キングダム媧燐(かりん)そもそも実在していたのか?
合従軍と秦との戦いで、楚の第一軍を率いた臨武君が討たれた後、楚の第二軍を率いて秦を苦しめたのが花の女将軍・媧燐(かりん)です。
ちなみに中国の歴史の中には、最古の女将軍といわれている、殷の第5代帝の武丁(ぶちょう)の夫人婦好(ふこう)や、明代の武将・秦良玉(しんりょくぎょく)など、女傑と呼べる女将軍が何人か登場していますが、媧燐(かりん)のモデルとなったような女将軍が、春秋戦国時代に実在したのでしょうか?
残念ながら「史記』や『戦国策』などの史書の中にそれを見出すことはできません。
媧燐(かりん)は架空の人物であると考えられます。
そうはいっても、その名前や独特のキャラクターは全くの空想によるものではないと思われます。
まず「媧燐(かりん)」という名前ですが、中国の神話に「女媧(じょか)」という女神がいます。
人間を作った創造神なのですが、中国の古典小説『封神演義』には、自分を軽んじた殷の紂王(ちゅうおう)を陥れるよう、狐狸(こり)の精に命じた荒ぶる女神として登場しています。
そしてそこに、同素体の中には燃え出すと猛毒を発するものもある元素「燐」という文字が加われば、それはまさに、登場した途端に自軍の副官を蹴り殺した苛烈な媧燐(かりん)将軍のイメージにピッタリとはまるといえるのではないでしょうか。
ちなみにその風貌は、「地の巨人」と呼ばれている楚軍総大将・汗明と並んでも引けを取らない長身で、その逆三角形に整えている前髪も併せると、キャラクターデザインは、あの和田アキ子さんをモデルとしているのでは? と考えている読者も多いようです。
和田 アキ子は、日本の歌手、タレント、司会者、ラジオパーソナリティ。所属芸能事務所は株式会社ホリプロ。ユニバーサルミュージック所属。 在日韓国人として出生し、その後日本へ帰化。血液型O型。 愛称はアッコ、アコ、ゴッド。 本名、飯塚 現子。旧姓、和田。帰化前の通名は、金海 福子。
ウィキペディア
女だてらに大国楚の将軍をまかされたの知略と武勇は、どれほどのものなのでしょうか。
まずその知略ですが、
「全軍大いなる凡戦を連ねて十日後に函谷関を落とすべし」
と献策し、それを聞いた李牧(りぼく)に
「なるほど本物ですね 二将 媧燐(かりん)」
と言わせ、その後には、戦場全体を操るように、戦象部隊を目くらましに使って騰(とう)軍を囲み、自ら本軍を率いて敵陣に討って出て敵を引き付け、そのすべてがをまみかしと言い放って、自軍の精鋭5千人を函谷関の背後に送り込むなどと、その知略を見せ付けます。
キングダム媧燐(かりん)戦闘力はいまだ未知数
ただしその戦闘力に関してはいまだ敵将と直接刃を交えた姿がありませんので未知数です。
しかし、キングダムで描かれているように、背後から飛んでくる槍に、従っている副将より早く気づくといった姿から、相当の武才を秘めていると想像できます。
とはいえ、媧燐(かりん)軍の元で見るからに武を担っていると思える弟の媧偃(かえん)も登場していますので、将軍自身が戦う描写はあまり登場しないかもしれません。
キングダム楚 と秦の最終決戦での媧燐(かりん)の活躍は?
今後、優れた戦略眼を見せ付けた媧燐(かりん)は、信と政(せい)の中華統一にどのように立ちはだかるのでしょうか。
史実ではこの後、春申君は合従軍の失敗を考烈王にとがめられ、さらに考烈王の跡継ぎ問題で殺されてしまいます。つまり楚は1番の軍師を失ってしまうのです。
『史記』によれば、紀元前226年に王賁(おうほん)に攻められた際、楚軍は敗退しますが、この後には、20万の軍を率いて侵攻した李信と蒙恬(もうてん)を楚の名将・項燕が撃退しています。
このときまで媧燐(かりん)が存命ならば、彼女はこの戦いに将軍、あるいは副将として参戦すると考えらます。
この戦いは、最初は勝ち進んでいた李信と蒙恬が合流した後に追い立てられ、油断したところを突かれて大敗させられたと『史記』に記されています。
この記述を見る限り、李信軍が罠にはめられたと想像できるため、媧燐(かりん)が策謀を巡らせて、信と蒙恬を翻弄することになるかもしれません。
ちなみにこの戦いで李信は7人の腹心を死なせたと記されています。
ちろん武将の名などは史実に残されていませんが、『キングダム』の重要メンバーが死んでしまう可能性も考えられるのです。
そして『白起王翦列伝』によれば、この後、楚は60万を率いた王翦(おうせん)に攻め滅ぼされます。
ここでは、媧燐(かりん)と王翦(おうせん)、そして信も王翦(おうせん)の軍に入って雪辱を果たす戦いに臨むと考えられます。
さらにその後には、この戦いで敗走した楚将軍の項燕にかつがれて楚王となった昌平君(しょうへいくん)と秦が戦っています。
つまり軍師・昌平君と、をはじめとした個性的な将軍が、秦軍と激しい戦いを繰り広げると考えられるのです。
これらの戦いもまた今後の『キングダム』の展開で気になるところでしょう。
媧燐(かりん) 軍は楚の歴史にどう絡む?信たちと死闘の可能性あり
現在、軍全体の第二将軍であり、宰相も兼ねる 媧燐(かりん) 。
初登場は合従軍編でした。当時は楚軍第二軍の将で、第一陣の将軍・臨武君が騰(とう)に討ち取られると、その管轄下であった項翼や白麗などを自軍に加えます。
ただし、これは合従軍の総司令楚の春申君(しゅんしんくん)が努めていた)の命令であり、 媧燐(かりん) としては不本意だったようです。
第一将軍であった汗明が蒙武(もうぶ)との死闘の末に敗れると、自動的に楚・第一将軍の座に上り詰めます。
媧燐(かりん) の恐るべき戦争の才は、合従軍編の至るところで見られました。
まず、は合従軍の本陣に
「全軍大いなる凡戦を連ねて 十日後に函谷関を落とすべし」
という進言を送ります。
軍師 の李牧(りぼく)は瞬時にその意味を理解し、
「なるほど 本物ですね 二将軍 鍋燐」
と呟いています。
その意味は、秦軍のどの戦場も等しく力を削いで、一気に攻め落とすべし、というものでした。
臨武君たちが相手将軍を討ち取るという武力による功績を狙っていたとしたら、 媧燐(かりん) は長期的・広範的な視野で戦争の勝利を見ていたといえます。
また、実際に自分の軍を動かした際には、戦象部隊を煙幕に自軍を展開させ、あの騰(とう)をも驚かせています。
びっくりですね・・・
さらに驚くべきことに、これらの作戦はすべての一種でした。
媧燐(かりん) は密かに周囲の山々を越えて、自軍の精鋭を函谷関の後ろに巡らせていたのです。
あわや函谷関が抜かれるかというところまでいったのですが、燕軍のオルドが抑えきれなかった王翦(おうせん)が寸前で登場し、防ぎました。
なんとも読み応えのある知略合戦だったといえるでしょう。
実はこの 媧燐(かりん) 、オリジナルキャラクターではあるのですが、モデルらしき人物が歴史上にいます。
それが北ベトナムの趙氏貞(趙畑)です。ベトナムは中国の属州になったり、独立したりを繰り返してきた、複雑な因縁のある国です。
漢の武帝の時代、ベトナム北部は中華の支配下に置かれ、そこに漢民族が移民して土着の人種と混風化が進みました。
3世紀(後漢末期)になると、ベトナムでも反乱の機運が高まります。
女性ながら、反乱軍を率いたひとりが趙氏貞です。
もともとは山賊の一味であり、各地で支配階級の漢民族に抵抗してのですが、ベトナム反乱の象徴として祭り上げられたという経緯があります。
特筆すべきは趙氏貞の容貌でしょう。
なんと身長は9尺で、乳房は3尺あまり。鎧に入りきらないので背中の方に回していた。
という記述が残っています。
今でいうと身長270cm、バストが90cm以上というところでしょうか。
この長身、巨乳は確かに 媧燐(かりん) と似ています。
さらに趙氏貞は、つねに象に乗っていた、ともいわれています。
媧燐(かりん) は象にこそ乗っていませんが、戦象部隊を持っています。
このあたりも趙氏貞を参考にしたのかもしれません。
媧燐(かりん) 20万の秦軍と戦って、 媧燐(かりん) 軍は滅亡する
史実において、楚が滅ぶのは趙のあと。
とすると、現在の『キングダム』で最大の強敵とされている李牧戦のあとに、楚の武将たちと戦うことになります。
ただ、ここでいくつかの疑問があります。
まずひとつ目は、楚にはまだ未登場の重要な人物がいること。
そう、名武将の項燕です。
『キングダム』ではまだ名前しか登場していませんが、生存していることは名前が出た点からも確認できるでしょう。
しかし、項燕大将軍の前に、将軍を7人も失うほどの大惨敗を喫して無残に帰国。
代わりに秦王から出陣の要請を受けたのがすでに老齢になり、軍職を辞していた王翦です。
王翦は10万を率いて楚に攻め入り、項燕を打ち破り、楚王負を捕らえたといわれます。
『キングダム』は基本的に、『史記』に載っている史実に則りつつ、一文を大きく膨らませたり、書かれていない時代を補完する形で進んでいます。
とすると、この楚の滅亡までの流れに 媧燐(かりん) はどう絡んでくるのでしょうか?
ひとつ考えられるのは、李信、蒙恬が率いた3万と、王翦の10万を分けるパターンです。
つまり、こちらが史実でいう秦軍20万人の軍勢です。
この戦いで秦軍は将軍7人を失う大損害となりますが、代償として 媧燐(かりん) ほかの楚将を討ち取れたとしたら?
史実とは少々異なってしまいますが、秦王政の金剛の剣、と自負する信の働きとしては、悪くないものではないでしょうか。
媧燐(かりん) が死んだとしたら、楚の大将軍は項燕しか残っていません。
切れ者の李園が、項燕を説得して表舞台に引っ張り出してくる。
そんな展開は十分にありそうです。
キングダム媧燐(かりん) で気になる点は弟の存在
「貴殿も少女の時 唯一人の身内の弟を探して荒野をさまよっているではないか」
これは春申君を暗殺した李園が、 媧燐(かりん) に告げた言葉です。
聞いた 媧燐(かりん) は今までにない表情を見せていました。
弟が 媧燐(かりん) の心に刺さるワードだったことは間違いないでしょう。
媧燐(かりん) の弟がいます。
合従軍編で汗明と蒙武の一騎打ちの際、蒙武の背を切りつけようとして蒙恬に阻まれました。
ただし、これ以降、まったく登場してません。
義理のつながりなのかわかりませんが、李園との会話からして、姻燐の探す弟はまだ見つかっていないのではないでしょうか?
ここで 媧燐(かりん) の弟として思いつく存在が2人います。
ひとり目が、出自も経歴もまったく不明の元夜盗、桓騎(かんき)。
ふたり目が楚国出身の丞相、昌平君(しょうへいくん)です。
どちらも知略にすぐれた点は、 媧燐(かりん) とよく似ています。顔立ちでいえば、皮肉な笑い方は桓騎と、目元の作りは昌平君と似ているといえるでしょう。
また、戦争で荒れた荒野でたった一人の姉とはぐれた過去があるとすれば、桓騎の根底にあるのが,すべてに対しての怒り」というのも納得できそうです。
桓騎は、史実に沿えば、紀元前233年に趙の李牧に敗北。
『史記』によると、敗走して行方不明になっています。一説によれば、樊於期と名前を変えて燕に亡命したとも。もし今も隣が弟を探していて、なおかつ桓騎がそうだと気づいたら、桓騎が秦から逃げ出した時点でコンタクトを取るかもしれません。
もしかしたら 媧燐(かりん) も楚を出て、燕で姉弟再会ということもあるのでしょうか。
そうすると、弱小国と思われる燕との戦いも熾烈なものになりそうです。