- 脅威の戦闘力を有した関ヶ原の鬼神島左近
- 大和出身
1540年~1600年
島左近(しまさこん)筒井家を守るべく松永久秀と激闘を繰り広げる
島左近
「三成に過ぎたるものがふたつあり、島の左近と佐和山の城」
これは石田三成に関する落首で、過ぎたるものとして彼を支えた島左近と、居城である佐和山城の威容を挙げている。
左近は三成を補佐した名軍師として知られているが、その逸話のほとんどは軍記物に頼るところが多い謎の人物だ。
島左近の本名は一般的に勝猛や清興、友之などがあるが、文書に残る名は清興のみである。
また、奈良の春日大社には左近が寄進したといわれる石灯籠があるが、
そこには「嶋左近丞清興」と彫られている。
これらのことから、左近の本名は嶋清興と考えてよいかもしれない。
もっとも、一般的には「島左近」で知られているので、ここではそれに準拠して紹介する。
島氏は大和(現在の奈良県)に代々住んでいたようで、「応仁の乱」のころには国人だった筒井氏に属していた。
そこで左近もまた戦国大名となった筒井順慶に仕えることになる。
筒井順慶の父・順昭は、大和の大半を制圧することに成功した人物だが、順慶がまだ3歳のときにわずか38歳で急死てしまった。
左近は筒井家を守ろうとする他の家臣たちと共に、幼い 順慶 を支えていったのである。
しかし、そこは戦国の世。
阿波(後の変島県)の実力者、三好長慶が虎視眈々とと大和進出を狙う。
そして1559年、 長慶 は重臣だったな松永久秀に信貴山城を築かせると、大和への侵攻をはじめた。
筒井氏は、 順慶 の後見人に祖父の順政をおいて抵抗したが、敵は戦国きっての実力者松永久秀。
生半可な軍略では太刀打ちできず、一時は筒井氏の居城まで奪われる事となった。
しかし左近は松永久秀との戦いを通じておのれを磨き上げ、ついにこの敵を撃退することに成功し、
筒井家に左近あり!
とその名を全国にとどろかせたのである。
その後久秀との戦いは続き一一退の攻防を繰り広げるが、明智光秀のとりなしによって一旦和睦することになる。
ところが、十五代将軍・足利義昭の策謀によって織田信長包囲網が形成されたことから、筒井軍はふたたび松永軍と交戦することになる。
こののち、筒井軍は織田軍とともに松永軍と戦い、以後は信長に従う道を選ぶこととなっていく。
順慶 が信長に従うことになったことから、自然と左近も信長の作戦に参加することになり、石山本願寺との戦いや越前(現在の福井裏金)一向一揆討伐、雑賀衆討伐などに従軍したようである。
やがて「本能寺の変」が起こって信長が没すると、明智光秀と縁のあった 順慶 のもとに共闘の誘いがくるが、 順慶 は羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)のもとに左近を送り光秀には加担しないと誓約したという。
山崎の戦いから二年後、 順慶 は持病が悪化して亡くなってしまい左近は 順慶 の後を継いだ筒井定次に仕えるも折が会わず出奔。近江(現在の滋賀県)にて浪人生活を送るようになったといわれている。
そんな左近もとに、埋もれてしまうには惜しい人物と、様々な大名から仕官の誘いがくるが、左近は再び同じ思いをを味わう事を恐れたのか、すべての誘いを断るのだった。
すまぬが、断り申す
島左近(しまさこん)石田三成の熱意にほだされとる
そんな左近をどうしても手元に置きたかった男こそ石田三成である。
近江の領主となった三成は自らの足で左近のもとに向い、必死に説得に加えて自分の禄の半分である二万石という破格の待遇で仕官を求めました。
どうしても家臣にしたい・・・
主人と同じ俸禄の家臣など、今までに例のないことである。
さすがの左近もこれには心を動かされ、三成を主と仰ぐことを決意した。
なお、左近は決して金で動いたわけではない。
のちに三成は出世し、それに伴って左近の禄も増やそうとしたが、左近はそれを断り民に還元してほしいと願い出たというのだ。
三成の心意気に動かされ仕官を決めたことがよくわかるエピソードであるといえよう。
信頼に値する人物であると認めた三成に対して、左近は忠節の限りを尽くす。
ふたりは二人三脚で進み、確実に豊臣家の重要な地位へと食い込んでいった。
また、信頼し合っていたからこそ、左近は時に三成の言動を諫めることもあった。
三成は義心に厚い男であったが、自分の周囲に集まらない者を見下したり、目の前のことばかりに固執し、物事を全体で捉えないという欠点があった。
これを見抜いていた左近は、ことあるごとに注意を促したという。
島左近(しまさこん) 関ヶ原の戦いで意地を見せる
豊臣秀吉の死後、左近は早くから三成と徳川家康が激突するであろうことを予測していた。
しかもその場合、三成の敗北が濃厚であることも見えていたため、なんとかして家康を排除すべく画策するが、実を結ばない。
やがて家康が天下取りを意識し出すと、三成ら旧豊臣方の西軍と徳川方の東軍に分かれ日本各地で戦いが勃発。
そして決戦の舞台は天下分け目の関ヶ原へ。
左近は三成の軍に従軍し、決戦の前哨戦となる「杭瀬川の戦い」で采配を振る。
目の前で田を刈るという挑発行為で敵をおびき出すと、あらかじめ準備しておいた伏兵でこれを徹底的に撃退する。
小規模な戦いではあったが、その華麗な用兵には徳川家康も感心し、西軍侮り難しとの印象を与える。
この勝利で士気も大いに上がり、翌日の決戦でも序盤は西軍が有利に戦いを進めていく。
しかし、勢いもここまでだった。
小早川秀秋が裏切ったのを皮切りに、西軍の将が次々と東軍に寝返ったのだ。
なんだとー!
頼みの毛利軍も味方のはずの吉川広家軍が進路を塞ぎ、動くことができない。
こうして西軍は完全に崩壊。左近が常々注意していたが、結局三成は軍全体を見通すことができず、內なる敵に気がつかなかったのである。
西軍の敗北を確信した左近は、三成を逃がすために目の前の黒田長政軍に討ち死に覚悟の特攻を取行した。
「かかれー!」
という声とともに鬼神の如き猛攻を見せる左近。
受けて立つ長政は左近のあまりの勢いに恐怖し、後年この戦いを思い出しては何年も悪夢に悩まされ続けたという。
それほど左近の戦いぶりには鬼気迫るものがあった。
しかし、左近の奮闘空しく西軍は敗北。
三成は捕らえられ、斬首となった。だが左近の行方はわからなかった。
これは、左近が切腹したのち敵に首級をあげさせぬため、
我が死体を地中深く埋めよ・・・
死体を地中深くに埋めるよう指示したからだといわれている。
一方、左近が関ヶ原から無事に生き延びたという説もある。
もしそうだとしたら、自分の軍略を技露する時代は終わったと、どこかで太平の世を眺めていたのだろうか……。
島左近陣跡
笹尾山の麓!島左近
関ケ原の合戦前日、兵500を率いて挑んだ岐阜県大垣市「杭瀬川の戦い」で勝利し、西軍の士気を高めた左近は、笹尾山の麓に布陣します。そこで東軍からの猛攻を抑えますが、黒田隊の射撃により負傷し戦線を離脱しました。
島左近陣跡|観光スポット|ぎふの旅ガイド (kankou-gifu.jp)
<岐阜関ケ原古戦場記念館・関ケ原メモリアル>基本情報
住所 | 岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原 | |
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アクセス | JR関ケ原駅から北へ徒歩25分 | |
駐車場 | 普通乗用車: 20台 | |
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