幕末の英雄たちのエピソードは、大河ドラマや漫画、本などでいろいろ語られることはありますが、維新の三傑西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允は誰もが知る人物で歴史的にも偉大な人物とされています。
ただ幕末、明治時代という日本の歴史的大改革という時代のなかで色々なものが変わっていった大きな時代のうねりの中にいた人物の中にも俗物と言えるような人物も存在します。
そこで今回はそ今回は教科書では語られることのない俗物と言われるエピソードを持つ登場人物を紹介いたします。
是非最後までご覧ください。
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明治政府の裏の顔贅沢三昧だった大隈重信
西南戦争で西郷隆盛が城山で自刃してから約8カ月後の1878(明治1)年5月1日。
明治政府の中枢に居続けた大久保利通が、馬車で出勤しているときに、赤坂紀尾井坂にて、石川県の士族、島田一良らの襲撃を受けて命を落とす。「紀尾井坂の変」と呼ばれる暗殺事件がおきました。。
木戸は岩倉使節団による西欧視察のあとから体調を崩すようになり、政務に参加。その前年には木戸孝允が病死しているため、西郷と大久保が亡くなったことで、「維新の三傑」はすべてこの世から去ったことになる。
新たなリーダーとしては、大隈重信、伊藤博文、井上馨、黒田清隆などの名が世間では挙げられていました。
だが、本来ならは、大久保の右腕として本命であるはずの大隈について 本命であるはずの大隈についてはリーダーの資質を疑う声が上がっていたようなのです。
令を出すが、戦争中の5月
「は、リーダーとしての資質を問う声が上がっていたようだ。
にした。
そんな大隈を、親友である五代友厚は案じていました。
連続テレビ小説『あさが来た』の登場人物としてお茶の間での知名度が一気に上がった五代だが、彼は大隈の欠点を五箇条にして指摘したことでも知られています。
それが次の五つです。
「愚説愚論でも、きちんと最後まで聞いてやれ」
「自分より地位の低い者が自分と同じ意見なら、その人の意見として採用せよ。手柄は部下に譲れ」
「頭にきて大声で怒れば、信望を失う」
「事務上の決断は、部下の話が煮詰まってからせよ」
「自分が嫌っている人とも積極的に交際しろ」
五代友厚(ごだいともあつ)(1836~1885) 薩摩藩出身。長崎の海軍伝習所で学んだのち、藩命で上海に渡って武器や汽船を購入。 維新後は実業界に転じ、大阪を拠点に富国の柱となる鉄道事業や鉱山開発などに着手した。 1881年には、北海道開拓史官有物払下げ事件により、非難されています。
裏を返せば、大隈がいかに専制的な振る舞いをしていたかがわかるというものだが、こんな助言ができるほどの深い間柄だったから、五代の大隈への期待は高かったのです。
大久保の後継者には、大隈の名がまず上がるべきだと考え、五代は次のようにも書きました。
「大隈大蔵卿は当時参議の上席に列して、しかも凡庸の人にもあらず。その実権は、すなわち同君に帰せられるは順序なるべしと」
だが、この大隈の「凡庸ではない」部分が、政治以外の私生活でも発揮されていたことが問題視されてしまいました。
五代の配下にいた森山茂は、次のように大隈を批判しました。
「世間の評を以てすれば、大隈公の華奢は、王后新王といえども敢えて及ばず、家屋の美は我邦未曽有の仕立にて、すでに壁に珊瑚を塗り込み、座に錦繍を連らね、実に驚欺せしむるばかりなり」
大隈が王侯貴族のように贅沢をしている……という評判が広まっていたようなのです。
それものはず,
大隈は築地で5000石取りの旗本の邸宅に住み、3人ほどの青年食客を抱えており、この大邸宅は「築地梁山泊」と呼ばれ、伊藤や井上も、この梁山泊で連日連夜、宴に参加して議論に花を咲かせていて、家だけではなく、大隈は白馬にまたがって太政官に通うなど、自ら目立つがごとく、贅沢な振る舞いをしていた。
それでも、大久保という後ろ盾がいたころは表立って批判はされなかったが、大久保が殺されると、その贅沢ぶりが際立って語られるようになってしまった。
ちなみに、大隈の振る舞いに最も眉をひそめていたのは、西郷で,西郷は贅沢を嫌い、馬車にすら乗らなかったという。
西郷隆盛が実は問題の多い人物だったということがあるが、私腹を肥やさなかったという意味では、西郷以上の政治家は見当たらですし、大久保利通もも政府のために私財を投じ、死後は借金が残ったほどでした。
贅沢をを見せびらか大隈とはがまるで違ったのです。
結局、大局は財政上の失策と、明治十四年の政変によって政権中枢から追放され、しばらく下野することとなりました。
女好きの伊藤博文愛人29人!
大隈が失脚するなかで、伊藤博文は大久保亡きあとの後継者として政権の中枢を取り仕切り、1885(明治5)年に初代内閣総理大臣となった。
だが、伊藤は明治天皇にたしなめられるほどの女好きで、週刊誌のかっこうの餌食にもなった。
初代総理大臣でありながら、西郷や大久保のように偉人として語られないのはとうぜんのことなのかもしれませんね。
今のご時世きっと大河ドラマは難しいでしょう・・・
また、盟友として伊藤を総理大臣に推した井上整は、外務大臣必大蔵大臣などを歴任。
実力者ではあったが、条約改正には失敗しているし、財閥との癒着が顕でした。
岩倉使節団を見送ったときの宴では、西郷隆盛から
「三井の番頭さん、一杯」
と皮肉を言われて、
杯を突き付けられるなど、完全にバカにされていました。
「妻殺し」を疑われた黒田清隆
では、元薩摩藩士で、戊辰戦争や西南戦争でも活躍した黒田清隆はどうだったかといえば、とんでもない酒乱で、いくつもトラブルを起こしていたようです。
黒田は1870(明治3)年以降、北海道の開拓使次官や長官を務めました。
在任中のある日、商船の大砲で岩礁を射撃しようとしたが、酒を飲んでいたために失敗し、こともあろうに誤射して住民を殺してしまっている。
示談金で治めたというが、もはや「問題児」などという表現でされる行為ではない。
また、1878(明治1)年、大久保が殺される数日前のこと。
黒田は、肺病を患っていた妻を亡くすが、そのことで妙な噂が立ったのです。
黒田が泥酔したあげくに、出迎えが遅いことに腹を立てて、妻を斬り殺したというのだ。
真相は分からないが、それほど黒田の酒癖の悪さは有名だったということである。
この噂は風刺画にも描かれて世間の騒ぎとなり、黒田はやむなく辞表を提出。
それでも批判は止まず、伊藤と大隈は黒田の刑事処分を大久保に迫りましたが、結局、大久保は黒田をかばい、処分をせずに辞表も撤回させています。
その数日後に大久保は暗殺されるが、実は、この悲劇は黒田の事件と無関係ではありませんでした。
大久保を暗殺した島田らが携えた書には、大久保による専制政治への批判が書かれており、その一例として黒田の事件を不問にしたことも挙げられていたのです。
暗殺されたタイミングからしても、黒田の事件への処分に対する不満が、私、大久保利通の暗殺の直接的なきっかけになったのかもしれないのです。
自分のせいで大久保が殺されたのだと知ると、黒田は働哭したという。
しかし、これほどの騒ぎを起こしながらも、黒田は1888(明治2)年に伊藤のあとを継いで、第2代内閣総理大臣に就任。
全く政治とは常に移ろい、何が起こるかわからないものですね。
ただ、酒癖の悪さだけは、何も変わらず、黒田内閣は、条約改正失敗の責任をとるかたちで退陣したあと、政敵だった井上馨の自宅に、酔っぱらったまま参上。
本人が不在でもおかまいなしに乱入して、
「井上は国賊なり、殺しに来た」
と大声をあげて暴れまわったといいます。
どう考えても滅茶苦茶である。
というよりヤバイやつ・・・しかも2代総理大臣"(-""-)"
その後、黒田は影響力を失い、表舞台から去っています。まあ当然でしょう(笑)
明治維新を経ても、世情は安定するどころか、人の上に立つリーダーが率先して、風紀を乱していた。
明治とはそんな時代だったのですね。
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