キングダムの中では蒙恬(もうてん)は戦術に長け冷静でコミュニケーション能力もあり、イケメンそんなイメージで描かれています。
史実においても信や王賁(おうほん)とのライバル関係または秦に対する貢献度はものすごい人物です。
簡単にまとめますと、
蒙恬(Méng Tián)は、中国戦国時代の将軍・政治家であり、秦の初代皇帝である始皇帝の父親である蒙武の息子です。
蒙恬は、若い頃から武芸に優れ、父の指揮下で秦軍に仕えました。その後、父の死後は趙国に仕え、数々の戦いで勝利を収めました。秦国が趙国に侵攻すると、蒙恬は趙の将軍として戦い、いくつかの重要な勝利をもたらしました。
秦が趙を滅ぼすと、蒙恬は秦に仕え、始皇帝の治世にはその功績から将軍として多くの戦いに参加しました。彼は、中国の北部の砂漠地帯にある胡破胡の遊牧民族を征服するための大規模な遠征を率いたことでも知られています。
蒙恬は、戦争という手段を使ってでも国を守ることが重要だと考えていましたが、同時に教育の重要性も認識していました。彼は、始皇帝による教育制度の強化を支持し、自身も書物を著し、文化・教育事業に尽力しました。
しかし、蒙恬は始皇帝の死後、皇帝を継いだ子の暴政に不満を抱き、政治から退いて隠居生活を送りました。晩年には、孔子の著作である『論語』を研究し、その思想に感銘を受けたとされています。
蒙恬は、中国史上屈指の将軍・政治家の一人として知られています。彼の功績は、中国の歴史に深く刻まれており、今でも多くの人々に尊敬されています。
2022年6月時点でのアニメでは登場が少ないので、 蒙恬(もうてん) ファンの私としては今後の大活躍がとても楽しみです。
その今後の大活躍とは・・・・・史実の 蒙恬(もうてん) を解説いたします。
そしてキングダムの見どころの3人の蒙恬(もうてん)を今回は詳しくお話させていただきます。
きっとキングダムなどでは描かれない蒙恬(もうてん)を知ることができます。
そしてもっと蒙恬(もうてん)という名将が好きになること間違いなしです。
是非最後までご覧ください。
キングダムに登場する名将蒙恬(もうてん)とは?
祖父・父が始皇帝の天下統一に貢献した蒙恬(もうてん)
史記での活躍は天下統一を成し遂げたものばかり
祖父である蒙驁(もうごう)のいいつけにより特殊三百人隊の楽華隊 ( がくかたい )率いて18歳で登場したのが蒙恬(もうてん)です。
信の周辺の登場人物の中では、最も遅い登場でしたが、実は「史記」に出てくる蒙恬(もうてん)は、個人で列伝が立てられ、またその他にも様々な列伝などにその名が登場する、中国史に非常に大きく名を残した人物です。
そのもっとも有名なものが、現在は万里の長城(ばんりのちょうじょう)と言われている匈奴(きょうど)から秦(しん)国を守る長城です。
また
現在はこの説は後世の創作として覆されていますが、筆を発明したのが蒙恬(もうてん)だという話まであります。
ゆえに蒙恬(もうてん)という人物は古代中国史の中でも知られた人物でした。
キングダム蒙恬(もうてん)の史記「蒙恬(もうてん)列伝」の人物像
キングダムでも蒙恬(もうてん)は、祖父蒙驁(もうごう)、父蒙武(もうぶ)、弟蒙毅(もうき)と一族で秦国に仕えています。
ちなみに、蒙驁(もうごう)は違うようですが、呂氏四柱に数えられる蒙武(もうぶ)、呂氏四柱の昌平君(しょうへいくん)の軍師学校で弟子となっている蒙毅(もうき)は、キングダムの中では、呂不韋(りょふい)に近い存在として扱われています。
しかし、史実の「秦本紀」「蒙恬(もうてん)列伝」によれば、蒙恬(もうてん)の祖父は斉(せい)の人で、祖父蒙驁(もうごう)が斉(せい)から秦に移って始皇帝の祖父である昭襄王(しょうじょうおう)に仕えたとされています。
蒙驁(もうごう)はその後紀元前249年の荘襄王(そうじょうおう)統治元年に秦の将軍となり、韓を攻めて三川群を設置しました。
翌年の紀元前228年には趙を攻撃して37の町を奪って太原を平定し、紀元前247年には魏を攻めて高都と汲を落とすなど、その武功が数多く残されています。
また、紀元前224年に父の蒙武(もうぶ)も王翦(おうせん)の副将として楚を攻めて大勝利を得て、こののち秦を滅ぼすことになる項羽(こうう)の祖父項燕(こうえん)を倒し、さらに楚王の負芻(ふすう)を捕虜にしたとされています。
つまり他国出身ではありましたが、蒙氏は秦国で重用された一族なのです。
そして「蒙恬(もうてん)列伝」によれば、こうした家柄によって蒙恬(もうてん)は秦の将軍に命じられたとなっており、蒙恬(もうてん)は刑法を学んで裁判文書を扱う係になっていたとも記されています。
これは59巻をみていない方にとっては、ネタバレになってしまうかもしれませんが、こうして紀元前221年に蒙恬(もうてん)は秦の将軍となり、その後斉(せい)を攻撃して大勝し、都の長官という役職である内史に任命されます。
キングダムでの蒙恬(もうてん)の活躍と史実比較
キングダム蒙恬(もうてん)が千人将に出世したとされる韓との戦いは、作品の中では李牧(りぼく)と龐煖(ほうけん)に率いられた趙に攻め込まれた戦いの陰で行われたと思われます。
史記の「始皇本紀」にも、その紀元前243年の蒙驁(もうごう)が韓をせめて13の城を取った戦いが書かれています。
作品の中では、蒙恬(もうてん)はその後に始まった対魏の大攻略戦で、信や王賁(おうほん)とともに将軍蒙驁(もうごう)に従い前線ではありましたが正式に千人将に任命され流尹平野の戦いで楽華隊 ( がくかたい )、飛信隊(ひしんたい)、玉鳳隊(ぎょくほうたい)と連携させて武功をあげるなど活躍しました。
ただしその後は飛信隊(ひしんたい)に協力するなど、前線ではなく砦の中で文官的役目を行っているような姿も描かれています。
とはいえ、紀元前241年の行われた合従軍の戦いで王賁(おうほん)とともに騰軍(とうぐん)に所属し、楚の禍燐(かりん)との戦いで王賁(おうほん)とともに急場で右軍五千人将に臨時に任命され戦っています。
ただし蒙武(もうぶ)と楚の将軍汗明(かんめい)との戦いで加勢し、瀕死の重傷を負ったこともあってか、騰軍が行っている魏攻略戦には呼ばれず、信と王賁(おうほん)が魏戦の論功によって五千人将に任命されても、蒙恬(もうてん)は二千人将にとどまっていました。
しかし59巻では晴れて将軍になっています。
実は史記にみる蒙恬(もうてん)とはその主な実績のほとんどが紀元前221年以降にかかれている将軍なのです。
つまり李信(りしん)や王賁(おうほん)と違って、主に始皇帝が中華統一を成し遂げた後、父蒙武(もうぶ)を継いで活躍した人物だと考えられます。
じつは史記では、書かれている人物の年齢などを具体的に言った言葉がほとんどありません。
祖父蒙驁(もうごう)は昭襄王(しょうじょうおう)の時代に斉(せい)から移って秦に仕え、荘襄王(しょうじょうおう)の時代に将軍となり、父蒙武(もうぶ)が王翦(おうせん)の副将という立場で始皇帝に仕えて天下統一に貢献しました。
しかし蒙恬(もうてん)はもしかすると、王翦(おうせん)という秦の大将軍の息子として登場した若い将王賁(おうほん)や、その王翦(おうせん)軍に若い副将のように従った李信と比べるとひとつ年代が下の将軍だったと考えられるかもしれません。
キングダムでは描かれない?蒙恬(もうてん)の活躍
大将軍を夢見ていた下僕の信という少年が、のちに秦の始皇帝となる同世代の嬴政(えいせい)という少年王に出会い、その天下統一という覇業を共に助け合いながら成し遂げる姿が描かれているのがキングダムという作品です。
それゆえ、そののちに暴君といわれるようなしたとされる秦始皇帝の姿は描かれず、天下統一のハッピーエンドで物語が完結してしましそうなことがかんがえられます。
ということは先ほど書いたことをかんがみれば、蒙恬(もうてん)歴史での本当の活躍は作中には描かれない可能性高いのではないかと思います。
ですが、それゆえに、蒙恬(もうてん)ファンのためにも彼が歴史に残すことになった史記にみられる実績を書いておきたいと思います。
天下統一を成し遂げた始皇帝は、蒙恬に30万の兵を率いて北方の匈奴などを追い払い、黄河以南の地を手に入れたとされています。
そしてその地域に長城を築かせるのです。
これが現在の万里の長城になるのですが、その長さは一万余里におよんだとされています。
またこのあと蒙恬は軍を率いて黄河を渡り、陽山を拠点としてさらに北進したとされています。
上郡に10年にわたって駐屯し、その威勢は匈奴を震撼させていたと記されているほどです。
この蒙恬と匈奴の戦いは「匈奴列伝」にも書かれています。
これによれば蒙恬は、10万の兵を統率して黄河以南のの地をすべて手に入れて黄河を利用して砦を築き、黄河を見下ろす44県の城を造って守備兵をおいたとされています。
ここに長城を築いたのちは、陽山から北仮の辺りまで占拠したとされ、自らが死が死を迎えるまでこの地に匈奴を一切侵入させなかったと書かれています。
またこのように蒙恬が国外で戦争と治安の維持を担う大任を担当していた時に、「蒙恬列伝」によれば、弟蒙毅(もうき)が始皇帝に重用されていたと書かれています。
それによれば、始皇帝は蒙一族を非常に信用し尊重し、感服していたとされ、いつも蒙毅(もうき)を上卿の位に取りたて身辺においたとされます。
また蒙毅(もうき)は、始皇帝が天下統一後5回に渡って行った自らの支配地域を巡遊する際には、お供として同じ馬車に乗ったほど常に側においていたとされます。
朝廷でも始皇帝の前に控え、政策の企画に加わり、忠実で信義もあるとして周りからその名声を称えられ、将軍や大臣も蒙恬、蒙毅と争うようなことはしなかったと書かれています。
ただし、それは逆に言うと、この頃の秦朝廷ではこの二人が絶大な権力を持っていたことを意味します。
それが「史記」によれば、「キングダム」にも登場している李斯や宦官趙高との確執を生むことになります。
趙高は作中では皇后の腹心ですが、史実では始皇帝が元趙の王族の遠縁だった趙高を官吏に抜擢し用いたとされています。
その後、趙高は始皇帝末子の胡亥に取り入り、大罪を犯して蒙毅の審理を受け死刑を命じられながら始皇帝に救われます。
そして趙高はそのことによって蒙兄弟を恨むことになったと書かれています。
史実では文官からスタートした?蒙恬は六将になれる?
『キングダム』 中において、信、王賁(おうほん)と同世代のライバル武将として描かれている蒙恬(もうてん)ですが、司馬遷(しばせん)の『史記』に初めて登場したのは、「武将」としてではなく、「文官」としてでした。
『史記』によれば、蒙恬の祖父・蒙驚(もうごう)の代に斉より秦へと移り住んでおり、当初は文官として宮廷入りし、訴訟・裁判に関わっていたとされています。
『キングダム』では、父である蒙武(もうぶ)が武人然とした風貌なのに対し、蒙恬は線が細く、武力よりも知略のほうが秀でているように描かれているのは、この『史記』での表記に基づいたものなのかもしれません。
さて、そんな蒙恬ですが、彼もまた、
「「天下の大将軍」を目指す者さ」
という言葉や、見せている表情や台詞の行間などから、信や王賁(おうほん)と同じように、六大将軍入りを狙っているのがわかります。
果たして、彼は六大将軍となれるのでしょうか、まずは王賁のときと同じように、史実上での彼の中華統一までの活躍を参考にしながら探っていってみましょう。
先ほども述べたとおり、『史記』によると、蒙恬ははじめ裁判に関わる文官でした。
紀元前224(始皇23)年に李信の副将として楚(そ)討伐に加わり、寝を攻めて大勝したものの、楚の項燕に大敗。
紀元前221(始皇26)年に将軍となって斉討伐に参加し、李信(りしん)、王賁(おうほん)らとともにこれを滅ぼした、とされています。
この彼の中華統一までの年譜を見る限りでは、副将としての活躍はそこそこありますが、将軍になったのも遅く、将軍としての活躍も、斉(さい)攻めぐらいであまりありません。
実は、史実の蒙恬は、中華統一以降のほうが活躍しているのです。
こうした史実のみから見てみると、文官からのスタートで李信や王賁に最初からリードされているだけでなく、武将となってからも副将の地位で参戦していることのほうが多いため、蒙恬の六大将軍入りは、信、王賁と比べると、非常に厳しいと言わざるを得ません。
ですが、これはあくまで「史実のみ」から見た場合です。
『キングダム』では、蒙恬の描かれ方も史実とだいぶ異なっていますので、次は作品中の蒙恬像から、六大将軍に入れるかどうかを考えてみたいと思います。
信と王賁にリードされている蒙恬?
信、王賁はすでに将軍の一つ下の位「五千人将」となっていますが、蒙恬はいまだそのさらに一つ下の「四千人将」と、まろで史実を反映したかのように少しだけ出遅れています。
ですがこれは、蒙恬の能力が、二人よりも劣っているということでは決してありません。
武力に関しては、合従軍戦の最中、楚の将・項翼(こうよく)の素早く重い一撃をうまく受け流し、死角から鋭い一撃を放っているように、彼個人の剣技は、信、王賁に勝るとも劣りません。
また、彼の率いる楽華隊(がくかたい)の破壊力も強力であり、対合従軍戦(がっしょうぐん)で自軍の布陣に疑問を持った騰が、
「左翼,右翼 両軍の指揮権を入れ替えるぞ」
として、左軍に王賁率いる玉鳳隊を、右軍に蒙恬率いる楽華隊(がくかたい)を指名したように、隊としての強さと彼の統率力において、飛信隊の信、玉鳳隊(ぎょくほうたい)の王賁と、甲乙(こううつ)つけがたい力を持っているのです。
蒙恬はさらに、軍略面にも通じています。
軍略に関して、信は河了貂(かりょうてん)に負うところが大きいですし、王賁は、それなりの戦略眼(せんじゅつがん)を持っているようですが、それがどれほどのものかは未知数です。
しかし蒙恬は、過去に昌平君(しょうへいくん)の元で学び、そのときの成績は抜群であったとされ、弟の蒙毅(もうき)が河了貂がすでに特別軍師認可をもらっていると語る際に
「兄上以来の早期認可ですよ」
と言っているように、少なくとも河了貂並み、あるいはそれ以上の能力を持っていると思われます。
生まれについても、蒙驚、蒙武と続く将軍の家系ですから、信のような奴隷出身とは異なり、王賁の
「生まれの良さも才能の一つだ」
というとおり、家柄という才能にも恵まれています。
では、なぜ、いまだに信や王賁より位の一つ低い「四千人将」に甘んじているのか。
それは単に、活躍の機会がなかったからに過ぎません。
信と王賁が五千人将となったのは、著雍戦(ちょよう)において信は霊凰を討ち、王賁は紫伯を討ったからです。
蒙恬はこの著雍戦には参加していなかったため、昇進はしませんでしたが、ひょっとすると、現在の趙侵攻戦においてなんらかの手柄を挙げ、蒙恬も五千人将になるかもしれません。
侵攻戦において五千人将になれるとすれば、能力に恵まれている蒙恬の六大将軍への道は開かれるかもしてません。
総合的にみて六将入りは可能なのか?
蒙恬の場合、これからの活躍が史実どおりとすると、単独で一軍を率いていると思われるのが最後の斉攻めくらいで、勝利と敗北をそれぞれ味わった楚攻めは、ともに李信の副将としての参戦でしたので、信や王賁のように六大将軍入りまで簡単に物事が進むとは思えません。
この史実での蒙恬の働きと、現在、信や王賁に一歩リードを許していることから考えると、六大将軍の最低条件と思われる「大将軍」まで上り詰めるのは、斉攻めの直前ぐらいかもしれません。
先ほども述べましたが、楚侵攻以前の趙侵攻戦において、信や王賁を凌ぐ武勲をたてて「五千人将」となり、史実にはないですが趙の首都・邯鄲(かんたん)攻め、あるいは燕や魏攻めで手柄を立てて「将軍」となれれば、楚攻めの勝利で「大将軍」となり、斉(せい)攻めの前に六大将軍に任命されるということになるかもしれません。
しかし、史実では邯鄲(かんたん)攻めに蒙恬は参加していないので、そこで勲功を立てることができずに、このまま信、王賁にリードを許したままとなってしまい、六大将軍入りできない可能性もあります。
つまり、信や王賁ほど、六大将軍入りする確率は高くないのです。
とはいえ、『キングダム』中では、主人公である信のライバルとして、王賁と並列に描かれている蒙恬ですから、信や王賁が六大将軍となるのならば、漫画的には、時期に多少のズレはあるとしても、蒙恬もまた、六大将軍になれると考えます。
それに、中華統一の最後の戦いとなる斉攻めは、信、王賁、蒙恬の三人で包囲してこれを降伏させているので、その時点で、蒙恬が大将軍となっている可能性は高いでしょう。
いずれにせよ、趙攻略の際に蒙恬が大きな手柄をたてられるかどうかで、六大将軍になれるかどうかが決まってくるのではないでしょうか。
中華統一後に蒙恬が裏切るかもしれない?
前項で述べたように、「キングダム』では、信、王賁が現在「五千人将」なのに対し、蒙恬はまだその一つ下の「四千人将」と一歩リードされており、また、今後の展開がもし史実どおりであれば、活躍の場が少なく、中華統一前までに、彼が六大将軍となるのはなかなか厳しいところでしょう。
ですが蒙恬は、中華統一後、大きく飛躍します。政の中華統一後、『史記』などから記述がなくなってしまう李信や羌瘣(きょうかい)、王翦(おうせん)、蒙武、騰らとは違い、蒙恬に関しての記述は統一後も見受けられます。
史実によると蒙恬は、斉討伐の功によって内史というに任命され、紀元前215(始皇32)年には、30万もの軍を率いて北方の匈奴征伐に向かったとされています。
この匈奴征伐では、蒙恬は黄河の南の地域(現:中国・内モンゴル自治区南部、オルドス地方)を奪って、匈奴を北へ追いやりました。
匈奴は、『キングダム』でも、楊端和が
「匈奴ら北の騎馬民族は これまで戦ってきた山民族とはわけが違う」
というぐらい「強敵」として描かれています。
その匈奴を、大軍を率いて北方に押し退けたのですから、もし『キングダム』が中華統一後の世界も描くとすれば、この戦いは、蒙恬にとってはもちろんのこと、作品にとってもかなりの見せ場・山場となることでしょう。
ですがこの匈奴討伐、『キングダム』で描かれるときには、蒙恬の活躍というだけでなく、ひょっとすると別のストーリーも付加されて描かれる可能性があるのです。
長城建設によって楊端和と決別するのか?
史実とは別の『キングダム』で付加されるかもしれない物語……それはズバリ、楊端和との決別"かもしれません。
どうして蒙恬の匈奴(きょうど)討伐がそうなってしまう可能性があるのか、順を追ってみていきましょう。
まず蒙恬が討伐した匈奴ですが、これは中国の北方に住んでいたとされる「蛮族」です。
史実での蒙恬は、自らが討伐軍の総大将となってこの匈奴を討ち、始皇帝(政)の大きな信頼を勝ち取りましたが、『キングダム』では、この対匈奴戦で楊端和が共同出兵する可能性があります。
それは、楊端和が
「その匈奴を討つべく、我々は総力八万の軍を率いて奴らの地へ攻め入った」(15巻P68)
と話しているように、
彼女ら山の民もまた、匈奴と戦っていたからです。
彼女の性格上、仮に政が蒙恬に討たせると言ったとしても、おそらく、そのまま任せるようなことはなく、自分たちで討つ、あるいは、討伐軍に参加するといった意思表示をしてくるはずで、政も、それまでの楊端和との関係を考えると、その要求を呑むことでしょう。
そして蒙恬と楊端和(ようたんわ)は無事、匈奴を討つことに成功するでしょう。
ですが、問題はその後です。
史実では、蒙恬は匈奴を討伐した後、趙や燕などが作っていた長城をそれぞれ繋ぐようにして万里の長城を築き、匈奴への防壁とします。
『キングダム』でも、政が楊端和と匈奴について話している際、
「承知している だから奴らに国境を面する秦・趙・燕はそこに長城を築いて防御に徹している」(15巻68p)
と語っているので、おそらく、万里の長城建設は描かれるはずです。
しかしそうなると、匈奴と戦い、その地を得た楊端和ら山の民の領土と、万里の長城で隔たれてしまうこととなります。
それをきっかけとして、楊端和(ようたんわ)ら山の民は、さらなる勢力の拡大を狙い、政は統一した中華の内政に力を注ぐという、お互いに別々の道を歩んでいくため、そこで楊端和と政は決別するのではないかとおもわれます。
現に史実でも、始皇帝(しこうてい)は匈奴討伐後、蒙恬とその弟・蒙毅を重用して、内政に眼を向けていますし、楊端和も、中華統一後は記録に登場していないので、まったくありえない展開とはいえないでしょう。
政の子・扶蘇と蒙恬との出会い
さて、史実の蒙恬は、万里の長城を築いた後、しばらくそのまま国境防衛の任に就きます。
なおこの間、弟の蒙毅が上卿に任じられて、内政を任されています。
兄・蒙恬が外政、弟・蒙毅が内政というわけです。
どれほど彼ら兄弟が始皇帝に重用されていたかがここからもわかりますが、その国境警備の任に就いていた蒙恬のもとに、彼の上官として、扶蘇という人物が中央から送られてきます。
扶蘇は始皇帝の長子ですが、始皇帝の行った焚書に異議をとなえ、疎まれてしまい、左遷されて蒙恬の上官として赴任したのです。
この扶蘇と蒙恬との出会いが、蒙恬のその後の人生に大きな影響をおよぼすのです。
なお扶蘇は、『キングダム』中ではまだ40巻のP143にその名前が見られるだけですが、蒙恬の最期に深く関わってくる人物なので、おそらく中華統一前後までに登場すると思われます。
蒙恬は扶蘇らとともに叛旗を翻すか?
史実上では、中華統一、そして統一後も活躍し、始皇帝の覚えもめでたかった蒙恬ですが、その最期は、
「始皇帝に一番寵愛された家臣」
とまで言われた人物としては、あまりにも悲劇的なものでした。
紀元前210(始皇37)年、始皇帝の死後、扶蘇の弟・胡亥と、宦官の趙高、左丞相の李斯らの偽の始皇帝の遺品を使った謀略によって、扶蘇、弟の蒙毅ともども排除されてしまうのです。
この謀略も、おそらく『キングダム』で描かれることでしょう。
ですが、史実どおり扶蘇と蒙恬は自殺、蒙毅ら蒙一族は殺害されるかどうかはわかりません。
もしかすると、終盤は山場が少ないために、違った展開になる可能性もあるのです。
史実上の蒙恬は、趙高らの謀略で送られてきた
「死を賜る詔」
が偽物かもしれないとの疑念を抱き、扶蘇はすぐ自殺してしまいましたが、蒙恬は一度はこの詔に抵抗しています。
この
「詔への抵抗」
を拡大解釈すれば、亡き政の思いを受け継ぎ、扶蘇を説得して、趙高、胡亥、李斯らに対して叛旗を翻すことになるかもしれません。
その際、匈奴からの国境防衛の任に就いていた蒙恬ならば、一時的に匈奴と和睦、あるいは共闘の約束を交わし、咸陽へと攻め上っていくことでしょう。
もし、先ほど推測したように、万里の長城の築城によって政と楊端和ら山の民とが決別していたのならば、もしかすると、柔軟な思考を持つ蒙恬は、楊端和ら山の民と手を組むこともありえるでしょう。
しかし、『キングダム』のこれまでの傾向として、大きく歴史を逸脱することはありませんでした。
そのため、たとえ蒙恬が扶蘇や匈奴、あるいは楊端和らと反乱を起こしたとしても、鎮圧され、蒙恬とその一族が死亡するのは間違いないと思われます。
展覧会名キングダム展 -信-
KINGDOM exhibition The Road of SHIN
会期2021年6月12日(土)~7月25日(日)
キングダム展 -信- 公式サイト
※会期中無休 ※全日日時指定制会場上野の森美術館
東京都台東区上野公園1-2GoogleMaps会場サイト開館時間10:00~20:00 ※最終入館は閉館の1時間前まで主催集英社、朝日新聞社チケット東京会場のチケット情報はこちら協賛共同印刷、ローソンチケットお問い合わせ050-5541-8600 (ハローダイヤル 全日9~20時)報道関係お問い合わせ▼
- JR上野駅公園口より徒歩3分
- 東京メトロ・京成電鉄 上野駅より徒歩5分
ですが、結末は同じにしろ、そこに至るまでの経緯がどのようなものになるか、非常に楽しみではあります。