皆さんこんにちは。
いきなりですが皆さんは明智光秀についてどのようなイメージがございますか?
大河ドラマ麒麟が来るでは主人公として描かれ織田信長の天下布武の実現に尽力し最後はおのれの信じた大義のため、本能寺の変を起こし織田信長(おだのぶなが)に対して下克上成功させた人物というのがざっくりとしたイメージではないでしょうか。
今回はさらに詳しく明智光秀に関して解説いたします。
これを見れば明智光秀の一生がわかります。
是非最後までご覧ください。
明智光秀(あけちみつひで)信長に仕える以前の光秀は...
天下統一を目前にしていた織田信長(おだのぶなが)に謀反を起こし、本能寺においてその野望を打ち砕いた明智光秀は、
1528年に現在の岐阜県可児市に築城された明智城で生まれました。
斎藤道三(さいとうどうざん)に仕えていた明智光綱の子で、家系は清和源氏の流れを汲んでいた。
織田信長の部下として知られているため信長よりも年下。
というイメージを持っている人も多いようだが、信長の生まれは1534年。
実際には光秀の方が6歳も年上なのだ。
光秀は、可児市で生まれたという説のほかに、同県の山県市で生まれたという説や、恵那市の明智城で生まれたという説もある。
また生誕についても、1515年生まれとの説があり、光秀の前半生には、はっきりしないことが多い。
信長に仕えるまでの光秀は、父・光綱と共に斎藤道三を主君としていた。だが、道三とその嫡男・義龍の対立が激化した1556年に明智城を義龍に攻撃され、一家離散を余儀なくされてしまう。
その後、光秀は紆余曲折を経て越前の朝倉氏に仕えることになった。
明智光秀
明智光秀(あけちみつひで)足利義昭の外交担当として織田信長と邂逅
越前において光秀は、のちに十五代・室町将軍となる足利義昭と接触する。
義昭は、同母兄の十三代将軍・足利義輝を謀反によって殺され、幽閉される身だったが、傀儡だった十四代将軍の義栄を追い込んで、将軍家を再興しようと画策。
朝倉氏を頼り越前に訪れたのだった。光秀は、義昭の接待役を担っていたようだ。
だが、朝倉氏の動きは鈍く、業を煮やした義昭は織田信長を頼ることになる。このとき、義昭と信長の間に立ったのが光秀だったのだ。
巧みな外交手腕や、あふれる才気を信長に見込まれて、のちに織田家の家臣となる道を歩むことになります。
やがて盟を結んだ義昭と信長はそろって上洛。
義昭は、1568年に将軍の座につくことになったが、それも、光秀の働きがなければ実現しなかったかもしれないのである。
明智光秀(あけちみつひで)当然? 信長の信頼を得てスピード出世
前述の通り、光秀は信長を惚れさせるほどの人物だった。
和歌や連歌に加え、茶のもたしなむなど文化的教養が豊かで、礼儀作法にもくわしく交渉上手。
朝倉家に仕えながら諸国を巡っていた経験もあり、各地の情勢や経済にも詳しかった。
のちに豊臣を名乗ることとなる羽柴秀吉や、信長と同郷の尾張出身の家臣たちには望むことのできない能力を光秀は持っていたのだった。
また、鉄砲の技術にも長け、戦においても頼もしい存在とされたことから、1569年に信長の直臣になるや、家中からの信頼を得ていった。
1571年の比叡山焼き討ちで大活躍した光秀は、信長から近江国滋賀郡を授かり、この地に坂本城を築いた。
これほどのスピード出世は、例のない快挙でなんですよ。
戦のたびに武功を重ね、その褒賞として滋賀郡に続き1579年には丹波国を獲得。
さらに、近畿地方の織田系大名を統べる総合指揮を権限までを信長から与えられるようになったのである。
天下統一を目指した信長は光秀を信頼し、光秀もまた信長に忠義を尽くしていたのだ。
だが、光秀は反旗を翻し本能寺で信長を討つこととなる。
光秀を謀反に向かわせた理由とは、いったいなんだったのだろう?
明智光秀(あけちみつひで)本能寺の変、光秀の動機は今も謎のまま?
光秀による信長暗殺事件、いわゆる本能寺の変について、光秀の動機は日本の歴史上最大のミステリーとされ、いまだにその謎が解明されていない。
多くの研究者が推論を掲げているが、どれも決定的な証拠がないため、仮説の域を出ないのが現状である。
本能寺の変が起こったのは、1582年6月2日。
その前夜、光秀は信長の命によって、毛利氏征伐に苦戦していた羽柴秀吉(はしばひでよし)を援助するために、備中へと一万二千の兵
を進めるはずだった。予定通り進軍を始めた光秀軍だったが、突如進攻方向を変え本能寺を目指したという。
「敵は本能寺にあり!」
と光秀が叫んだというのは、江戸時代中後期の文人・頼山陽による創作だが、このとき本能寺にいたのは信長を含め百人ほど。
恐らくほとんどの兵が、光秀のターゲットが信長だとは知らなかったと思われるが、攻めれば信長の首が獲れるのは確実だった。
それゆえに、光秀が一武将として、信長を討つことは出世の好機、と考え、この瞬間を利用したという説がある。
だが、謀反の直後に織田勢の返り討ちに合い瀕死となったに事実から考えれば、光秀ほどの人物にしては計画性に乏しいといわざるを得ない。
ほかにも、信長を疎んだ将軍や朝廷が黒幕だという説や、光秀が外交を担当していた長曾我部氏との関係を信長が反故にして面子をつぶされたためという説、同僚が追放の憂き目に遭うのを見て信長を恐怖したという説、細かな怨恨が積もりに積もって爆発した……という説も。
また、備中で苦戦していた秀吉が、信長死亡の報を聞き、毛利勢と休戦協定を結んで、西に敗走していた光秀と遭遇するまでに要した時間は十一日間。
西に敗走していた光秀と遭遇するまでに要した時間は十一日間。
主君の大事に全力を尽くしたといえなくもないが、所要時間が短すぎることから、実は秀吉が光秀になんらかの動機を与え、信長を亡き者としたところで予定通りに光秀を討ったのでは?
という説まである。信長の死で、もっとも得をしたのが秀吉だったことを考えれば、この説が浮上するのも、わからなくない。
明智光秀(あけちみつひで)まさか? 光秀は江戸時代まで生き延びた?
いずれにしても、光秀の動機は謎に包まれたままだ。本能寺の変を扱った小説や劇作品が多く作られているのは、さまざまな想像を膨らませられるからなのだろう。
悲しいかな、信長を討った光秀に味方する武将はひとりもいなかった。京都と大坂の境・山崎の地で秀吉軍に襲われた光秀は敗走の途中、農民による落ち武者狩りによって命を落とした。
享年55歳。
稀代の裏切り者、のように語られることが多いですが、存命中は側室を持たぬ愛妻家として有名で、戦で負傷した家臣の家族には見舞状を送るなど、心配りのできる人物でした(笑)。
本能寺の変は、信長の性急な政治変革の連続についていけなくなった光秀の家臣たちの熱望によるもので、光秀は家臣に応えたに過ぎないという説もある。
光秀の家臣への気遣いに呼応して、家臣たちもまた光秀を慕っていた。秀吉軍に追い詰められた山崎の戦いの際には、二百騎あまりが秀吉軍に決死の突入をしかけ、光秀を逃がしたといわれている。
光秀をめぐっては、さらなるミステリーがある。
山崎の戦いのあと、光秀のものといわれる首が三つ見つかったという記録が残っているのだ。
どれかふたつが偽物?
はたまた、三つすべてが別人のものだったということも考えられるだろう。
落ち武者狩りに遭ったとされる光秀だが、実は生き延びて、徳川家康(とくがわいえやす)、徳川家に仕えた僧・南光坊天海になったという説がある。
日光東照宮に、明智の紋である桔梗柄が多いことや、日光に明智平、という区域があるということがその論拠である。最近では、光秀と天海の筆跡鑑定が行なわれ、同一人物、との見解が出たそうだが……。
天海は1648年に百八歳で没したとされている。
もしも光秀が天海だったとしたら、光秀は百十五歳まで生きたことになる?
明智光秀(あけちみつひで)ゆかりの地本能寺
参拝と交通
参拝時間と料金
本能寺 | 参拝時間 | 午前6:00〜午後5:00 |
参拝料金 | 無料 ※ご自由にご参拝下さい。 | |
大寶殿宝物館 | 開館時間 | 午前9:00〜午後5:00(入館は午後4:30まで) |
休館日 | 年末年始・展示替え日 | |
料金 | 一般 500円中・高校生 300円小学生 250円修学旅行生・身障者 200円※30名以上は団体割引あり※大賓殿特別展開催期間中は料金が異なります。 |
交通アクセス
法華宗大本山 本能寺
住所〒604-8091 京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522
TEL075-231-5335
法華宗 大本山 本能寺|参拝と交通 (kyoto-honnouji.jp)
電車でのアクセス | 地下鉄東西線 | 「市役所前駅」すぐ |
JR京都駅 | 地下鉄烏丸線「烏丸御池駅」乗換東西線へ、市バス「市役所前駅」下車。 | |
市バス・京都バス | 「河原町三条停」下車すぐ。 | |
京阪電車 | 「三条駅」下車 西へ徒歩5分。 | |
阪急電車 | 「河原町駅」下車 北へ徒歩10分 | |
お車でのアクセス | 東京方面からお越しの場合 | 名神高速京都東IC を 東海道/国道1号線 方面に向かって進み、国道一号線から河原町通方面へ |
大阪・神戸方面から | 名神高速京都南第2 ICを京都南・京都市内・宇治方面に向かって進み、 国道一号線から河原町通方面へ | |
駐車場 | 30分 200円※駐車台数20台※高さ2.7m以下マイクロバスまたは2tトラックまでの駐車は可能です。※大型中型バスの駐車は出来ません。 |
明智 光秀は、戦国時代から安土桃山時代にかけて武将・大名。 美濃国の明智氏の支流の人物。一般に美濃の明智荘の明智城の出身と言われているが、他の説もある。 最初は、土岐氏に代わって美濃の国主となった斎藤道三に仕えた。生年月日: 1526年出生地: 美濃国死亡日: 1582年7月2日, 山城国配偶者: 妻木煕子 (1576年まで)子女: 細川ガラシャ、 明智光慶両親: 明智光綱、 お牧の方
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