徳川家康(とくがわいえやす)幼年期は人質になり忍従の日々
1603年から1868年まで続いた江戸時代。
最後の将軍は徳川慶喜(とくがわよしのぶ)です
世界的にも類を見ない260余年におよぶ長期政権=江戸幕府の基礎を作った徳川家康は、
1543年に三河国・岡崎城主の松平広忠(まつだいらひろただ)の嫡男(ちゃくなん)として生を受ました。
家康が生誕した当時、父・広忠は駿河を治める今川義元(いまがわよしもと)に従属していたため、家康は六歳のときに人質として今川家に預けられることになる。
だが、護送を担当していた今川氏の家臣が織田氏へと寝返り、家康は尾張国に送られてしまう(家康はこのときに幼少の織田信長(おだのぶなが)と出会っている)。
その後、人質交換により駿河に入った家康は、忍従の日々を送ったといわれている。
だが実は、義元から政務を習ったほか、さまざまな英才教育を受けていたという説もある。
当時の駿河は、京都を成した文化人たちが集まり住んでいた場所で、教養を磨くにはうってつけの場所だったのだ。
「父によって人質に……」
というと聞こえが悪いが、広忠は息子の将来を思って、あえて家康を送り出していたのかもしれない。
また、義元は姪を家康に嫁がせており、家康の才覚や家系を認めていたものと考えられる。
やがて将軍となる家康のルーツは、この時期に作られたのだろう。
徳川家康(とくがわいえやす)織田信長と手を組み戦国武将として一人前に
駿河で元服した家康は、1558年に14歳で初陣。
1560年に起きた桶狭間の戦いで義元が死ぬと、その混乱に乗じて生誕の地である岡崎城に戻り、今川氏からの独立を宣言する。
1562年には、織田信長と清洲同盟を結び、織田家に従う立場を明らかにし、一五六六年までには、情勢が不安定だった三河国を統一して支配権を確立する。
さらにその二年後には、今川領だった遠江国も手中に入れる。
また、信長が諸国の武将から首を狙われるようになったときは家康が信長を助け、1568年の姉川の戦いでは朝倉・浅井連合軍の打破に尽力した。
このとき、家康は25歳―――着々と戦国武将らしくなっていった。
1570年、家康は拠点を岡崎城から浜松城へと移すことになるが、その前年、友好関係にあった武田信玄に裏切られ、遠江国に侵攻されてしまう。
1572年には、重要拠点・二俣城を落とされた家康は完全なる劣勢に立ち、その翌年の三方ヶ原の戦いでは史上最悪の惨敗を喫する。
このとき家康は、信玄に殺されることを覚悟したに違いない。
※この時命からがら逃げた家康は漏らしたという逸話が残されています。そんだけ激しい敗北だったのですね。
徳川家康(とくがわいえやす)武田征伐後も激動の人生は続く
しかし、三方ヶ原の戦い後、武田軍の攻撃がパタリと止まる。
なんと、信玄が病死したのである。
なんという幸運・・・
武田軍は勢いを失い、1575年の長篠の戦いでは戦国最強とうたわれた武田騎馬軍を家康と信長の連合軍が圧勝。
1582年に信長が実施した武田征伐においても、家康は著しい武功を示し、信長から駿河国を授かることになった。
だが同年、本能寺の変が起きて信長が死亡する。家康は取り乱し、信長のあとを追おうとしたという。
しかし家康は、その一方で、混乱に乗じて信長が治めていた甲斐と信濃を横領。気がつけば、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五国を治める大大名になっていたのである。
こうした抜け目のなさが、戦国武将らしい・・・
やがて家康は、信長に代わって台頭しはじめた羽柴秀吉と対立するようになる。
信長の次男・信雄と連合した家康は信長の遺児を助けるという大義名分を掲げ、1584年に秀吉と激突。
戦況を優位に進めるが、やがて信雄は秀吉の懐柔策にのまれ、家康に無断で秀吉と和解してしまう。
大義名分を失った家康はやむなく撤退。
秀吉との講和に応じることになった。
それでもなお家康と秀吉の緊張状態は続き、ついに家康の家臣たちは
「秀吉を叩くべき」
という勢力と、秀吉に臣従すべき、という勢力に分裂する様相を呈していく。
そんな中臣従、を説いていた重臣・石川数正が秀吉に寝返る事件が発生。
さらに、家康を従えたい秀吉は、家康に人質を届けるという策にまで打って出た。
家康は仕方なく、1586年に秀吉に従うことを宣言。
だが、それは、いつか自分が天下を取る瞬間を、秀吉の懐の中で待つというだけのことだったのだ。
徳川家康(とくがわいえやす)関ヶ原の合戦は家康のシナリオ通り?
秀吉の家臣となった家康は、支配していた五国と引き換えに、関東の七国を与えられる。
一見すれば大幅な加増だが、関東には家康を快く思わない武士も多く、当時は荒地ばかりだったため、家康にはおもしろくない命令だったはずだ。
だが、家康は江戸城を築いて本拠とし、秀吉に従ったのである。
そのおかげか、ほかの武将たちが秀吉の朝鮮出兵につき合う中、家康は出兵要請を免れ、幸運にも国内で軍事力を温存できたのです。
さらに1598年には、秀吉から五大老のひとりに任命され、秀吉の跡継ぎである秀頼のブレーンとなることを命じられる。
家康が五大老となった直後、秀吉は病死した。
さらに家康を止めようとした五大老のひとり・前田利家の死もあり、家康の権力はいっそう強まっていった。
そんな中、会津の上杉景勝が軍備増強をしているという噂を知った家康は
「それはけしからん」
と軍を進めはじめる。
すると、その隙を見た豊臣家の奉行・石田三成(いしだみつなり) が家康を討つべく、毛利輝元を大将に擁して挙兵。
三成の行動を知った家康は、行軍を止め、三成との対決へと向かった。
これが1600年に起きた、天下分け目の関ヶ原の戦いである。
三成率いる西軍に属していた小早川秀秋の裏切りによって、家康の東軍が勝利を収めたこの戦。
先に相手に牙をむいたのは三成のように見えるが、実は、天下取りを急いだ家康が、わざと三成に隙を見せて戦いを誘ったという説がある。
その証拠として、会津への進軍があまりにものんびりしていた(=本当に上杉を攻めるつもりはなかった)ことや、三成との対決を前に、自軍の味方を増やすべく、さまざまな工作に時間と労力を使っていることなどが挙げられる。
秀秋の裏切りは、家康のシナリオ通りだった可能性もある。
徳川家康(とくがわいえやす)徳川家の安泰を見届けたのちに……
かくして関ヶ原で勝利した家康は、征夷大将軍となり1603年に江戸幕府を開いた。
その二年後、家康は三男・秀忠に将軍職を継がせ、自身は隠居の身となった。
これには
「将軍職は徳川家が世襲していくものである」
ということを、世間にアピールする目的があったといわれている。
事実、家康は江戸城を離れ、馴染み深い駿府に居城を移したが、大御所として実権を握り続けた。
それでも不安は残る。
西方では、秀吉の跡継ぎ・秀頼を将軍に推す声が絶えなかった。
家康は、豊臣家を家臣にできずにいたのである。
そこで家康は、数々の言いがかりをつけて秀頼の居城・大坂城を攻め、1615年に豊臣家を滅ぼしている。
これと並行して、家康は法律の整備に着手。
諸大名や朝廷の権利を制限する
「禁中並公家諸法度」
「武家諸法度」
を発令し、徳川家の特権を守ったのだった。
一族の安定を確信したのだろうか、家康は一六一六年に命を落とす。
享年は73歳だった。
通説では
「死因は天ぷらによる食あたり」
といわれているが、最近では胃ガンだったのではないかと推測されている。
264年の一族の安定を得るために、激動の時代を駆け抜けた徳川家康。
その人生は、長く、誰よりも厳しく激動に流された過酷なものでした。
日光東照宮
一泊二日で観光しましたがとても満足な日光観光になりました。皆様も是非!
江戸幕府初代将軍徳川家康を神としてまつる神社
日本を代表する世界遺産「日光の社寺」。その中でももっとも有名な「日光東照宮」は徳川家康がまつられた神社で、現在の社殿群は、そのほとんどが寛永13年3代将軍家光による「寛永の大造替」で建て替えられたもの。境内には国宝8棟、重要文化財34棟を含む55棟の建造物が並び、その豪華絢爛な美しさは圧巻です。全国各地から集められた名工により、建物には漆や極彩色がほどこされ、柱などには数多くの彫刻が飾られています。
日光東照宮|観光スポット|日光旅ナビ (nikko-kankou.org)
DATA | |
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住所 | 〒321-1431 栃木県日光市山内2301 |
電話番号 | 0288-54-0560 |
営業時間 | 4月~10月 9:00~17:00 11月~3月 9:00~16:00 (各期間とも受付は閉門30分前に終了) |
定休 | なし |
料金 | 大人・高校生1300円、 小・中学生450円 |
アクセス | JR日光駅・東武日光駅より東武バス日光に乗車、「中禅寺温泉」または「湯元温泉」行きで5分「神橋」下車徒歩8分。またはバスで8分「表参道」下車徒歩約2分。 |
ホームページ | 詳細はこちら |
備考 | 約200台(有料) |
徳川家康(とくがわいえやす) 「鳴かぬなら鳴くまで待とう ほととぎす」
家康といえばこの一句である。もちろん彼が詠んだわけではないが、この無名の庶民が
詠んだ狂歌が、今では家康の生涯を象徴したものとして定着している。
幼少期に過酷な人質生活を送り、青年期には時に今川家の矛となり、時に織田家の盾となることを強いられた。
さらに秀吉の天下となれば五大老の一角を成し、表向きは豊臣政権を支えた。そして関ヶ原の戦い、大坂の陣を経て天下人へ。
「織田がつき 羽柴がこねし天下餅 座るがままに食うは徳川」
こんな歌もある。自他共に認める「忍耐の人」徳川家康。 その正体に迫ってみよう。
徳川家康(とくがわいえやす) 祖先はスケベな旅坊主
1543年、三河で生まれた家康には、実は旅芸人の血が流れている。祖先は徳阿弥といい、諸国を旅する時宗の僧だった。
徳阿弥など時宗の「○阿弥」系の僧は諸芸に通じ、歌・踊りなど人々を芸で喜ばせるのが仕事だ。今でいえばお坊さんの格好をしたエンターティナーだ。
日本の伝統芸能となった『能』を完成させた世阿弥の筋は非常に有名で、室町幕府にも優遇されたが、 徳阿弥はまったく売れなかった。
※世阿弥 室町時代の猿楽師。幼少の頃から父の一座に出演し、熊野での公演では足利将軍義満の目にとまった。以後将軍家の庇護を受けるが、将軍が代替わりするごとに冷遇されるようになり、1434年には佐渡に流されてしまった。著書は『風姿花伝」をはじめ、二十冊以上にのぼる。
芸人である徳阿弥の生活は厳しかった。
当時の芸人の身分は最下層に位置し、ほとんど乞食と変わりなかった。 いうなれば裏社会の住人である。
祖先の影響からか、家康は当時、食べることが野蛮とされた四足の獣を食すことに抵抗がなかったとされる。
家康が
「毎年正月にウサギを食べた」、
「病気をウサギの肉を食べて治した」
という〝ウサギ喰い伝説〟は、徳阿弥が正月にウサギの肉を食べて以来、ラッキーが続いたという逸話からきている。
徳阿弥は後年、作家の司馬遼太郎に、
「その辺によくいた無銭旅行者で、ドスケベだったらしい」
とまで言われた。 徳阿弥が放浪の果てに1420年、三河の松平郷にたどりついたときのこと。
彼は当地の有力者・松平太郎左衛門の家に落ち着いていた。
はじめは世間話などしていたが、どうも様子がおかしい。
実は、松平家の後家とできてしまい、孕ませてしまっていたのだ。
徳阿弥の勢いは止まらない。
今度は、隣村の後家を好きになって泊まり込み、 彼女まで手際よく孕ませてしまった。
最初の後家との子は、家康につながる血筋となり、二番目の子は、家康に大変信頼される譜代大名・酒井氏となった。
しかし、徳阿弥の素性は家康を悩ませた。
架空の人物を捏造する秀吉ほどではないが、同じように「ワシは源氏の子孫」、「実は、新田義貞の子孫だった」と主張した。
家康はお抱えの学者に家系図の操作を頼んでいた。
信長も平家を名乗ったことがあり、天下取りを目指すものには当たり前の工夫ではある。
しかし、それを庶民は見透かしていたのか、「戦国大名と賤民』の著者・本田豊によると、 刈谷市など地方に残る民話では、庶民は家康のことを、
「素性の知れない正体不明の方が天下を治めている」
と思っていたというのだ。
裏社会の住人らしく、徳阿弥の生没年は不明である。天下人・家康のルーツとしては、あまりにも怪しい。
隠したくなるのも道理かもしれない。
徳川家康(とくがわいえやす) 1万円で売り飛ばされる
家康は、祖先の徳阿弥が松平姓を名乗ってから、9代目の当主にあたる。”松平家〟といえば聞こえはいいが、矢作川下流に数十人の武闘派を送り出し、住民から作物を奪い取っては服従させ、家来にするといった山賊まがいのことも行っていたようだ。
そのマフィアのような家風からか、家の騒動も多く、家康の祖父と父は若くして家来に殺されている。
幼少時の家康は惨めだった。
彼が生まれた頃の松平家は、戦国大名を名乗れるような規模ではなく、隣国の今川家・織田家に翻弄された。
信長の父・信秀率いる織田家の攻勢を受けた家康の父・広忠は家康を人質に出す代わりに今川家に援軍を要請する。 これが家康の人質生活の発端だ。
ところが、護送中に織田家に拉致されてしまい、一転して織田家に身柄を置かれることとなる。
この時に信長の知遇を得るわけだが、信長の庶兄・信広が今川家の捕虜となると、人質交換として再び今川家に送られた。
「三河物語』によれば、松平家はこのとき、 今川義元に三河からの収入をすべて横取りされ、戦闘では最前線におかれるなど過酷な扱いを受けていた。
歴史学者の桑田忠親は、この頃の松平家を
「体のいい弾よけ」といっている。
「三河物語」で知られる松平家の苦労と、それに伴う家臣団の忠義団結は、小説等でも哀切を込めて描かれることが多く、
後の飛躍と併せて日本人には馴染み深い。
だが、そもそも織田家に拉致されたというのは言い訳で「実は家臣に売られたのだ」とする説が根強い。
『駿府記』では家康本人による話として、
「ワシが子どもの頃、部下に又右衛門某という者がいて、ワシを銭500貫で売り飛ばしおった。えらい苦労した」
とある。
ちなみに、『駿府政事録』によれば、金額が5貫にまで値下げされており、今の金 額でいえば、たったの15万円だ。
徳阿弥の素性、二代続いた主君殺しの事件に加え、家康を売り飛ばしたことから見るに、この頃の松平家の人々はお世辞にも“忠義の家臣団”とは言えないマフィアめいた性質を持っていたのかもしれない。
ともあれ、この頃に家康の代名詞とも言える「忍耐」が形作られたことは確実だろう。
徳川家康(とくがわいえやす) 食い逃げして捕まる
人質生活に耐えた家康は姓を徳川と改め、桶狭間の戦いで義元を失った今川家を見放し織田家と同盟を結ぶ。
だが、この清洲同盟(織徳同盟)と呼ばれる契りは、信長が天下人として成り上がるほど、家康にとって対等ではなく、従属関係に近いものとなってしまう。
1572年、「信長包囲網」 期待の星・武田信玄が家康の領地を侵すと、三方ヶ原で激しい戦いがはじまった。
彼我の戦力には2倍近い開きがあった。
家康は数で劣る者が採る戦法では下策と言われる「鶴翼の陣」で武田軍に圧力をかけるが、信玄に見破られ総攻撃を受けてしまう。
※鶴翼の陣 戦国時代の代表的な陣形のひとつ。中心に大将を配置し、鶴が翼を広げるように舞台を「V」の字に配置する陣形。敵を包囲し易い反面、中央の大将に攻撃を集中される危険がある。通常、兵力で劣る側は使用しない。
家康が頼んだ信長からの援軍は、非常に少なく士気も低かった。 佐久間信盛など戦わずして逃げ出す武将もいた。結局、信玄の猛攻を止められなかった家康は、討ち死に寸前まで追いつめられ、大敗を喫する。
家康は本多忠勝らに後を任せ、馬を駆って一目散に逃げ帰った。
このとき、家康は恐怖のあまり馬上で糞を漏らしてしまったという。
浜松城に無事逃げ帰ったものの、馬の背中が大変臭う。
徳川十六神将の一人・大久保忠世はこれに気づき、
「なんと殿、せつなぐそを垂れて逃げ参られたか!」
と肩を震わせた。
「せつなぐそ」 とは、驚いた刹那、大物を漏らすことをいう。 大惨敗に殿が失禁。 悔しさのあまり家康はその
まま部屋にこもると、茶漬けを3杯続けざまに食べ、高イビキをかいて寝てしまった。
この時の家康に関しては逸話がもうひとつある。
退却時、戦場に残った本多忠勝が死闘を繰りひろげている最中、家康はいち早く浜松城に逃げなければならないはずが、空腹に耐えられず茶店に入って一服し、 小豆餅まで食べている。
これは庶民の言い伝えによるもので、遠くに追っ手が見えると家康は驚き、代金も払わずに逃げてしまったという。しかも、すぐに茶店の婆さんに捕まえられている。
この話は、浜松市中区にある小豆餅の伝説となった。
これは伝説だとしても、三方ヶ原の戦いは、家康にとって生涯随一の大失態だったことは疑いようがない。
彼はこの屈辱を忘れないために、「三方ヶ原戦役像』という不気味な自画像を描かせ、側において戒めとした。
徳川家康(とくがわいえやす) つくり馬鹿
家康には、ほかにもマヌケなエピソードが数多くある。関ヶ原の戦いの前哨戦「会津攻め」で、出陣したとき采配を忘れ、そのことを家臣に注意されると、付近の竹林から棒をもってこさせ、
「上杉のごとき、これで十分!」
と叫んだこともある。
はたまた馬術自慢の武将が、馬を駆って曲芸さながら橋を渡っていくなか、家康だけは馬を降り家来の背中におぶさって渡ったことなど、嘲笑された話もある。
だが、こうした逸話から家康をマヌケと断じるのは早計かもしれない。
秀吉が、家康の近臣と話していた時のことである。
「最近、家康は太りはじめて自分で帯をすることができなくなりました。女房や小姓らが二人がかりで帯をしめる。一人で便所にも行けない。大小便も自分でできない。このようなありさまではまったく「ぼんやりの鈍物」とでもいいたくなる」
秀吉はこう応じた。
「そもそも利口な者とはどのような者をいうのか。お前たちが“バカ者〟と噂する家康は、立派な武将であり、関東八ヵ国の大名であり、金銀もワシより不足しない蓄えがある。 家康の「つくり馬鹿」は、お前たちが真似をしてみても、一生できぬことよ」
事実、家康は伏見城に莫大な金銀を蓄えていた。
どれだけ蓄えていたかといえば、床が抜けるほどである。
これはたとえではなく、「耶蘇会年報』によれば、
「家康は日本でもっとも富裕な君主であり、巨額な金銀を集めている。数ヵ月前には伏見城の梁が、その重みで折れ、一室が陥没した」
もっともつくり馬鹿〟という言葉を、秀吉がどこまで本気で使っていたかは分からない。
数々の間の抜けた逸話のどこまでが“天然”のものであるかは分からないのだ。
徳川家康(とくがわいえやす) 裏切り者をいたぶり殺す
かつて、家康には大賀弥四郎という部下がいた。弥四郎は頭の回転の速い男で、いつしか年貢の集計や、財政の管理まで担当するほど家康の信頼を得ていた。
だが、弥四郎には野心があった。
徳川家の乗っ取りである。
その実現のために、武田勝頼に内通して、徳川の秘密事項を漏らし、武田家進軍を有利に図ろうとしていたのだ。
この計画は、弥四郎の部下が途中で裏切ったことで一気に計画が破綻する。
驚いたのは家康だ。
彼は、はじめ弥四郎の裏切りを家臣に報告されても、なかなか信じなかったという。
それほど信頼した部下に裏切られたのだから、怒り心頭に発したのだろう。
まして、かつて家臣に身柄を売り飛ばされた家康にとって、弥四郎の行状は並大抵の極刑ではまったく満足がいかなかった。
まず、妻子が引き捕らえられ磔にされ殺された。弥四郎の処刑当日。
彼は岡崎の処刑場まで護送された。体を縛られ、馬に逆さまに乗せられた弥四郎。まわりでは鐘や金物が鳴らされ、遠目からは、さながら縁日の祭ばやしにも見える。
処刑場に到着すると、弥四郎は髪をつかまれ馬から叩き落された。罪状が読み上げられた。
処刑がはじまる。
最初に、弥四郎の首に板がはめられた。歩けなくなるよう片方ずつ足の筋肉を念入りに切断していく。
次に足と手の指を一本ずつゆっくりと切り取っていく。弥四郎は命乞いをはじめたが、聞こえるのは罵倒のみだった。
岡崎の辻には深い穴が掘ってある。 その穴のまわりには、切れ味が極端に悪い竹のノコギリが数本置いてあり、側には、この者罪人につき、首をノコギリで挽いても構わない"というお触書があった。
その穴に血だらけの弥次郎が埋められる。
首から上は出させたままで、処刑人たちは帰っていく。
変わりに村人の誰かが一日中、弥四郎の首を少しずつ、しかし、えぐれるほどに切り刻む。
村人の誰もが罵倒しながら切り刻んだ。
弥四郎が内通していた武田勝頼は、百姓にきつい年貢を課すことで知られていたからだ。
夜には、苦痛に耐えられず弥四郎が気絶すると、また激痛で目が覚める。
拷問と処刑がひとつになったこの極刑により、弥四郎は絶命するまで7日間を要したといわれる。
この極刑は、信長も命を狙った相手に実行し、秀吉も行っているが、この二人より穏やかな人柄であったと世間に言われた家康も、やることはちゃんとやっていた。
徳川家康(とくがわいえやす) 謎の未確認生物を追い払う
1600年、天下分け目の関ヶ原の戦いで、辛くも勝利を収めた家康は、9年後に駿府城である不思議な体験をしている。
牧墨僊の「一宵話』によれば、
「家康公が駿府城にいたある朝、城の庭に突如「肉人」 とでも呼ぶべき者が現れた。姿は子どものように小さく、指のない手で空を指している。奇怪な事態に城中のものは驚き、騒動となった。『変化である』と狼狽するものもいた」
このとき家康は、「人目につかぬ場所に追い出 せ」と指示し、肉人を山へ捨てさせたという。
作家・中江克己によれば、
「駿府城内の庭に、手足に指無き者が佇んでいた。ボロボロの布一枚をまとい、髪は乱れている」
との記述があると指摘する。
この肉人は浮浪者であったとされるが、謎が多い。天下人として君臨する家康の城内警備を突破し、庭にまで浮浪者が入ってこられるものなのか。
また、大賀弥四郎の心霊が共同幻覚となってあらわれたオカルト説、 宇宙人説、はたまた白沢図に伝わる「封」と呼ばれる肉妖怪を、家康が召還したが大騒ぎになったため山へ帰した、など奇怪な説明が山ほどある。
ちなみに「一宵話』には、
「封の肉は仙薬として知られる。 家臣が騒がなければ、その肉を家康公に奉ることができたのに」
と、肉人の話を聞いた学者の発言も記されている。
この頃、幕府が7月にタバコを禁止。家康は不老長寿の薬を探し求め、自らもブレンドするなど調合に凝っていたという。
既に将軍職は秀忠に譲られていた。 『一宵話』にみられる肉人の出現は、家康の病的な健康志向を風刺した話とも考えられる。
徳川家康(とくがわいえやす) 健康オタク家康
家康は当時から病的なまでの健康オタクとして知られていた。
1585年の春、44歳のときのことだ。家康にはある悩みがあった。背中に大きなコブができ、激しい痛みが襲って夜な夜な眠れない。
そこで彼は小姓にハマグリの貝を持ってこさせ、コブを挟んで膿を勢いよく絞りとらせた。ところが、コブはより大きくなり、さらなる激痛が家康を襲う。
すっかり落胆した家康は、死を覚悟し、遺言を残そうと厳粛な態度で家来まで集めた。だが、医者に診せるとすっかり治ってしまった。
そのときの様子は、桑田忠親によれば、
「医者が、びっくりするほど大きな灸を家康の背中にすえて帰った。 家康は異様なうなり声を立てた。 今度は高熱が襲った。うなり声は、うめき声へと変わっていく。それが朝まで途絶えることはなかった」
このように家康は、医者に診せる前に、自分で自分の体を治療したことが多くあったようだ。
そのことを諌めた医者を島流しにするほど、調剤の知識に自信があった。
1616年、家康は鷹狩に出た先で倒れ、4月17日に駿府城で死去した。 天ぷらによる食中毒死が長らく信じられてきたが、これは誤解であり、胃癌が直接の死因であると見られている。
むろん「セルフ調合」が病状を悪化させた可能性がある。
旅芸人という裏社会にルーツを持つ天下人・家康は“つくり馬鹿”や“健康オタク”といった逸話を現世に残し、今も日光東照宮に「大権現」として祀られている。