現在2020年10月現在のキングダムの単行本では趙との戦が真っ最中ですが、そんな趙の最後そして、信の最大の敵李牧(りぼく)について書かせていただきたいと思います。
キングダムの中でも李牧(りぼく)はものすごく頭がよく切れ者で、秦の前にことごとく立ちふさがってきました。
実際には、どんなことしたの?
ホントにこんな強くてかっこよかったの?
と疑問に思われているかともいらっしゃると思いますので今回は
趙という国はどんな国で何をしたか?
キングダムと比較し史実では李牧(りぼく)はどんな武将だったのか?
そして、李牧の最後とは?
これらの内容を徹底解説いたします。
これを読んでいただければ、これからのキングダムがますます面白くなること間違いなしです
是非最後までご覧ください。
匈奴も攻略した強国趙の李牧(りぼく)とは?
北方の騎馬民族の戦い方を知っていた趙は自軍の軍にもその戦い方を応用し最強の騎馬軍団を編成した。
キングダムの中では、秦との激しい合戦を繰り広げている趙という国。
実際はどんな国だったのでしょうか?
趙の成り立ちから解説していきます。
趙は、韓や魏と同じで晋の領土を三つにすることで生まれた国です。
同時に独立を果たした三国を「三晋」と呼びますが、独立当初最も強かったのが魏でした。
これは、晋の都とその中心一帯を手にしたのが魏であるためです。
魏の治世が武候から恵成王に変わるころ、趙はその本拠地を晋陽から邯鄲に移しています。
晋陽は軍事的な拠点ですが、中原の邯鄲は交易上の要所でした。
つまり、趙は軍事的な国家から経済的な国家へと変化していきました。
この時期は、中国の貨幣経済の発展期にあたり、趙の遷都は、そのような時代的な背景から行われました。
趙が王国を名乗るようになるのは、紀元前326年のことです。
武霊王(ぶれいおう)が王となり、翌年には元年を称しています。
武霊王(ぶれいおう)は天下に野心をもち、軍事に力を入れ、積極的に力を入れたのが
「胡服騎射(こふくきしゃ)」です。
胡服(こふく)とは、北方の騎馬民族の衣装のことで、騎射(きしゃ)は馬の上かや矢を射ることです。
今でもモンゴルの遊牧民の狩りのイメージは「胡服騎射(こふくきしゃ)」なのではないかなぁと思います。
当時の中国では、北方の騎馬民族は文化的ではない、野蛮な存在として嫌われていましたが、趙は彼らの戦い方を形よりも本当の強さを取り、趙の騎馬隊の強さとなりました。
馬陽(ばよう)の戦いで王騎が負けてしまう直接の原因は、王騎(おうき)の予想を超えて李牧の援軍の早さにありました。
「王騎(おうき)の予測では李牧(りぼく)軍が到着するまでにあと半日かかるはずであった」
キングダム16巻
「李牧(りぼく)軍の足は通常の騎馬軍の常識を上回っていた」
キングダム16巻
と漫画でも描いてある通り、北方騎馬民族との戦いを重ねた趙の騎馬軍のスピードは当時はとくに想像しにくいものであったはずです。
李牧(りぼく)は趙の騎馬軍に全幅の信頼をもっていて
「李牧(りぼく)軍は山々を迂回することなくまっすぐに決戦の地には馳せた」
キングダム16巻
「李牧(りぼく)は行動の早さを王騎が読み違えることまで察していた」
秦や南方の楚とは違って、直接北方騎馬民族と戦うことが多い趙だからこそ独特の騎馬軍の進化がありました。
それまでの戦車主体の戦争を変えたという点で、戦国時代でもひときわ輝いている実績を作りました。
秦に対する趙の怨念?長平の戦いとは?
遷都に成功して経済的な力をつけ、独自の騎馬軍の編成のように軍事的にも卓越している趙ですが、秦には
「長平の戦い」
において大敗をしています。
キングダムの中でも何度も登場する長平の戦いとはいったいどんな戦いだったのでしょうか。
秦を昭襄王(しょうじょうおう)が治めていた時代のことです。
この時代、秦では白起(はくき)将軍や王騎(おうき)のモデルとも考えられる王齕(おうこつ)が活躍していました。
それまでにも秦は、何度も趙の領土を攻めましたが、決定的な勝利はないまま戦いを繰り返していました。
紀元前262年昭襄王(しょうじょうおう)は、王齕(おうこつ)を趙に差し向けました。
王齕(おうこつ)は趙軍を完膚なきまでに破り、趙の兵たちは長平に撤退しました。
趙の孝成王は、名将廉頗(れんぱ)を総大将にして秦軍と対峙します。
秦軍と趙軍は2年もの間戦いを続けましたが、これは趙の廉頗(れんぱ)の作戦でした。
侵攻軍である秦軍には、兵糧(ひょうろう(食料))の問題があるので、戦を長引かせたほうが、趙軍に有利になります。
趙軍の持久戦には、前線の秦軍の兵だけでなく、本部である王宮も焦りを感じていました。
「史記列伝」によれば、秦の宰相范雎(はんしょ)は
「趙軍の総大将が廉頗である限り秦には勝ち目がない」
と考えたといいます。
そこで范雎(はんしょ)の取った作戦は、趙の国内でデマを流すことでした。
「秦が恐れるのは趙括(ちょうかつ)が将軍になることである」
粘り強い廉頗より趙括(ちょうかつ)のほうが、秦軍としては戦いやすいからです。
このデマを趙の孝成王は真に受けてしまい、総大将が変更されたことで2年の膠着状態(こうちゃくじょうたい)は一気に流れ出し始めました。
キングダムの中では秦の副将王騎にあっさりやられてしまった趙括(ちょうかつ)でしたが、史実ではさらに失態を連発していたと書かれています。
趙括(ちょうかつ)は、廉頗(れんぱ)が総大将でったときの取り決めを全部変えたのち軍の役職をすべて更迭してしまいました。
よほど廉頗(れんぱ)に対する嫉妬感があったのでしょう・・・
このようなこのような趙括(ちょうかつ)の動きを喜んだのは、もちろん秦軍総大将白起将軍です。
白起将軍は奇襲部隊を出撃させては負けたふりをさせました。
これは、趙軍を白起将軍の思うがままに操り、趙軍の補給部隊との道を断つためのものでした。
この状態で40日が経ち、趙軍の兵たちはバラバラになり、飢餓状態に陥りました。
なんと、趙軍味方同士で殺し合いその肉を食うといった惨劇にまで発展しました。
困り果てた趙括(ちょうかつ)は、精鋭部隊を率いて秦の本陣へと奇襲攻撃を試みますがその甲斐なく敗北し、趙数十万の兵士は全面降伏しました。
そしてこのとき、
「秦軍は投降した兵士たちを無残に生き埋めにした」
という記述が史記列伝に書いてあります。
キングダムの中でもその嘘みたいな衝撃的なシーンは何度も登場し、秦と趙の黒い歴史として描かれているが、残念ながら史実と考えられます。
ただ当時の趙の人口から鑑みると40万という数字は少し誇張ではないかとも考えられています。
この長平の戦いで決定的な敗北をした趙は、この時点で国として窮地に陥ります。
キングダムでは李牧の活躍により趙は秦の最大の敵として描かれていますが、秦王政の時代には、ほとんど力を失っていても不思議ではありません。
函谷関(かんこくかん)の戦いで秦を窮地に陥れた李牧中心の
「合従軍」
の戦いも趙のみでは秦に対抗できないという苦し紛れの策としても考えられると思います。
キングダムで天才最強将軍李牧という名将失った趙の最後
孝成王(こうせいおう)の死去後、悼襄王(とうじょうおう)が趙の第9代王としてその後を継ぎ、その後名将廉頗(れんぱ)は更迭され楽乗(がくじょう)の後釜に据えられました。
しかし、その人事に納得がいかず怒った廉頗(れんぱ)は楽乗(がくじょう)を襲撃してしまいます。
楽乗(がくじょう)はそのまま逃亡し、廉頗(れんぱ)そのまま魏(ぎ)に亡命しています。
そこで白羽の矢が立ったのが李牧(りぼく)です。
李牧は総大将となり燕(えん)を攻撃し、武遂と方城を占拠し、そして合従軍によって函谷関に迫りますが、秦の抵抗により敗走します。
このエピソードだけを見ると李牧(りぼく)は敗軍の将ではありますが、趙の北方国境地帯で匈奴(きょうど)に対する防衛に功績があったのも事実です。
実際には李牧(りぼく)は好戦的な性格ではなく、守りに徹することも得意な将軍でした。
消極的ゆえに趙王の機嫌を損なうほどでした。
また、キングダムで「最強の武神」趙の将軍龐煖(ほうけん)も、キングダムほど過激な人物ではなく、現存はしていませんが書物を残すといった知的な一面もあり、描かれているような戦いのみというような武将ではありませんでした。
武霊王に時代には天才軍師、軍事評論家としての位置づけでした。
もちろん強さは本物で、燕(えん)を攻めたときには将軍劇辛(げきしん)を倒すといった実績も残しています。
ですが、秦による鄴(ぎょう)攻めの時は70歳~80歳になる年でした。
そして、主人公信と激闘ののち敗れた鄴(ぎょう)攻めには、史実よっては龐煖(ほうけん)は参戦しておらず、その後病死か寿命で亡くなったいます。
(ちなみに李牧も参戦していない史実も存在します)
そして年代的には李牧とも面識がなかった可能性もあります。
話はそれましたがその後李牧は郭開という趙の臣下に陥れられます。
紀元前229年、秦の将軍王翦(おうせん)に趙が攻め込まれた際、何度も秦を苦しめてきた李牧が出てくることを嫌った王翦(おうせん)は、郭開を利用して李牧の謀反をアピールさせます。
もちろんそんなことはありませんでしたが、暗愚といわれた趙の最後の王幽繆王(ゆうぼくおう)はそれを信じてしまいます。
李牧は結局謀殺されてしまいます。
趙の滅亡は彼の死後わずか3か月のことでした・・・
【キングダム】政や信に立ちはだかる最大の敵李牧(りぼく)
キングダムの主人公サイドである信と政はこれまで、国内外の敵と死闘を繰り広げてきました。
国内の政の敵筆頭はもちろん呂不韋(りょふい)一派であったわけですが、40巻で政と呂不韋は一区切りがつきました。
けれど、国外の敵はまだまだ残っています。
これから政は中華全土統一に向け、苛烈な侵攻戦を繰り広げることになるのですが、その中でも最大と敵はやはり趙の李牧(りぼく)ではないでしょうか。
李牧(りぼく)の初登場は13巻135話で、あの王騎率いる秦軍と侵攻してきた趙軍の戦いを遠目から見守る河了貂、蒙毅のそばに、飄々とした姿で現れました。
この時は読者も河了貂もこの男が誰かわかっていませんでした。
なかにはピンときた歴史通もいらっしゃったとは思いますが・・・
ほぼ同時期、秦軍総大将の王騎も
「今の後退には何かあらかじめ練っておいた策の気配を感じました」
キングダム13巻136話
と不穏な気配を感じ取っています。
この激しい戦は、王騎の死という衝撃的な結末で終わりました。
短距離戦も長距離戦も得意だという天才王騎に、最後まで自分の存在を隠し通した李牧(りぼく)の策の勝利でした。
「しばらくその男を中心に中華の戦は回るでしょう・・・」
キングダム16巻172話
王騎の言葉通り、この戦で名を知らしめた李牧(りぼく)は趙国の宰相に就任。
軍事、外交、国政にその才能を発揮します。
呂不韋の画策で秦国を訪れるを得なくなった際には、呂不韋と五分にやりとりして秦趙同盟も締結しました。
結果、秦は後顧の憂いなく魏国を攻め、山陽を奪取しました。
もちろんそこで引き下がる李牧(りぼく)ではありません。
秦国が山陽を足掛かりに中華進出も目論んでいることを悟った李牧(りぼく)は、思いがけない行動に出ました。
それがキングダム25巻から始まる合従軍編です。
さすが李牧(りぼく)、なんと李牧(りぼく)は秦以外の国々と盟を結び、秦国に大軍を差し向けたのです。
秦国側は総司令官である昌平君(しょうへいくん)を中心に"すべての防衛線を捨て、前将軍を函谷関に配置"する作戦を取りました。
秦国諸将の奮闘で函谷関(かんこくかん)をなかなか突破できない合従軍。
李牧(りぼく)は自ら別動隊を率いて、秦の首都・成陽に至る道の砦を次々に落としていきます。
秦軍が全力で函谷関(かんこくかん)を守っている間、別動隊を使って成陽を攻め落とそうという李牧(りぼく)は立てていたのです。
瞬く間に、成陽ののど元蕞(さい)の到着する趙軍。
しかし、蕞(さい)にはなんと政が出向いていました。
まさに総力戦です。
王の言葉で蕞の民たちは奮起し、楊端和(ようたんわ)の援軍が来るまで信たちと砦を守り通したのです。
結果李牧の計画した合従軍による秦侵攻作戦は失敗に終わりました。
【キングダム】史実の桓騎を敗走させる李牧(りぼく)
今後、李牧(りぼく)がどんな動きを示すのでしょうか。
政が成人して以降の趙との戦いの流れを追っていきます。
『史記 秦始皇本紀』によれば、紀元前236年、桓騎(かんき)・王宜安(ぎあん)城を落としたことがあります。
この時、桓騎(かんき)はその地にとどまり、王翦(おうせん)が閼与(あつよ)、鄴(ぎょう)といった街を落としていきました。
翌々年、勢いに乗る秦軍が再び趙に侵攻。
桓騎(かんき)が平陽を攻めて、守っていた趙の将軍を討ちました。
この時、桓騎(かんき)は10万人の趙兵の首を斬ったと伝わりますから、趙の桓騎(かんき)への憎悪は激しく高まったに違いありません。
そしてこういった秦の一連の侵攻に対応しきれず、やられっぱなしの趙の中枢は北辺で武功をあげていた李牧(りぼく)を呼び出し、大将軍の地位につけました。
始皇14年、桓騎(かんき)率いる秦ぐんがみたび趙に侵攻します。
この侵攻で平陽、武城を平定する武功をを挙げた桓騎(かんき)は、つぎに宜安(ぎあん)をせめます。
そこに立ちふさがったのが李牧(りぼく)でした。
守戦に優れた李牧(りぼく)は桓騎(かんき)の侵攻を見事に食い止めました。
史書によって桓騎(かんき)の負け方はことなり、『史記』では敗走ののち、秦から逃亡。
『戦国策』によれば李牧(りぼく)に討たれたとされています。
李牧(りぼく)の活躍はそれだけではありません。
翌年、秦軍はまたもや趙国に侵攻し、番吾をせめます。
しかし、これも李牧(りぼく)の活躍により阻止。
それだけではなく、なんと秦から領土を奪うことに成功します。
当時秦は圧倒的な強さをほこり、秦の領土を奪ったのは李牧(りぼく)だけだといわれています。
こういった活躍は秦にとっては目の上のたんこぶでありました。
始皇18年秦国は王翦(おうせん)、楊端和、羌瘣(キョウカイ)を投入して趙を攻めますが、李牧(りぼく)に妨げられてうまくいきません。
そこで、趙王の奸臣・郭開(かくかい)に賄賂を渡し
「李牧(りぼく)と司馬尚が謀反を企てている」
と噂をさせました。
ときの趙王・幽穆王(ゆうぼくおう)はこれを信じてしまい、李牧(りぼく)を更迭しようとします。
けれども身に覚えのない李牧(りぼく)はこれを拒否。
するとなんと、幽穆王(ゆうぼくおう)は李牧(りぼく)をとらえて抹殺していまうのです。
幽穆王(ゆうぼくおう)には、名声と実力を兼ね備えた李牧(りぼく)に対する嫉妬心、恐怖心があったとされています。
こうして、秦国の謀略により李牧(りぼく)は歴史から姿を消しました。
李牧(りぼく)失脚後、趙はあっというまに秦に征服されてしまいます。
【キングダム】李牧(りぼく)が他国亡命の可能性はあるのか?
『キングダム』を振り返ってみると現在、信率いる飛信隊は、秦国武将・桓騎が率いる趙侵攻軍に加わり、離眼城(りがんじょう)攻略のために黒羊丘でたたかっています。
その少し前、"山界の王"楊端和の軍勢が魏国の城を落としたというニュースが、秦国を駆け巡りました。
これは『史記 秦始皇本紀』にかかれています。
史記によるとこのとき桓騎軍が攻めていた離眼城は始皇11年、桓騎(かんき)、王翦(おうせん)、楊端和(ようたんわ)らの軍が趙の鄴(ぎょう)を攻めて、その周辺の9城を落としたとなっている1城と考えられます。
史実通りの流れなら、この戦は秦軍の勝利に終わり、翌々年に桓騎軍が二度目の趙侵攻。
そして三度目の侵攻で李牧(りぼく)に敗北という流れになると思います。
ただし気になる点もあります。
479話で信と羌瘣(キョウカイ)は桓騎軍の戦い方に完全に拒絶していました。
桓騎軍のやり方は、理想に燃える政の方針とも合致しません。
桓騎(かんき)が自分の戦い方をかえるのか。
信がストップをかけるのか。
それとも李牧の出番がはやまるのか。
とても楽しみであります。
李牧(りぼく)に関しては、かっれの最後も疑問です。
史実の李牧(りぼく)の死は悲惨と言っていいものでした。
その最初のきっかけは秦の謀略です。
しかし、現在の政は中華統一に燃える若きカリスマであり、そういった薄暗い策を好むようにはみえません。
政の盾であり剣でもある信も、絶対に反対するでしょう。
何しろ信は李牧(りぼく)に対して
「お前は俺が正面からこえなくちゃなんねぇ壁だからな」
キングダム24巻
と真っ向から宣言しています。
一方秦国から賄賂を受け、李牧(りぼく)を失脚させた郭開に名は、キングダムにも登場しています。
34巻で昌文君(しょうぶんくん)が趙に潜り込ませた間者におべっかを使われていた大臣、それが郭開です。
たとえば、政のためを思った昌文君(しょうぶんくん)が李牧(りぼく)失脚を謀ったとしたら、間者は昌文君(しょうぶんくん)手の者であり、しかも一度李牧(りぼく)を遠ざける策を郭開(かくかい)に授けて成功しています。
郭開(かくかい)が間者を信じる可能性は大変高いと考えられるので、こういった展開なら政や信の清廉潔白さをゆがませることなく李牧(りぼく)失脚が描けるのではないでしょうか。
ただ龐煖(ほうけん)と信の一騎打ちも史実には存在しないことだったので、この際思う存分キングダムとして面白く描いていただきたいなと個人的にはおもっています。
しかし、信にあそこまで言わせた宿敵が、信に関係なく、ましてや謀略で殺されてしまうなど、ファンとしてはとてもさみしいです。
せめて亡命してもいいから生き残って信と大戦をしてもらいたいなと勝手におもっております・・・
歴史家・司馬遷はなぜ李牧を「守戦の名将」したのか
李牧は、趙軍における最強の武将とされている「三代天」の一人であり宰相を務めている人物です。
『キングダム』の作中で圧倒的とも言える知略を持つ軍略家、武人として描かれています。
その評価は楚の宰相(さいしょう)である春申君(しゅんしんくん)の
「貴様ら 李牧を甘く見すぎだ あの男は想像していたよりも恐ろしい男だぞ」
などのセリフからも確認できます。
実際に李牧は秦の重要な戦力であった王騎(おうき)や麃公(ひょうこう)などの将軍をその知略によって討ち取ることに成功しています。
「この顔とこの言葉をしっかりとたたきこんどけ」お前をぶっ倒すのはこの飛信隊の信だってな」
「俺がこの先実権を手にした時強敵となっ実権を手にした時強敵となるのが正にあの李牧だ」
などと「倒さねばならない宿敵」として認められています。
六国を束ねる「合従軍」の結成を秦の宰相・昌平者(しょうへいくん)に気付かれず行い、秦を滅亡寸前まで追い詰めるなど、智将としての側面が強く描かれていますが、武人としての力量も高く
「…間違いねェ人間だ」
と大将軍を間近で見てきた信に評価されているほどです。
こいつは武人としてとんでもねェ数の戦場をくぐり抜けてきた
李牧はそもそも「守戦」で名を上げている?
『キングダム』の時代を描くための歴史的な資料として最も重要な「史記」という中国の歴史書があります。
これは中国における前漢時代の歴史家「司馬遷」によって書かれた歴史書で、上古時代の黄帝から前漢時代の武帝に至る約二千数百年の通史を書き記した大著です。
この司馬遷は、李牧のことを
「守戦の名将」
と位置づけています。
たしかにキングダムの中でも李牧の名将ぶりは描かれていますが、なぜ「守戦」なのでしょうか。
これには李牧がもともと趙の北辺を匈奴から守る代の巌門を守備していたことがきっかけになっています。
この時の話は、キングダムの連載前に描かれた短編読み切り『李牧』にてその様子が描かれています。
李牧はもともと巌門を守備していた将軍が戦死したことからこの地に派遣されるのですが、この時に李牧が指示したのは「不戦逃避」という方法でした。
これは匈奴が襲来したら戦わずに砦に逃げろというものです。
この作戦により匈奴たちが村に着いた時には住民はすでに誰もいない状態となり、家屋は焼かれたものの死傷者は出さずに済みました。
しかし、以前から匈奴の脅威に晒されてきた住民たちの中には、李牧のこうした戦術を不満に感じる者も多くいました。
やがてこの不満は趙王に伝わり、李牧は将軍を解かれてしまいます。
その後、今度は別の将軍が巌門に入り、襲い来る匈奴に対して果敢に戦いを挑むようになります。
しかしその結果、大敗してしまい住民の被害も返って甚大になってしまいます。
困った趙王は、再び李牧を巌門の将軍に任命することになるのです。
この『李牧』で描かれている話は、詳細は別として大筋は史実と変わりません。
しかし、この話には続きがあります。
厳門に戻った李牧は再び「不戦逃避」の方法で匈奴と対峙しました。
被害は減りましたが、再び臆病だという声が出始めます。
そこで李牧は、次に匈奴が攻め入ってきた時にはわざと数千人を残して退却することにしました。
これを聞いた匈奴の王は大軍を率いて侵入しますが、そこで李牧は匈奴の大軍を左右から挟み撃ちにする形で迎撃し、結果的に匈奴の十万騎あまりを打ち取ることに成功するのです。
この戦の結果はキングダムの作中でも
「あの戦場跡を見て驚いたのは屍の多さではなく、そのやられ方だ 一方的に殺されたという感じだった あれは武"の力ではなく明らかに「策』によって敗れている」
「匈奴の生き残りから聞き出したその男の名は 李牧だ」
楊端和(ようたんわ)の発言によって描かれています。
李牧が「守戦の名将」と呼ばれているのは、今後描かれるより秦が強大になった時期に
「秦の攻撃を一時的にでも退けた武将は李牧と楚の項燕のみだった」
ということが由来だと言われています。
しかしこの匈奴戦を最初から振り返って見ると、李牧は当初「不戦逃避」という方法で戦わずして被害を最小限に抑えることに成功しています。
そしてその次に、「敗走するふり」をして敵を引き込み、大軍勢を打ち取ることに成功しています。
司馬遷が李牧を「守備の名将」と評した本当の理由は、単純に「守備が強い」というだけではなく、「守備の形で多大な功績を上げる」ことができる、数少ない武将だったからかもしれません。
李牧の出世と計略による最後李牧亡き後に趙が滅亡する?
李牧は当初、巌門を守ろ一将軍として史実に登場します。紀元前244年に悼襄王(そうじょうおう)が趙の王となった時、趙は主力であった廉頗(れんぱ)がすでに国を離れており、その代わりに燕を攻めるよう王に命じられたのが李牧でした。
この趙と燕の戦いの結果は『キングダム』の作中でも
「李牧が燕の武遂と方城って二つの巨城を落としたらしい」
と、遠く離れた地である秦にも届いている様子が描写されています。
この二年後に再び趙と燕は大規模な合戦を行い、この時に趙の武将・龐煖が燕の武将・劇辛を殺したことが史実でも残されています。
李牧・龐煖(ほうけん)率いる趙軍と劇辛率いる燕軍の戦いは、キングダムの第24巻で描かれており、この時に劇辛は
「すごいな李牧はこれは想像していたより二回りほど強いぞ」
「ここまで俺のくり出した手全てを奴は完璧に読んでおる」
と李牧の戦略の腕前を高く評価している
様子も描写されています。
こうした戦で戦功を上げた李牧は、趙での地位、そして権力を強固なものにしていきます。
現在、作中では紀元前236年に秦と趙が戦っている様子が描かれていますが、史実ではこの2年後に李牧が大将軍に任命されることになっています。
これは趙の将軍が秦の桓騎(かんき)に敗れ、10万人の犠牲が出たためとされています。
大将軍となった李牧は桓騎を討ち、「武安君」という称号を与えられています。
順調に出世をしていった李牧ですが、史実では意外な最期を迎えることになっています。
『史記』では紀元前229年に、趙の大臣・郭開が秦によって買収され、李牧と司馬尚が謀反を企んでいると趙王に密告させたとされています。
その結果、趙王は李牧を捕まえ、斬り殺してしまうというのです。李牧を失った趙は、その後に王翦の強襲によってあっけなく滅亡してしまいます。
キングダムがどこまでその史実を追うのかはわかりませんが、秦国最大のライバルであり、最強の軍略家として描かれている李牧が、信との合戦で華々しく散るのではなく、謀殺というあっけない最後を遂げてしまう可能性も十分に考えられるのです。
李 牧(り ぼく、 - 紀元前229年)は、中国戦国時代の趙の武将。名は繓(さつ)、字は牧。白起・王翦・廉頗と並ぶ戦国四大名将(中国語版)の一人。『史記』「廉頗藺相如列伝」において、司馬遷は李牧を「守戦の名将」と位置づけている ...
李牧 - Wikipedia