【キングダム】結論、最強は王翦(おうせん)
史実によれば、始皇帝(政)が中華を統一していく中ででもっとも頼りにし、もっとも戦功を挙げたのが王翦(おうせん)でした。
王翦(おうせん)が歴史に登場するのは、紀元前236年からで、この年王翦(おうせん)は、副将桓騎(かんき)のほか楊端和(ようたんわ)らと共に趙の都の邯鄲(かんたん)の南にある鄴(ぎょう)を攻めました。
鄴(ぎょう)の周囲にある9つの城は落とすことができましたが、鄴(ぎょう)の守りは堅く、なかなか落とすことができません。
そこで王翦(おうせん)は、を桓騎(かんき)と楊端和(ようたんわ)に包囲させつつ、自身は鄴(ぎょう)の東方に向かい、閼与(あつよ)と橑楊(ろうよう)の攻略に向かいます。
閼与(あつよ)と橑楊(ろうよう)を落とした王翦(おうせん)は、再び桓騎(かんき)と楊端和(ようたんわ)の軍と合流しますが、鄴(ぎょう)なかなか陥落しません。
そのため王翦(おうせん)は、全軍から選りすぐりの部隊を編成し鄴(ぎょう)をさせることに成功しました。
この後、引き続きや桓騎(かんき)が趙を攻めて平陽を落としますが、桓騎(かんき)は宜安(ぎあん)攻めで対決した趙の天才武将李牧に敗れ、秦の趙侵攻はここで一端休戦してしまいます。
しかし、紀元前229年、秦は再び趙に侵攻します。
そのときも、信頼と実績の王翦(おうせん)が軍を率いていました。
王翦(おうせん)は楊端和、羌瘣(きょうかい)、李信らと共に侵攻し、楊端和には邯鄲(かんたん)を包囲させつつ、羌瘣(きょうかい)には北方を任せ、李信には周り西北部を平定させました。
王翦(おうせん)は次々に攻略をし楊端和の邯鄲(かんたん)包囲に参加しますが、ここで王翦(おうせん)と趙の名将・李牧が激突します。
しかし、王翦(おうせん)と李牧の戦いは、あっけなく終わってしまいました。
なぜ・・・
王翦(おうせん)は、趙臣・郭開に賄賂を贈り、趙王に李牧が謀反を企てているとウソの情報を流しました。(キングダムの陰の天才のイメージどおり・・・)
李牧の才能を恐れていた趙王はこの策略にまんまとひっかかり、李牧を更迭しようとしました。
李牧がこの命令を聞かなかったため、趙王は李牧を捕えて処断してしまったのです。
李牧を失った趙軍は王翦の敵ではなく、翌年には趙の都であった邯鄲(かんたん)を陥落させ、逃亡した趙王を平陽で捕らえることに成功しました。
王翦(おうせん)は趙の国土を平定し、
ついに趙を滅ぼしたのです。
キングダム王翦(おうせん)さらなる武功燕を撃破
政は趙の次の目標として、自分に刺客荊軻(けいか)を送ってきた燕を討伐することにしました。
もちろんこの討伐でも軍を率いたのは政から絶大の信頼を得ていた王翦(おうせん)です。
紀元前227年、辛勝を伴って出陣した王翦(おうせん)は、易水の西で燕と対峙します。
このときの燕の軍勢には、趙滅亡の折、一族を率いて代へと逃亡し、そこで王となった、代の軍勢も含まれていました。
しかし王翦(おうせん)はこれを軽々に撃破し、翌年には燕の都・薊(けい)を陥落させます。
燕王こそ逃してしまいましたが、王翦(おうせん)は趙に続き燕も滅ぼしたのです。
ちなみにこの戦いには、王翦(おうせん)の子・王賁(おうほん)も従軍しており、薊(けい)攻めでは、王翦(おうせん)に先立ち攻撃を仕掛けています。
キングダム王翦(おうせん)最終決戦楚攻め
趙と燕を手に入れた政は、次に大国・楚を討とうとします。
その際、政は李信と王翦(おうせん)に楚攻略の必要な兵数の見積もりを尋ねました。
政は、兵数を少なく見積もった李信の若さと剛胆さを採用します。
そして自分の意見を聞き入れられなかった王翦(おうせん)は、隠居してしまいます。
ところが李信は敵将・項燕(こうえん)によって叩きのめされ、7人もの将を討ち取られる惨敗喫してしまいました。
困った政は隠居していた王翦(おうせん)のもとを訪れて自らの判断を謝罪し、60万の兵を王翦(おうせん)に与え、紀元前224年、蒙武とともに楚へ出陣させました。
王翦(おうせん)はの進軍途中、函谷関にいたるまでの間に、政に対し5度も使者を送って戦後の恩賞を懇願しています。(よっぽど悔しかったのでしょう(^^♪)
しかしこれは王翦(おうせん)が「がめつい」からではなく、秦のほぼ全軍を率いている自分が恩賞を欲しがらなければ猜疑心の強い政が、自分に対して謀反の疑いを持ってしまうと考えたためでした。
どこまで、頭の良い将軍なのでしょうか・・・
王翦(おうせん)は「王様は粗暴な気立てで人を信用しない。このようにして恩賞だけが自分の望みであると思っていただくのが私の目的なのだ」と明かしたと史実にも残されています。
キングダムでは、王になりたがっている不遜な人物として描かれていますが、本当は、こうした配慮もできる人物だったのです。
さらに軍を進め、項燕と対峙した王翦(おうせん)は、李信・蒙恬が猛進していったのとは対照的に、陣を固めで守りに徹しました。
項燕は何とか王翦(おうせん)を誘い出そうと挑発しましたが、王翦(おうせん)はそれには乗らず、
攻めないばかりか兵士を十分に休ませていました。
やがて前線にきたものの戦いのない日々を送っていたの兵士たちは、陣のなかで遊び始めます。
これを十分に英気を養った結果だと見た王翦(おうせん)は、挑発に乗らないので撤退をはじめていた楚軍に対し討って出ました。
不意を突かれ奇襲を楚軍は総崩れとなり敗走し、『史記』の「秦始皇本紀」によれば、王翦(おうせん)は楚王を捕えて平輿に至るまでの地を占領し、楚を滅亡させました。
その後、項燕は昌平君を楚王に立てて軍を起こしますが、これも王翦が鎮圧しています。
政が中華統一するなかで滅ぼした国のうち、超・燕・楚が王翦(おうせん)によるものでした。
これほどの戦功を挙げた者は他にいないので、作中に登場する将軍のなかで最強なのは、王翦(おうせん)で間違いないのではないでしょうか。
もしかすると、歴史上の主人公は王翦(おうせん)といわんばかりの圧倒的な戦果です。
王翦(おうせん)は、史記を見る限りでは、指揮能力の高さもさることながら相手の心理も見事にとらえることにも優れ、将軍としても活躍し、戦で死ぬようなことも誅殺されることもなく、天寿をまっとうしたと考えられています。
将軍となった李信も深く関わることになるこの辺りの戦は、『キングダム』においても非常に興味深いものになるのではないでしょうか。
おそらくキングダムの最後の一大決戦として描かれるのではないかと予想しています。
ネタバレという結果になったらごめんなさい。
『キングダム』は、原泰久による日本の漫画。『週刊ヤングジャンプ』にて2006年9号より連載中。 第17回手塚治虫文化賞のマンガ大賞受賞作品である。コミックス累計発行部数は2021年4月の第61巻発売をもって8000万部を突破している。2008年に集英社運営の『VOMIC』にて全8回のラジオドラマが放送された
ウィキペディア
キングダム謎多き武将王翦(おうせん)の仮面に隠された素顔とは?
史実では多大な功績を挙げた人物
王翦(おうせん)は「キングダム」第201話(第9巻)から、蒙驚軍の謎の副将として登場する秦の将軍です。
目元まで隠れる兜をかぶった姿や神出鬼没な戦い方などが、さらにその素性に神秘性を与えており、それが人気キャラクターの要因となっているのではないでしょうか。
素顔はいまだ明かされておらず、息子で武将の王賁(おうほん)共々、今後の物語の展開に大きく関わってくるような雰囲気を醸し出しています。
そのモデルとなっていると考えられる史実に登場する王翦は、始皇帝の中国統一に、文官として多大に貢献した李斯(りし)を除けば、最大の功績を残しており、『史記』にも『白起王翦列伝』という人物伝が残る名将です。
まずは王翦(おうせん)という人物を、史実を元にさらに詳しく紐解いてみたいと思います。
王翦(おうせん)は、漢代に長安と名付けられ、首都にもなった現在の西安市に近い、頻陽の東郷出身です。
今風にいえば都生まれで、若い頃から兵法に通じた人物として知られ、武将として始皇帝に仕えます。
『キングダム』では、
「あの王騎将軍を輩出した名門王一族の現当主だ」
という設定になっているのが、武将の蒙恬(もうてん)のセリフからわかります。
また王翦(おうせん)は人材の往来が非常に激しかった春秋戦国時代にあって、出身国の王に仕え、そのまま王を変えることがなかった、ある意味めずらしい将軍のひとりです。
王翦(おうせん)は「白起王翦列伝』によれば、紀元前236年に趙を攻めて9城を落とし、その後趙王を降ろします。
さらに燕に侵攻して燕王を敗走させ、武将で息子の王賁(おうほん)と共に楚や魏を討つなどと、秦の天下統一において、ナンバーワンの活躍を見せます。
環境が著しく違う広い中国大陸の南北を往来し、なおかつ勝利しているということは王翦(おうせん)が騎馬や歩兵の扱いに長けたオールマイティな戦術家であったことの証明です。
また『キングダム」では、蒙驚(もうごう)軍が魏を攻めた戦いにおいて、谷に砦を築いて立て籠り、廉頗(れんぱ)軍の戦意を喪失させる場面が描かれていますが、「白起王義列伝」にも、対楚戦で似たような王翦(おうせん)の戦い方が記されています。
王翦の出陣を知って大軍を差し向けた楚軍に対し王翦(おうせん)は保塁を築き立てこもり、全軍に休息まで取らせ動こうとせず、その姿に造軍が引き上げを開始すると、突如として追撃戦を開始。
楚軍を大敗させ将軍の項燕を討ち取るのです。
同じく『白起王翦列伝』には、王翦(おうせん)が大軍を率いて対楚戦に出陣としたこのとき、何度も始皇帝に恩賞を求める使者を出し、それは部下にまで「度が過ぎる」と言わせるものだったと記されています。
これは大将軍であった白起(はくき)が信頼を得られず昭王に自害させられた末路を知っていて、人を信じず疑り深い始皇帝に、8万という大軍を率いても自分は欲にかられた人間で叛旗を翻すことはないと思わせる方策だったとされています。
つまり王翦という人物は、人心にも通じていたことで名将としての名を残したといえるのです。
キングダム王翦(おうせん)は信の目標? ライバル?
史実での王翦(おうせん)は、信の後の姿とされる李信将軍とも深く関わっている武将です。
『史記』の中で李信の名を見出すことができる記述のひとつが『白起王翦列伝』に記されています。
始皇帝が造を攻めるにあたって必要な軍勢を李信と王翦に聞いたところ、李信は「20万」と答え、王翦(おうせん)は「60万」と答えます。
始皇帝は李信の言葉を信じて20万で出兵させるのですが、李信は敗走。
始皇帝は改めて王翦(おうせん)を自ら訪ねて平身低頭して頼み、60万の軍勢を与え楚を滅ぼさせたという内容です。
このとき始皇帝は失敗の責任を李信に取らせることはなかったとされ、ふたりの深い関係を想像させるのです。
王翦の今後の活躍を期待させるとともに、『キングダム」の設定に重要な影響を与えたエピソードと考えられます。
それでは王翦(おうせん)は、今後の『キングダム』において大将軍を目指す信の最大のライバルとなるのでしょうか?
作品では「本能型」と「知略型」、「攻」と「守」等、将軍がその戦い方によってタイプ分けされています。
そして王翦(おうせん)は明らかに「守」の「知略型」と考えられます。
信はもちろん「攻」で、今までの戦い方や 麃公(ひょうこう)の評価を見ると「本能型」と考えて間違いないでしょう。
タイプが違う王翦と信は、「良きライバル」になると考えられますが、あるいは、敵であっても良い武将を配下に抱えようとする王翦ですから、ひょっとすると信と「師弟」になる可能性もあるかもしれません。