大河ドラマ『青天を衝け』をご覧になりたい方はこちら↓
渋沢栄一にも大きく関わることになる徳川慶喜の家臣たち、もしかしたら大河ドラマでは大きく描かれないかもしれませんが、魅力的な人物ばかりです。
今回はその徳川慶喜を支えた幕臣や慶喜の家臣をまとめて解説していきます。
是非、最後までご覧ください。
黒川嘉兵衛(くろかわかへい)みのすけ演じる2021大河ドラマ徳川慶喜の家臣たち【まとめ】
1853年、浦賀奉行組頭となる。
欲1854年ペリー再来航にあたっては、アダムス艦長らと事務折衝にあたります。
同年、下田奉行組頭となり、吉田寅次郎(松陰)の海外渡航未遂事件の際は寅次郎の尋問を行った。
その後、1858年より始まった安政の大獄で免職、さらに謹慎となりました。
1863年一橋家用人見習いに採用され、1864年番頭兼用人となり、平岡円四郎(ひらおか えんしろう)らとともに徳川慶喜の政治活動を支えました。
渋沢栄一は一橋家で円四郎亡き後、新たな上司として、嘉兵衛に仕えました。
1866年、嘉兵衛は一橋家を離れるが、1868年、再び慶喜に仕えました。
鳥羽・伏見の戦いの後、徳川家の目付に登用され、謹慎する慶喜の助命嘆願のために上洛します。
晩年は京都に住むが、その後の詳細などは不明。
平岡円四郎が不運にも倒れ、一橋家の政務を執ることとなった嘉兵衛は、
「及ばずながら拙者もここに職を奉ずる以上は、足元からの志も立つように、使えるだけ使って遺るから必ず力を落とさず勉強するがよい」
と栄一たちを励ましたといいます。
嘉兵衛が写る、現存する最古の銀板写真
1854年、来日したペリーの随行カメラマン:エリファレット・ブラウン・ジュニアが撮影し、現存する銀板写真6点のうち1枚に黒川嘉兵衛の肖像画があり、この肖像画を含む5枚は現存最古の銀板写真として国の重要文化財に指定されています。
平岡円四郎(ひらおかえんしろう)2021大河ドラマ徳川慶喜の家臣たち【まとめ】
平岡円四郎についてはこちらへ↓
原市之進(はらいちのしん)尾上寛之演じる2021大河ドラマ徳川慶喜の家臣たち【まとめ】
水戸藩士・原雅言(はら まさこと)の子として生まれます。
幼い頃より優秀として知られ、弘道館館長・茅根伊予之介(ちのねいよのすけ)や従兄である儒学者・藤田東湖(ふじた とうこ)の後継者としてみられてきました。
会沢正志斎(あいざわ せいしさい)、藤田東湖(ふじた とうこ)のもとで学び、後に昌平黌に入ります 。
1853年、幕府勘定奉行・川路聖謨(かわじ としあきら)がロシア使節・プチャーチンの応接係として長崎に赴く際は志願して従者となります。
帰藩後は弘道館訓導に任じられ、また、『大日本史』を編纂する史館勤めとなりました。
1861年、水戸藩を離藩した攘夷派浪士が起こした江戸高輪のイギリス公使館襲撃事件(第一次東禅寺事件)により幕府の水戸藩への圧力が強まると、藩士・野村彜之介(のむら つねのすけ)や儒学者・大橋訥庵(おおはし とつあん)らとともに老中・安藤信正襲撃の謀議に加わりました。
1862年2月、安藤信正襲撃事件は実行されたが(坂下門外の変)、市之進自身は襲撃に加わってはいませんでした。
同年末には用人として、藩主・一橋慶篤(ひとつばしよしあつ)とともに江戸に上り、慶喜の徳川家相続、将軍職就任に奔走しました。
1866年、7月には一橋付用人から目付に登用され、慶喜の側近として幕政の改革に取り組みます。
だが、翌年8月に部下の幕臣・鈴木次郎らにより京都の萬所を襲撃され、暗殺されました。
享年38。
過激な尊王攘夷思想から慶喜に従い開国派へと転身
尊王攘夷思想により幕末の志士に大きな影響を与えた水戸学。
その著名な指導者である会沢正志斎(あいざわせい しさい)、藤田東湖(ふじた とうこ)に感化された市之進だったが、慶喜の側近となって以来は攘夷思想を離れ、上洛して兵庫開港に尽力しました。
長州征伐、条約勅許などの工作にあたりました。
大河ドラマ『青天を衝け』をご覧になりたい方はこちら↓
永井尚志(ながいなおゆき)中村靖日演じる2021大河ドラマ徳川慶喜の家臣たち【まとめ】
1816年、三河奥殿藩主・松平乗尹(まつだいら のりただ)の次男に生まれ、旗本・永井家の養子となりました。
1853年、目付として幕府に登用され、翌年、長崎海軍伝習所総監理として長崎に赴任します。
1855年、オランダから送られた軍艦・観光丸を使用した海軍操練の監督を務めました。
洋式海軍の情報に詳しく、1858年岩瀬忠震(いわせ ただなり)らとともに新設された外国奉行に任命され、翌年には初代軍艦奉行に任ぜられるが、徳川慶喜擁立を画策したとして、安政の大獄で免職されます。
1862年、京都町奉行として復帰し、1864年には大目付に昇進しました。
1867年、若年寄、慶喜の側近として大政奉還の実現に尽力していきます。
鳥羽・伏見の戦いでは、敗北した徳川軍を連れて江戸に帰還。
1868年、新政府軍に恭順を決めた慶喜によって免職されました。
同年、榎本武揚(えのもと たけあき)の軍隊とともに箱館に渡り、蝦夷政権の奉行に就任するが、翌年五稜郭が陥落し降伏しました。
1872年、明治政府に出仕して開拓使御用係、元老院権大書記官などを務めました。
旗本最高位の若年寄まで上り詰めたことからも、その有能さがわかりますね!!
子孫には、あの有名な作家の名前も・・・!!
尚志の養子・永井岩之丞(ながい いわのじょう)の長女である夏子は、内務官僚で樺太庁長官や福島県知事を務めた平岡定太郎(ひらおか さだたろう)に嫁ぎました。
その孫が平岡公威(ひらおか きみたけ)、『仮面の告白』『金閣寺』などの作品で知られる作家の
三島由紀夫(みしま ゆきお)です。
尚志は三島の高祖父(ひいひいおじいさん)にあたります。
大河ドラマ『青天を衝け』をご覧になりたい方はこちら↓
川村恵十郎(かわむらえじゅうろう)波岡一喜演じる2021大河ドラマ徳川慶喜の家臣たち【まとめ】
1836年、江戸に生まれます。
本名・川村正平(かわむら しょうへい)。
恵十郎は通称でした。
1863年、朝廷と幕府の折衝に関しての建白書を徳川慶喜に提出します。
また農民兵の募集にも力を注ぎました。
同年、一橋家に普請役見習として仕官します。
渋沢栄一、渋沢喜作はこの時川村の下役として働きました。
その後、慶喜の上洛、江戸での謹慎、静岡行きと常に行動をともにしました。
1874年、内務省に出仕、台湾出兵の後始末のため、大久保利通に随行して清国(現:中国)を訪問しています。
井上甚三郎(いのうえじんざぶろう)2021大河ドラマ徳川慶喜の家臣たち【まとめ】
文武の教育を任された徳川慶喜の家庭教師
慶喜は誕生の翌年水戸に移され、一橋家を相続するまでの9年間を水戸家で養育されました。
その間、徳川斉昭によって命じられ教育を任されたのが、井上甚三郎でした。
斉昭は慶喜に対して、質実剛健な水戸での厳しいしつけを望んだといわれます。
甚三郎宛の書に
「庶子は養子に遣わすこともあるので文武共にしっかり学ばせよ。柔弱で文武の心得がないと水戸家の恥じになる」
などと書き残しており、斉昭の信頼が厚かった甚三郎に慶喜の教育を全面的に託しました。
小栗忠順(おぐりただまさ)2021大河ドラマ徳川慶喜の家臣たち【まとめ】
幕府で名奉行を歴任した有能な幕臣
1827年、旗本・小栗忠高の子として生まれます。
1860年、日米修好通商条約批准交換使節として渡米。
帰国後は、外交奉行、勘定奉行、軍艦奉行などを歴任しフランス公使・ロッシュの援助を受けながら、紙幣の発行、製鉄所の建設など、幕府の財政や軍政の改革に活躍しました。
大政奉還に反対し、戊辰戦争では慶喜に戦うことを勧めましたが、受け入れられず、知行地の上野国権田村に移ります。
1868年新政府軍に捕らえられ、斬首に処されました。
高橋泥舟(たかはしでいしゅう)2021大河ドラマ徳川慶喜の家臣たち【まとめ】
慶喜の護衛にあたった槍術の名人
勝海舟、山岡鉄舟とともに幕末3舟と称されています。
旗本・山岡正業の次男として生まれ、母方の高橋家の養子となります。
槍術の名人と知られ、講武所師範を務めました。
1862年、幕府募集の浪士組取扱として同組を率いります。
1868年、戊辰戦争勃発時は遊撃隊頭として徳川慶喜を護衛、義弟である山岡鉄舟らと慶喜赦免に奔走します。
維新後は、徳川家に従い静岡に移住、地方奉行などを務めました。
廃藩置県の後は出仕せず、東京で隠居。
書画骨董などの鑑定などをして余生を過ごしました。
中根長十郎(なかねちょうじゅうろう)2021大河ドラマ徳川慶喜の家臣たち【まとめ】
一橋慶喜に重用された側用人1838年より一橋家に仕え、1847年に徳川慶喜が一橋家を継いでからは、番頭兼用人を経て慶喜の側用人として、平岡円四郎とともに重用されました。
1863年将軍後見人職として慶喜の状況準備中、尊皇攘夷派に江戸門外で殺害されました。
当時慶喜は攘夷派とみられていたが、攘夷が進まないのは平岡円四郎や中根長十郎らの進言によるものだと勘違いされてしまいました。
犯人は判明していませんが水戸藩浪士という説もあります。
大河ドラマ『青天を衝け』をご覧になりたい方はこちら↓
2021年【大河ドラマ】幕末に関するおすすめ動画まとめ
大河ドラマ『青天を衝け』をご覧になりたい方はこちら↓