学校では教えてくれない歴史の話 学校では教えてくれない!歴史の話(春秋戦国編)

【キングダム】『韓非子』『申不害』という男たちを輩出した最弱の韓と韓非子について完全版

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【キングダム】『韓非子』を輩出した韓という国の成り立ち

戦国七雄の中で、最も小さい国が韓です。

紀元前244年丞相呂不韋の命により秦の大将軍、蒙驁(もうごう)は韓に攻め込みます。

あきちゃん
あきちゃん

秦王政時代には、韓はすでに力を失っています。

「弱小韓を攻めるには最適な人物というわけか」キングダム11巻

と政が昌文君に確認しているところからも読み取れるように、韓は完全に小国扱いいです。

しかし、韓はその存在を他国から一目置かれていた時代もありました。

韓の歴史は古く、紀元前1122年に遡ります。

現在の河北省にあたる固安に周の武王の子である韓叔が封じられたのが、国の始まりと考えられています。この韓は、紀元前756年に晋によって滅ぼされてしまいます。

戦国時代の韓は、晋の王族である韓武子が韓原の地に封じられたことからその名の由来となっています。

要は最初の韓と同じ地域に韓という国がつくられたわけです。

やがて韓は、趙や魏とともに晋の地を分割する形で独立します。

かつての韓を滅ぼした晋の国は、三分割されることになりました。

紀元前403年には、韓氏、趙氏、魏氏らは周王から正武に諸侯と認められています。

この紀元前403年、または三つの国が実質的に晋を分割した紀元前453年を春秋戦国時代のうち、「戦国」時代の始まりとしています。

戦国時代に入ると諸侯たちは『王』を名乗るようになります。

韓では紀元前322年に宣恵王(せんけいおう)が初めて王を名乗りました。

こうして、韓を含めた戦国七雄と呼ばれる国々に中華は淘汰されていきました。

その中で特に力を付けてきたのは秦です。

キングダムの中でも登場するように、戦国時代は「合従」「連衡」という発想があります。

趙の李牧は、秦に匹敵する他の六国をまとめて合従軍作りました。

このうち、斉は蔡沢(さいたく)の外交力によって合従軍から離脱しますが、このような合従軍は史実でも何度でも作られています。

なにも六国すべてが合同するわけではなく、二国が結んで秦に対抗する、というパターンもありました。

「合従」とは、縦に合わさることです。

秦王政の曽祖父である昭襄王の時代に、領地を大きく広げた秦は、他国から見れば一国では太刀打ちできないほどに強大でした。

しかし、史実ではこの合従軍にはあまり韓の名前はでてきません。

蒙驁(もうごう)軍の快進撃の表現として

『わずかひと月に間に落とした城は11にも及んだ』

キングダム11巻

と作品中の解説文にあるように、韓の武力はあまりにも貧弱です。

合従軍としても物足りなかったことが伺えます。

秦がすでに楽勝ぐらい強かったということですね。

【キングダム】のちの世の『韓非子』にも影響を与えた名相申不害

韓はなぜこんなに弱いのか・・・

武力がないのは名将に恵まれないからです。しかし国力があれば廉頗(れんぱ)将軍のようなフリーランスの食客を抱えることができます。

して、国力がないのは優秀な政治家がいないからです。

あきちゃん
あきちゃん

しかし、韓に一人も優秀な政治家が一人もいなかったかと言えばそんなことはありません。

紀元前356年、申不害という男が、諸侯により韓の宰相に任命されました。

申不害は非常に頭の切れる宰相だったといわれています。

彼は、七雄中最弱の韓を強くするためには、法による国家の整備が必要だと諸侯に説いていました。

彼は、国内では政治と教育を整え、国外では列強の君主たちと15年に渡って交渉をし続けました。

国は良く治まり、外敵に攻め込まれることもありませんでした。

申不害が宰相だったときには、韓は富国強兵を地で行く国だったのです。

申不害は、

『老子』

『荘子』

を踏襲しながら刑名の学に力を入れました。

そうして彼が残した書物は

『申子』二篇です。

刑名の学とは、法家の思想で

「実」

「名」

との一致を求めることです。

少し難しいですが法家思想の基本となるものです。

あきちゃん
あきちゃん

まだ、キングダムではそこまで進んでいないので登場していませんが、今後物語の重要キャラクターとして登場すると思われるキャラクターで韓非がいます。

有名な

『韓非子』

を書いた政治家です。

彼は、申不害の思想に影響を受けています。

【キングダム】秦国のブレーン李斯(りし)と共に学んだ『韓非子』

歴史ファンはもちろんですが、一般の人でも

『韓非子』

という書物の名前くらいは聞いたことがあるのではないでしょうか。

『韓非子』

は戦国時代の思想の集大成ともいえるものです。

それを書いた韓非は韓の国の王族の遠縁として生まれました。

「刑名と法術を学んだが、その学説の基本は黄老に帰着する」

『史記列伝』

に書いています。

黄老というのは、荘子と老子のことだと考えられます。

韓非は生まれつき吃音(きつおん、どもり)があり、弁論が不得意でした。

そこで、勉学に励んで著述を得意とすることに力を注いだのです。

韓非が師と仰いだのが荀子です。

荀子の元では、後の秦の宰相となる李斯(りし)と共に学んでいました。

李斯(りし)は、

「韓非の頭脳にはとても自分は勝てない」

と言ったといわれています。

それほどに韓非は知略にあふれていました。

李斯(りし)は猛将蒙武(もうぶ)にたいして

「上奏とは主に政に関する提言。戦しか能のない貴様が何の提言か」キングダム10巻

とたしなめるほどの大物であり、自らの知恵に自信を持った人物です。

そして法による統治を目指す嬴政(えいせい)が呂不韋による反乱ののち、呂不韋に忠義を示し投獄されていた李斯(りし)を、法による統治を目指すなら法の番人李斯(りし)の力が必要と秦王政に復活したほどの人物です。

そんな人材が豊富な秦においても唯一無二の李斯(りし)がかなわないといった韓非のすごさが想像できると思います。

韓非は韓の国が次第に領土を失い、国の勢いまでなくなっていくのをとても見ていられませんでした。

そして韓王に何度となく書簡をおくって諫言(かんげん)しました。

しかし、韓王は韓非の意見を受け入れませんでした。

韓非はこう嘆いたといいます。

「韓王は国を統治するために少しも法整備をしない。権力の使い方もなっておらず臣下の制御も効かない。富国強兵のために人材をもとめることもせず、逆に軽微でみだらな毒虫みたいな人間を重宝している」・・・・

確かに、これでは韓が強くならないのは当然かもしれません。

李牧同様君主に恵まれず消えていった名将が秦の中華統一を築いたのかもしれません。

韓非は次のようにも言っています。

「儒者は文学を使って法律を混乱させ、遊興のやからは武力でもって禁令を踏みにじる」

儒学に関してはこちらをご覧ください。

そして、孤憤(こふん)、五蠹(ごと)、内外儲(ないがいちょ)、説林(ぜいりん)、説難(ぜいなん)など、10万語を書きました。

これが『韓非子』と呼ばれる著作です。

【キングダム】『韓非子』の才能を見出したのは韓王ではなく秦王嬴政(えいせい)

韓非の言うことを聞かぬまま、国の弱体化を防ぐことができない韓王。

しかし、

『韓非子』

を読んで感動した人物がいます。

その人物が大王政です。

政は

「このような著者とあって親しく話すことができたらしんでもいい」

と思い詰めたほど、韓非の著作にほれ込んでいました。

そして、韓非と政の会見は実現します。

韓非が、韓の使者として秦を訪れたのです。

これは理由があります。

秦にことごとく攻められた韓は崩壊寸前だったのです。

韓非は、国を救うため秦に命懸けのアピールをしました。

その危険性は、自ら説難(ぜいなん)つまり相手を説くことが難しいと記した韓非にはよくわかっていました。

もうこの時点で秦王の韓を滅ぼすことを止めることなどできないと・・・

しかし、韓非の才能そのものに魅力を感じていた政は、韓非を自分の家臣にしようと考えました。

これに猛反対したのが韓非のかつての同窓生の李斯(りし)でありました。

李斯(りし)は韓非を罠にかけ彼に毒を渡して自殺するようにしかけます。

韓非はこれを受け入れざるを得なかったたたのです。

そこから韓は一気に転落します。

紀元前230年、秦は10万の軍隊で韓に攻め込みます。

将軍は王騎(おうき)の副官で大将軍になった騰将軍です。

首都は陥落、韓王朝は捕らえられてしまします。

韓非が謀殺されてからわずか3年のことでした。

【キングダム】『韓非子』完全版解説

あきちゃん
あきちゃん

ここまではさらっと『韓非子』について書かせていただきましたが、コメントなどでご好評いただいたのでさらに詳しく【キングダム】『韓非子』について完全版として徹底解説します。

上記と同じ内容になる部分も存在してくると思いますので、詳細と思い見ていただければと思います。

秦の法治主義国家化の推進力となった人物が李斯だったことは確かです。

ところで、『キングダム』作中で「法による中華統一」を決意し地歩を固める脇政とその内意を受けた昌文君の導きによって秦国の中枢に復帰する際、かつての政敵である自らに激しい非難の声を浴びせかけろ群臣に対し、李斯が言い放ったセリフを覚えているでしょうか。

「中華統一の話を聞いた」

「統一後に制定される法についても…」

「とてもここにいる お前たちの手における代物ではない」

「それに着手できるのはこの中華でも俺と韓非子くらいだ」

キングダム46巻

この一連の李斯の発言により、韓非子の名前が初めて作中に登場します。

彼こそ法家を代表する思想家であり、秦の統治システムの完成に理論面で大きな影響を与えたキーパーソンに他なりません。

現時点まで『キングダム』作中ではそのパーソナリティーについて直接的な描写はなされていませんが、上記キングダムの引用した李斯のセリフが暗示する通り、近い将来重要なキャラとして登場してくるだろうことはほぼ確実と言っていいでしょう。

では、史実における韓非子はどんな人物で、いかなる思想を展開したのでしょうか。

韓非子は、紀元前3世紀の人物で、戦国七雄の一角を占める韓の皇族として生まれています。

ちなみに、「子」というのは「先生」というくらいの意味ですから、人名としては本来「韓非」とするのが正しいのですが、「孔子」や「老子」などと同様に「韓非子」と呼称されるのが一般的になっています。

『キングダム』でもこの呼称を踏襲しています。

その来歴には謎も多く、前半生についての詳細な記録はあまり残されていませんが、『史記』によれば、はじめ「性悪説」で知られる儒家の荀子に師事したとされています。

旬子の門下には李斯がおり、韓非と李斯はいわば同門の学友でありライバルでもあったのです。

韓非は生まれつき重度の吃音障害を持っており、何よりも弁舌の鮮やかさが問われる百家争鳴の時代において、大きなハンデキャップを背負っていました。

しかし、情熱的に学問に取り組み、特に文章を書く才能には頭抜けたものがあったとされ、同門の李斯も、こと学究に関しては韓非の才能には到底敵わないと認めていたようです。

韓非は衛子の門下を出立すると故国に戻ります。『キングダム』では列強のひとつとして描かれる韓ですが、実際には当時又にかなり衰退した戦国七雄の最弱国であり、秦に併呑されるのも時間の問題とされていました。

そんな故国の行く末を憂いた茎手は、王に対し盛んに国政改革を訴えましたが、吃音への侮蔑もあり、全く取り合ってもらえませんでした。

「話して伝わらないなら、書くしかない」

故国への建言がことごとく無視され悲嘆した韓非は、文筆活動に自らの活路を見出します。

自分の思想を形に残すために次々と著作に励んだのです。

それらはやがて「韓非子』という一冊にまとめられます。

そしてこの『韓非子』の執筆こそが、彼自身の実人生に大きな転機をもたらすことになります。

【キングダム】『韓非子』「人間は利益によって動く動物である」

韓非子の著作はほどなくして秦王の目に入り、統一王朝・秦の統治システム確立に多大な影響を与えています。

韓非子自身は同門の旧友でありライバルである李斯との確執の果てに非業の死を遂げることになるのですが、その経緯については後で触れることにして、ここでは『韓非子』の基本的な思想について紹介してみたいと思います。

不遇極めためた韓非が己の持をかけてきまとめた"韓非子』は法家のバイブルそして現代でも組織マネジメントのビジネスもバイブルとして今日に伝わっています。

全五十五篇からなる内容の全てを詳細に解説する幅はありませんが、その全編を貫いている基本的な考え方はズバリ、

「人間不信の哲学」

と言うべきものです。

韓非は人間という存在をはじめから全く「信頼」していません。

韓非は、人間が行動する動機について、

「愛情や思いやり、義理や人情らなく、ただ利益のみである」

と見なします。

「人間利益によって動く動物」

と話しているのです。

これは先行するする儒家の思想、例えば、孟子の「性善説」とも、韓非が学んだ荀子の「性悪説」とも、知れない考え方だと言えます。

韓非は人間の善悪について、つまり道徳については一切論じていません。

「性善説」 も「性悪説」も、その本質あるいは努力によって人間が道徳的な存在となれるという

「人間への信頼」

を前提としている点において、韓非の

「人間不信の哲学」

とは真逆なものです。さんざん吃音を馬鹿にされ、俗世での栄達に恵まれなかった彼らしい考え方だとも言えますが、こうした透徹した人間観こそ

「東の韓非子、西のマキャベリ」と称されるほどの・・・

こうした「人間不信」の考え方に立てば、前節で紹介した儒家の徳治主義

つまり、人徳や人格、あるいは情といった人間の内面的な要素に依存する統治は、はじめから成立し得ないものになります。

韓非の目には、徳治主義のベースにある儒家の人間観はあまりに楽観的で、生き馬の目を抜く戦乱の世の現実にそぐわないものとして映っていたのです。

【キングダム】『韓非子』統治原理としての「法」の効用

韓非は現実に根ざした統治の手段として「法」を採用します。人間の内側にある「徳」などではなく、人間の外側にある「法」によって人間を規制するという考え方です。

要するに、韓非は

「主観的な見えない縛り」

から、

「客観的な見える縛り」

への転換を説いたわけです。

こうした外在的原理によって人間を律するという考え方は、韓非が師事した荀子の「礼」の思想にり通じる部分があります。

あきちゃん
あきちゃん

旬子の思想の詳細については改めて触れますが、「礼」が人間の営みの中で長い年月をかけて蓄積され、慣習的に形作られたルールやマナーなのに対し、「法」はあくまで厳格に明文化されたルールです。

また、「礼」はそれを暗黙の了解として熟知している一部の貴族階級にのみ適用されろものであるのに対し、「法」はあらゆる人間を対象とします。

「法」は、習慣や生活スタイルの違う全ての人間、『キングダム」作中で李斯がいう「文化形成」の異なろ者にもあまねく適用されるべき具体的ルールなのです。

貴族であれ平民であれ、「○○はしてはいけない」という決め事は身分に関係なく適用されます。

そして「法」には、それを破った場合の明確な罰則規定が附記されます。

これが「法治」の大原則です。

とはいえ、これは現代の民主主義国家に生きろ私たちが享受しているような、いわゆる

「法のもとの平等」

とは違います。

「法」はあくまでも国家権力が民を統治するための手段であり、その上に立ち、それを司っているのは王であり国家なのです。

「法」それ自体は客観的なものですが、その運用はあくまで王ないし国家の主観によるものです。

あるいはそこが法治主義の大きなジレンマであるとも言えるかもしれません。

いずれにせよ、韓非の説く「法治」の徹底は、そのまま「法」の立法者であり施行者である王権の無化に寄与します。

実はここにこそ、韓非の思想が秦王政(始皇帝)を魅了した最大の理由があったのではないでしょうか。

『キングダム』における呂不韋陣営の横暴な振る舞いを見ればわかる通り、春秋戦国時代は諸国が自国の存亡をかけて凌ぎを削る戦乱の時代であると同時に、国の主導権を巡る内紛の時代でもありました。

国と国との熾烈な生存競争は様々な人材を輩出する土壌となり、有能な人材を積極的に国政に登用する気風を生みましたが、一方では有象無象が国家権力の中枢に潜り込み、君主の権限が食い荒らされるような事態をももたらしました。

『韓非子』に

「人主の患は、人を信ずるに在り。人を信ずれば、人に制せらる」

という有名な一文があります。

これは、

「君主の悩みごとは人を信じることから生じるものだ。人を信じれば、その人の思い通りにされてしまう」

という意味です。

ここにもはっきりと韓非の「人間不信の哲学」が見て取れますが、「法」は有象無象の臣下に取り入る隙を与えず、王(皇帝)の権力を絶対化する手段としてもその効用を発揮するものだったのです。

このような前提理解があれば、『キングダム』作中で盛んに用いられる「法」が、また違った響きを持つものに感じられるようになるかもしれません。

もちろん、『キングダム』の秦王政が王権強化のためだけに法治国家を目指しているわけではないことは明らかですが、一方で政が説く「法による中華統一」が単なる理想主的うのでは済まないしいるのであることも、改めて認識させられるのです。

【キングダム】『韓非子』結果主義・能力主義と「信賞必罰」

では、『韓非子』に示された韓非の思想を辿ってみましょう。

その特徴は、結果主義と能力主義です。

これは出自や身分による社会的な特権を否定するもの、どんな名門の出あっても、結果を残せない者からはその地位と俸禄を取り上げ、逆に下代層出身の人間あったら結果を出した者には相応の褒賞を与える。

その評価基準はあくまで「結果」であって、努力や闘ぶりといったものは考慮すべきでない。

ある意味ドライな考え方とも言えますが、これは何より身分がモノをいう当時の社会において非常に画期的な提言だったに違いありません。

さらに「信賞必罰」の重要性を説きます。

功があれば必ず賞を与え、罪を犯せば必ず罰する。

この原則を徹底すれば、自ずと争いや犯罪は減るだろうと韓非は考えます。

これも、

「人間はみな安全な方に向かい、危うい切迫した状況を避けようとする」

という功利主義的な人間観にダイレクトに繋がっています。

人間は利益のみをモチベーションとして行動する。

だからこそ、良い結果を残した者には利益すなわち恩賞を与えなければならない。

逆に悪事を働き、あるいは国にとって良くない結果をもたらした者には不利益すなわち罰を与えなければならない。

つまり、賞罰こそが人間の行動を左右する原動力であり、また人を従わせる唯一の手段であるという考え方です。

もうひとつ、韓非は君主の権威を重視します(権威主義)。

前述した通り、主従の秩序と厳格な法の運用を重んじるには、君主は常に絶大な権威を纏う存在でなければなりません。

仮にも君主が明らかに力量を欠き、人間性に難があったとしても、それによって政治の安定性が失われることがないためにこそ、絶対的な権威が必要なのです。

この権威継持に重要なのが、「術」と「勢」です。

「術」とは、臣下・臣民を自在にコントロールする

ための術策のことで、端的には賞罰の厳正な実施を意味します。

「勢」は法治を機能させるための体勢や権勢、これは「権威の装飾」と言い換えても良いでしょう。

豪華な宮殿に住み、煌びやかな衣服を身にまとい、多くの臣下を持ってこそ「勢」は生まれ、権威の客観性を担保するのです。

このように、いわば臣民を意のままに操るノウハウとしての要素を多分に含んでいることから、韓非の過想は

「法術思想」

とも呼ばれます。

【キングダム】『韓非子』李斯との確執と非業の最期

以上が「韓非子』に見る韓非の思想の骨子ですが、『韓非子』の完成からほどなくして、韓非は秦に入国しています。

秦の丞相となっていた李斯は、事実上の属国でありながら面従腹背の態度を見せる韓を完全に併合し、郡県化するように秦王に上奏していました。

こうした秦国中枢の動向を受け、韓非は故国の弁明のための使者として奉に赴いたのです。

実は秦王は家臣を介して韓非の著作に触れており、

「この者に会えたなら、もう心残りはない」

と周囲に漏らすほどその思想に心酔しきっていたと言われます。

法治国家を目指す秦王にとって、韓非の思想はまさに指針となろべきものに思われていたのです。

実際、既にブレーンの座に収まっていた李斯も『韓非子』をたびたび引用し、秦王に上奏していました。

そうしてこうして秦王と面会を果たし、ようやく陽の目を見るチャンスが訪れたことを自覚した韓非は、積極果敢に自らを売り込みました。

しかし、やはりここでも吃音が災いし、秦王の決定的な信任を得ることはできませんでした。

別の説として、

「あれだけの文才を有する人物なら、言葉巧みに何らかの罠をかけてくるに違いない」

と秦王サイドが警戒したという見方もあります。

秦王がその才能に惚れ込み手元に置きたいと考えていたのは確かなようですが、いずれにせよ韓非の秦への出仕はかないませんでした。

夢破れた韓非をさらに不幸が襲います。

韓非に自らの地位が脅かされることを恐れた李斯の謀略により牢に繋がれ、自害させられるのです。

李斯は秦王に

「韓の公子である韓非が秦に忠誠を誓うはずがない。かといってこのまま国に返せばやがて災いのもとになるでしょう」

と言い投獄させ、自ら毒薬を獄中の旧友に手渡して飲み下すことを強要したと言います。

この際、李斯は呂不韋が裏で糸を引いた嫪毐(ろうあい)の反乱を受けて秦出身の大臣たちが提出した

「逐客令(外国人追放令)」

を厳格に適用し、

「外国出身の大物」

である韓非をスケープゴートとして排斥したのだとも言われています。

実は楚の出身である李斯自身も本来は「逐客令」の対象だったのですが、過去に外国出身者たちが秦の発展に貢献してきたことを滔々と述べた念入りな嘆願書を秦王に提出し、力技で「逐客令」の撤回に持ち込んだという経緯がありました。

『キングダム』では採用されていませんが、この時の李斯の理路整然とした主張が秦王を感心させ、秦王直属の重臣として取り立てられる契機となったというのが通説です。

こうして、李斯はかつて自らを窮地に追い込んだ法令をもってライバルを蹴落としました。

厳正な法律の運用を訴える法家の大家が、秦国の法をもって処刑される。皮肉と言えば皮肉ですが、上記の説が真実だとすれば、李斯の策士ぶりが際立つエピソードではあります。

この辺りの経緯が『キングダム』では今後どう描かれるのか、実に興味深いところです。

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