩を朝廷から排除したカウンタークーデターである。
で朝廷への出仕停止、官位剥奪となりました。
三条を含む攘夷派の公卿7人は、京都を追放され、長州藩に身を寄せることになった。
いわゆる「七卿落ち」です。
京都を出発した三条は、慣れない徒歩での移動のために足から出血し、用意されたカゴに乗って移動したと言われています。
幕府が「禁門の変」の責任を問うために起こした、1864年の第一次長州征伐の後には太宰府に移され、三条は1868年の
「王政復古の大号令」を同地で迎えることになります。
※王政復古の大号令とは?
薩摩藩や長州藩は、明治天皇の名で 「王政復古の大号令」 という宣言を出させます。
この号令とは 天皇家が政治を行う ということ、つまり 徳川家はもう政治に関わることはない ということです。
薩摩藩や長州藩、そして公家の 岩倉具視 という人物らが、天皇の名でこのメッセージを発表しました。
によって復位した三条は、京都へ入ることを許され、1868にはかつての政敵である岩倉具視(いわくらともみ)と並んで、明治新政府の副総裁に任じられました。
翌年の1869年には右大臣、1871年には太政大臣となります。
明治政府の太政官制での最高官となった三条は1885年に太政官制が廃止されるまで同職にとどまり、内閣制度新設以降は内大臣を務めました。
1889年には、黒田清隆内閣が倒れた後に2か月間、総理大臣を兼任していました。
1891年2月18日没、享年53歳でした。
墓は東京都文京区の護国寺にある。
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三条実美(さんじょうさねとみ)大蔵官僚・渋沢に自宅を3度も訪問した太政大臣
渋沢栄一が明治新政府の官僚として大蔵省に出仕していたころ、三条実美は太政大臣を務めていました。
当時明治政府のトップを務める三条だったが、財政に関する知識が乏しく、各省からの予算要求に対して財源を確保せずに了承してしまい、大蔵省としばしば衝突していました。
各省から突き上げられた三条は、岩倉使節団に加わって外遊中の大蔵卿・大久保利通(おおくぼとしみち)の留守を預かる大蔵大輔・井上馨(いのうえかおる)に相談するが、井上は
「財源がない」
の一点張り…。
二言目には「無理を言うなら辞職する」と騒ぐ井上をなだめるように頼み込むために、三条は当時いのうえの補佐をしていた渋沢栄一の自宅を3度も訪れたといいます。
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政府内の意見が二分し板挟みで倒れた三条実美(さんじょうさねとみ)
岩倉使節団が欧米各国を訪れている中、鎖国政策をとって日本との国交を拒絶している李氏朝鮮に対して板垣退助(いたがきたいすけ)らが出兵論を唱えていました。
西郷隆盛(さいごうたかもり)は即時出兵には反対し、まず自分が大使として交渉に赴くことを主張しました。
1度は西郷の大使派遣の閣議決定がなされたが、帰国した大久保利通(おおくぼとしみち)ら、岩倉使節団のメンバーがこれに反対!!
大使として即時派遣を迫る西郷と、内政改革・国力充実を優先すべきとする岩倉、大久保らとの間で板挟みとなった太政大臣の三条実美(さんじょうさねとみ)は、極度のストレスで倒れてしまいました。
政務を執り行えない三条に代わり、岩倉具視(いわくらともみ)が太政大臣代行として明治天皇に上奏を行い、結局大使派遣は中止となります。
西郷をはじめとした大使派遣論者は、辞表を提出して明治政府を去りました。
郷里の鹿児島に戻った西郷たちの動きは、やがて西南戦争につながっていくことになります。
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