織田信長 天下統一の礎を築いた戦国時代の重要人物
尾張の守護代・織田信秀の三男として一五三四年に誕生した信長は、嫡男として育てられ、二歳のときに那古野城主となった。
1549年、15歳の信長は、斎藤道三(さいとうどうざん)の娘・濃姫(のうひめ)と政略結婚。
その後、1551年に信秀が急死し、17歳にして家督を受け継いだものの、弟の信行と対立する。
信行を鎮圧したことをきっかけに、信長は尾張国内における対立勢力をすべて退けていった。
1559年2月には将軍・足利義輝を訪ね上洛。
この頃には、すでに尾張国を完全に支配していた。やがて、信長の勢力が他国に及び始めると、尾張国は駿河・遠江・三河を支配していた今川義元(いまがわよしもと)による脅威にさらされるようになり、1560年5月にはついに侵攻を受けることに。
しかし信長は屈せず、二万人とも四万人ともいわれる今川軍が桶狭間(おけはざま)で休息をとっている折りを見計らって、五千人程度の兵力で奇襲。
信長軍は今川義元の首を獲ることに成功するのだった。
日本三大奇襲、のひとつとして知られる、この桶狭間の戦いにおいて、信長が重視したのは、今川軍の動向を偵察することだった。
その証拠に、この戦いでもっとも多くの恩賞を得たのは、敵の本陣に切り込んだ服部小平太でも、義元の首をとった毛利良勝でもなく、今川軍の休息を察知した簗田政綱だったといわれているのだ。
「情報を制するものが戦いを制する」
という鉄則は、今でこそ当たり前だが、信長はほかの武将よりも情報を重視していた。
桶狭間の戦いを前に、今川義元に向けて嘘の情報を流布し、今川勢の撹乱を目論んだとの説もある。
とかく粗野なイメージがつきまとう信長だが、実は緻密にことを運ぶ、情報戦の達人だったのだ。
※ちなみに最新の研究では奇襲ではなかったという事がわかっており、織田家が普通につよかった(金持ち)という見方が有力になっています。
織田信長年表
- 1534年:織田信秀の次男として生まれる。
- 1556年:織田信秀の嫡男・織田信忠が戦死したため、家督を継ぐ。
- 1560年:桶狭間の戦いで今川義元を破り、三河国を領有する。
- 1567年:美濃国の斎藤義龍が没すると、その領地を併合する。
- 1570年:赤坂城を築城し、東海地方を統一する。
- 1573年:足利義昭を奉じて京都に入城し、室町幕府を滅ぼす。
- 1575年:長篠の戦いで武田勝頼を破り、信濃国を併合する。
- 1582年:本能寺の変で明智光秀に襲撃され、自害する。
織田信長 長篠の戦い難敵・武田軍圧倒の裏に先見の明あり
そんな信長が、宣教師によってもたらされる海外の情報に興味を抱いたとしても、なんら不思議ではない。
信長は時計や世界地図に興味を示しただけでなく、家臣たちが首をひねった地球儀についても
「この世界が球だというのは理にかなっている」
と即座に理解を示したのだとか。
さらに、イエズス会の司教が連れていた黒人をもの珍しさから側近として迎え、ヤスケと名づけていたという逸話もある。
1543年に種子島に伝来した火縄銃への強い関心も、信長が新しもの好きだったことを示す一例だろう。
1575年に徳川家康と連合して武田軍と戦った長篠(ながしの)の戦いにおいて、信長は火縄銃三千挺を導入。
火縄銃部隊を三分割し、「撃つ・待つ・弾を装填する」というローテーションを組んで矢継ぎ早に銃撃する。
を考案し、当時最強といわれていた武田騎馬軍団に圧勝した。
この勝利が、信長の天下統一への道を決定づけたともいわれている。
織田信長包囲網を破り、天下統一へ…
長篠の戦いをさかのぼること7年、信長は将軍家の家督相続から外されていた足利義昭を十五代将軍へと押し上げた。
しかし、幕府再興を画策する義昭と、天下統一を狙う信長は次第に対立。
義昭は諸国の武将の力を得て信長包囲網、を形成していだが、信長はいずれも打破。
最終的に将軍家を京都から追放し、幕府を滅ぼしてしまった。
信長を討伐するはずの包囲網は、結果的に信長の勢力拡大を加速させる結果になってしまったのである。
1576年、信長は新拠点として琵琶湖の湖岸に安土城の築城を開始。
信長は、いよいよ天下統一に本腰を入れ始めるのです。
1582年、十万の軍勢を率いて武田一族の討伐に向かった信長は「武田に属していた者は一族もろとも根絶やしにせよ」と、冷酷ともいえる「武田狩り」の命令を下したといわれている。
このほかにも、信長は残虐非道な方法で、たびたび世間を恐怖に陥れてきた。
僧侶はおろか、女、子供までを追いたて、四千人あまりが殺害された比叡山(ひえいざん)の焼き討ちはその代表だろう。
織田信長
織田信長正気?狂気?: 神仏を恐れぬ第六天魔王
当時、岐阜と京都に拠点を持っていた信長にとって、比叡山は軍事的にも重要なポイントだった。
だが、比叡山延暦寺の僧侶たちは、信長と敵対する浅井長政・朝倉義景の連合軍をかくまい信長に反抗。
これに腹を立てた信長は、敵勢力を討ち、拠点を奪取すべく、 比叡山(ひえいざん)の焼き討ち を決意する。
寺院を焼き落とすという行為は、今考えれば乱心とも取れなくはないが、当時の僧侶たちは武家との癒着で、政治的にも軍事的にも影響力があり、天下統一を目論む信長にとってはいずれ打倒しなければならない存在だったのだ。
宗教嫌いの信長は、一向宗の宗徒たちによる一揆にも徹底抗戦し、二万人の信徒を葬ったこともある。
記録だけ見れば、信長は残虐、という主張はもっともだが、そこには信長なりの、決して譲れない正義があったのである。
※金貸しの総本山ともなっていたという説もあり詳しくはこちら↓
あるとき、神仏の加護、を謳う武田信玄(たけだしんげん)から「天台座主沙門信玄」という署名入りの書状を受け取った信長は、仏教を破壊する
邪神「第六天魔王」
の署名で書状を送り返したという。
信長は仏教を目の敵にしていたのだ。
信長と親交の深い宣教師ルイス・フロイスの記述によると、信長は
「創造主、不滅の霊魂、そして死後世界の存在を否定していた」
とのこと。
仏像を軽視した信長は、各地で仏像を破壊し、城の石垣の礎石などにしてしまったという。
織田信長稀代のうつけ者、その言動に理由あり
神仏をも恐れぬ信長の行動は、当時、誰の目にも型破りに映ったことだろう。
だが、常識を外れた信長の様子は、幼少の頃から知られていた。
織田家の嫡男でありながら、庶民に混じって遊び暮らすのは序の口。
背中に極彩色の男根を模した柄の入った浴衣を好み、だらしなく街を歩く姿は、周囲から「うつけ者」と噂されていた。
父・信秀の葬儀の際、お香を祭壇に投げつけたというエピソードも伝わっている。
だが、そんな信長の武将としての才覚を見抜いた人物がいた。
濃姫の父で、信長の義父にあたる斎藤道三(さいとうどうざん)である。
愛娘と信長の政略結婚を企てた道三は「うつけ者」の姿を事前に見ておこうと、信長の姿を見張っていた。
普段の信長は、噂どおりの奇抜ないでたちで、武将としての品格は微塵もなかった。
だが、会見の席に現れた正装の信長を見た道三は、その気高さに脱帽。
普段のうつけた格好はは周囲を油断させるためだと読み取った。
「やがて我ら一族は、あの男の門前に馬をつなぐだろう」
と語り、将来、斎藤家が織田家に下ることを予見したといわれている。
また、信長は、道三との初会見の際に弓・鉄砲五百挺、長槍五百本という軍備で臨んだようだ。道三はその様子に驚いたとする説がある。
というのも、信長の兵が携えていた長槍はなんと長さ約六メートル。
当時の槍は二~四メートルが一般的だったことを考えると、信長がいかに型破りだったかがわかる。
この長槍は、もちろん飾りではない。
相手を叩き落し、ひるんだところを刺すという戦法が確立され、技の指南には信長本人が直々にあたっていたらしい。
極めつけに、討ち取った浅井久政・浅井長政(あさいながまさ)・朝倉義景の頭蓋骨に金箔を貼り、それを肴に酒を飲んだという逸話も知られている。
しかし、これは、研究により死者に敬意を評した行為だということがわかってきた。
「うつけ」と思しき行為の数々にも、信長なりの理由や根拠、正義が存在しているのだ。
そんな信長が、家臣・明智光秀(あけちみつひで)の謀反により、本能寺で命を落としたのは1585年のこと。
武田氏を滅ぼした四ヵ月後の虚しき自刃だった。
もしも、信長が本能寺で死ななければ……歴史は確実に違うものになっていたはずですね。
戦国一のカリスマ織田信長と織田家
うつけから英雄へ華麗なる大変身
長篠の戦いでは、戦国最強のといわれた武田の騎馬隊を撃破し、天下人の最有力候補に。鉄砲や鉄甲船等の最先端技術をすべて取り入れた革命児。大うつけと馬鹿にされていた信長だが、桶狭間で今川義元に勝利すると、一躍脚光を浴びる。彼の躍動は起こるべくして起こったといえるだろう。本能寺で果て、天下布武の夢は幻と消えるが、戦国の英雄であることは変わりません。戦国武将といえば、織田信長そういっても過言ではないぐらいいファンやアンチファンもいるのは皆さんもご存じなはずです。
織田家の歴史
信長の父・信秀が尾張守護の斯波氏を制し、戦国大名へとのし上がった。
信秀の後を継いだ信長が桶狭間の戦いで今川に、長篠の戦いで武田に勝利し、天下獲りにまであと一歩と迫る!だが快進撃を続けた信長も、本能寺で無念の死を遂げてしまう。この戦乱の世にさん然と織田家の名を輝かせた信長の功績は非常にに大きいです。
冷酷などといわれる織田信長だが弟信行と跡目争いで信行についた織田家随一の家臣となった柴田勝家も許しているし、松永久秀に何度も裏切られたがそのたびに許していたということもあり、心の広い面もあったのかもしれませんね。
織田家家臣
- ・明智光秀(あけちみつひで) :光秀のスキルの高さを瞬時に見抜いた信長によって登用され、外交を担う重要なポストに就きました。光秀も信長の期待を裏切らずに、働いたが、反旗を翻し本能寺で、主君信長を自害に追い込みました。(私は本能寺は秀吉説だとおもっています。)
- 九鬼嘉隆(くきよしたか)
- 佐久間信盛(かくまのぶもり)
- 佐々成政(さっさなりまさ)
- 柴田勝家(しばたかついえ):「鬼柴田」といったニックネームを持つ忠義勇敢な織田家譜代の家臣。信長が指揮を執った主要な戦いには、ほぼすべて参戦している。
- 信長の死後は、織田家を守るために秀吉と戦いました。
- 滝川 一益(たきがわ かずます / いちます)
- 丹羽長秀(にわながひで)
- 羽柴秀吉(はしばっひでよし)
- 前田利家(まえだとしいえ)
- 池田恒興(いけだつねおき)
- 森蘭丸(もりらんまる)
小大名だった織田家に生まれながら畿内全域を制覇し、天下統一まであと一歩のところまで迫った織田信長。 本能寺の変で横死し、天下布武の野望が叶えられることはなかったが、そのカリスマ性やリーダーシップ、天才的な戦の強さから現代でも人気が高い。
日本の歴史シミュレーションゲームの代表作『信長の野望』も彼の名を冠している。
反面「鳴かぬなら殺してしまえ ほととぎす」の一句に象徴される、敵対勢力に対する容赦ない焼き討ちや掃討作戦から「怒らせると何をするか分からない人物」としても一般に知られている。
本項ではすでに語り尽くされた信長のリーダーシップではなく、彼が部下や抵抗勢力にとった仕打ちとその裏にあった気質から、実像に迫りたい。
引き締まった肉体を持つ〝族の頭領”
1534年、織田信長は、現在の愛知県にあたる尾張の国に生まれた。
信長が属する織田家は尾張守護代の重臣筋にあたり「弾正忠家」と呼ばれ、つまり室町幕府体制の中では「領主の代理の家臣の一人」にあたり、決して国内での地位は高くなかった。
信長の父で〝尾張の虎”と呼ばれた信秀は、そんな中にあっても積極的な領土拡張政策をとる。
1551年に没して信長が後を継ぐまでに国内でも一番の勢力を築いたが、統一には至らなかった。
家督を継いだ信長は、弟・信勝の謀反を鎮圧すると瞬く間に国内を統一し、1560年の桶狭間の合戦を経て、畿内での勢力を急激に拡大していった。
家督を継ぐ以前の少年期には、乱れに乱れた服装で、歩きながら餅を食い凶器まがいの火打石を隠し持ち、馬に横乗りするなど、 その姿はまるで暴走族の頭領。
身長は約165センチ、体重は60キロ程度で、戦国時代の人々の平均身長がおよそ150センチとすれば、信長の体格はなかなかの偉丈夫と言っていいだろう。
端正な顔立ちをしており、髭も濃くなく胸毛も薄かったと言われる。
その容貌は一説によると、織田家が美貌の女性を何世代も娶った美形政策の成果であるそうだ。
身長に比べて体重が多めなのは、乗馬や山登りに加え、弓の訓練で鍛えに鍛えた筋肉のせいだ。胸囲は30センチ以上あったといわれ、その膂力を裏打ちするエピソードもある。
福岡市博物館に所蔵している名刀に「圧し切り長谷部」という刀がある。
物騒な名前だが、これは信長が彼に無礼を働いた茶坊主を「圧し切った」ことに由来しているのだ。 「圧し切り」とは振りかぶらずに押すだけで対象を斬ることを指し、これには切れ味だけでなく、相当な筋力を必要とするらしい。信長を怖れた坊主は膳棚下に隠れたが、構わず机ごと圧し切ってしまったという・・・
長年の重臣もお構いなしに処分
桶狭間の合戦後、1567年に美濃の国を手に入れた信長は「天下布武」の朱印を用い始める。
本格的に天下統一を意識したこの地から、織田軍の快進撃がはじまるのである。
急激に勢力を拡大する中で、信長は家中に徹底した成果主義を敷く。 草履持ち出身の豊臣秀吉が重臣と
なっていくのが、その象徴だ。
しかし苦労して業績を上げても、瞬く間に転落した家臣もいる。
佐久間信盛が、その最たる例だろう。信盛は信長の父の代から仕えた重臣である。
信長の青年期、その破天荒な言動が「うつけ」だとして家中で問題となった時も彼を信じ、支持した忠臣だ。弟の信勝が謀反を働き、家督争いが勃発した折も一貫して信長の味方だった。
その後、信長が中央に進出した後も各地を転戦し功を上げた。
信長が最後の足利将軍義昭を奉じて京都に入った1568年ごろ、流行った歌がある。
「木綿藤吉 米五郎左 掛かれ柴田に 退き佐久間」
これは織田家に不可欠な武将を、その得意分野と合わせて歌にしたものだ。 藤吉とは秀吉のことである。
木綿のように使い勝手がいいという
ことだ。五郎左は、外交や行政面で織田家を支えた重臣・丹羽長秀のこと。
米のように無くてはならない人材を指す。
「掛かれ柴田」では織田家随一の猛将・柴田勝家の武勇を称えている。
そして「退き佐久間」は佐久間信盛が「退き戦」つまり撤退戦で活躍したことを表現している。
秀吉や勝家と同じく、信盛も織田家の躍進に大きく貢献した一人だったのだ。
1576年、信盛はそれまでの功績が認められ、一向一揆を扇動する本願寺攻めの最高指揮官に任じられ彼はこの時点で、織田家中でも最大規模の軍団を統率していた。
信盛は大軍を率いて本願寺勢を包囲するが、抵抗は激しく戦線が膠着した。四年に亘る停滞に業を煮やした信長は、本願寺との和睦を決断する。信盛は、近畿七ヵ国の大名たちを与力として引き連れながら、それを無駄にしてしまったことになる。
宙に浮いてしまった大軍を統率する信盛と子・信栄のもとに信長から1カ条に渡る「折檻状」が届く。そこには佐久間親子の罪状が事細かに列挙されていた。
「貴様ら親子は織田家中随一の大軍を率いていながら、悪戯に月日だけを消費した。他の諸将は競って手柄を立てているのに、二人は一戦交えて雌雄を決するでもない。武勇がないなら、ないなりに敵を調略するなり、対応策を相談しに来ればいいのに、それもない」
他の諸将と比較して、信盛の対応をこれでもかと非難している。
「できないなら、できないなりに意見を聞きに来い」
というくだりが恐ろしい。信長はさらに続ける。
「そもそも貴様らの領地経営の手法もいただけない。自分の蓄えを増やすばかりで、家臣の知行を増やさない。天下の面目を失ってしまった。ここまでひどい者は高麗、唐、南蛮どこを探してもいない」
信長の叱責は本願寺攻めとは関係のない分野にまで及ぶ。そして、追及はまだまだ続く。
「三方ヶ原の戦いや朝倉氏攻めでの失態も許し難い。30年も私に仕えていながら、素晴らしい功績など何ひとつない。かくなる上はどこかの敵を討ち平らげるなり、討ち死にするのが筋だ。そうでなければ頭を丸めて高野山に入って許しを乞え」
ついに8年も前の失態を蒸し返されている。加えて30年の忠誠を全否定し、とどめをさしている。
信盛親子は慌てて高野山に入るが、つき従うものは僅か2名。信盛は1582年の1月、信長の死を待たずに紀伊熊野にて寂しく死去した。
信長は、信盛のみならず、盛んに重臣の過去の罪を蒸し返している。
老臣・林秀貞の場合はなお酷く、信長と信勝の兄弟が家督を争った際に信勝側についたかどで追放されている。
実に30年近く前の罪である。
何事においても即断即決、さっぱりとした性格で知られる信長だが、このように相当な執念深さで部下を裁いたこともあった。
天下一の権勢を誇る織田家の軍団長、重臣から一夜にして放浪の身となる古参の老臣たそれを見ていた明智光秀が「次は我が身」と決起するまで、そう時間はかからなかった。
徹底した「根絶やし」政策
失態を犯した部下にはまったく容赦がない信長。それが敵ともなれば、何の遠慮もない。
敵を追い詰めるしつこさ、徹底ぶりは『信長の三大虐殺』と言われる掃討作戦に表れている。
これらはそれぞれ、比叡山の焼き討ち、1570年の長島一向一揆、1574年の越前一向一揆を指している。
なかでも著名なのが比叡山の焼き討ちだ。信仰の自由こそ認めていた信長だったが、宗教を利用して、しつこく彼の政策に異議をとなえ、破壊活動を繰りかえす比叡山を激しく嫌悪した。
当時の信長は「第一次信長包囲網」に苦しめられていた。
彼が拠点としていたのは岐阜と京都であったが、その補給路を抑える形で聳える比叡山は、軍事的に見て厄介な存在であった。
比叡山延暦寺は黄金を贈って事を収めようとするが、信長は応じない。
彼は、「夜に攻めると夜陰に紛れて逃げる者がいるから、早朝を待って皆殺しにしましょう」という部下の進言を受け入れ、午前6時頃、麓の坂本に襲いかかると抵抗する僧兵たちをことごとく斬り捨てていく。
避難していた学僧、上人までもが容赦なく首を刎ねられ、非戦闘員の女子供が助けを求めても皆殺しにした。死者数は資料によって増減はあるものの、1500人から4000人であるという。
そして1570年に本願寺門徒が蜂起した長島一向一揆。彼らは「信長包囲網」で孤立した伊勢長島の小木江城を陥落させる。信長の弟・信興を含め織田一族が約10名犠牲になったとあって、信長の怒りは頂点に達し2万人を数珠つなぎにして焼き尽くした。
しかし、それでも信長の恨みは晴れていない。
1574年に蜂起した越前一向一揆では、信長が任命した越前守護代が殺されて国が乗っ取られてしまった。ところが本願寺の大坊主らが私欲に走ったため、かえって国内の民衆や豪族の反発を招いていた。
これを好機と見た信長は翌年8月、柴田勝家に7万の軍勢を与え越前に侵攻させた。
一揆衆は太刀打ちができず、すぐさま敗走を開始。
さらに手を抜かない信長は徹底した皆殺しを開始する。まず杉津城を皮切りに木ノ芽峠城、龍門寺城、河野城の城兵を次々に血祭りにあげた。鉢伏城の指揮官たちは
「私の自害と引き換えに城兵の命を救ってくれ」
と懇願するが、織田軍は彼らの切腹をわざわざ見届けた後、残念ながらすべての兵を皆殺しにした。その後も逃げる一揆衆を次々にとらえ、磔・釜茹でにかけ総計1万2250人以上を抹殺した。
この虐殺劇が終わった後、信長は京都所司代・村井貞勝に書き送った手紙の中で、
「たくさんの首を斬って、憂さを晴らしたぞ」
と恨みがスッキリした様子を見せている。
さらに府中の町や近辺で都合2000人を斬首したことについて、
「町は死骸で埋めつくされた。空いてる場所はない。その有り様を見せたいものよ」
と不気味に形容している。
信長の生涯虐殺数は6万人に達すると言われ、これは日本史上に類を見ない数字だ。
短気で残虐なイメージそのままだ。 あまりに度が過ぎて開いた口が塞がらない。
信長が一揆殲滅のような作戦を繰り返すのは、激情に駆られたというより自分に逆らう者=異物の存在は絶対に許さないという、極度の潔癖症がそうさせたように見える。
信長の部屋は埃など一切なく、つねに美しく整理されていた。
部屋を掃除していた幼い下女が果物のかすを処分し忘れた時、その少女を有無をいわさず斬り殺したという逸話も残っている。
生き神様になって賽銭を要求
敵国の悉くを滅ぼし、抵抗する宗教勢力を皆殺しにして、信長の天下統一事業は進んでいった。
拡がる領土に伴って膨れ上がった信長の自負心は、ついに自身を神として祀らせるまでに至る。
豪華壮麗な安土城の敷地に、見寺という信長を本尊とする寺を作らせたのだ。
ポルトガル人の宣教師ルイス・フロイスはこう書き残す。
「寺には普通、ご神体と呼ばれる“石”がある。しかし安土にはそれがない。彼は『私自らがご神体である』と言った」
さらに、抱見寺には次のような紙が貼り出されたという。
一、お金持ちの人が祈れば、よりお金持ちになるでしょう。貧しい人や身分の低い人が祈れば、お金持ちとなり、良い身分になるでしょう。
子どものいない人は子どもに恵まれ、長生きできるようになるでしょう。
一、この寺に祈れば、80歳までは長生きし、病気はすぐ治り、希望が叶えられ、健やかな日々を過ごせるでしょう。
一、私の誕生日を聖なる日とし、この寺へ必ずきて祈りなさい。
一、以上のすべてを信じたものには、確実に疑いなく、祈ったことが必ず実現するでしょう。これを信じない邪悪な人たちは、滅ぶでしょう。たとえ来世で生まれ変わっても滅ぶでしょう。だからすべての日本人は、大きな崇拝と尊敬をこの寺に捧げることが必要です。
新興宗教の教義さながらの文面である。
このように、権力者が自分を祀らせるトレンドは信長からスタートし、部下の秀吉も真似して、徳川家康も東照宮で自らを祀らせている。
特に信長は、きちんと
「賽銭を入れるように」
と求めており、なかなかしたたかなのだ。
前述したように、信長は比叡山の僧侶など宗教を信仰する者を大量に虐殺していた。
さらに自身を神として祀らせたとなれば、孤高の無神論者であるかのような印象を受ける。
だが、それは違い、信長は若い頃から地元・尾張の熱田神宮を手厚く保護し、敬っていた。
信長の敵は神ではなく、あくまで自身に抵抗する宗教勢力の利権だったのである。
黒人を家来に登用
ところで、信長の神に対する執着がどれほどだったのかを示すものとして、『信長公記』に記された、あるエピソードがある。
ある冬のこと、尾張の「あまが池」では、化け物のような蛇神さまが出現するという噂が立っていた。それを聞いた信長 は、周辺の村から人々を駆り出し、数百の桶でいっせいに池の水約500万リットルをかきだしていく。
数時間経過し、やっと7割ほどの水が減った。すると、信長はすかさず極寒の池に飛び込み、続いて泳ぎで評判の鵜左衛門が飛び込む。
結局、あまが池4000平米の大捜索で、信長が大蛇に出会うことはなかったものの、蛇神一匹でもこの執念。 あくまでも、自らの目で確かめなければ気がすまないのだ。
1581年、宣教師ヴァリニャーノは黒人を連れて信長を訪ねた。信長は大変驚いた。
ぜなら黒人の肌の色が、色白の自分とあまりに違っていたからだ。
宣教師は、
「生まれたときから、そのような肌なのです」
と説明するが、信長は、
「塗っているに違いない」
と言って聞かない。
早速、入念に体を洗わせた。だが、いくらしつこく洗っても肌は赤ぎれて、より黒色が強調されるばかり。信長は、ようやく世の中にはそうした人間がいることを理解すると、その黒人をヤスケと名づけて京都の町を連れ回したのだ。
信長は珍しがって連れ回しただけなのだが、恐らく人々にとっては事件だったはず。
当時の町の人々の反応はわかっていないが、まだ多くの人々は、自分たちとは違う外国人が〝いる”という認識すらなかった時代。さぞかし驚いたに違いない。
しかも、家康が国内を統一し、江戸時代となって鎖国する以前の話だ。 昔話に出てくる赤鬼・青鬼とは、白人を指したともいわれるが、当時の人が黒人を見て何にたとえたか気になるところである。
信長の家来となったヤスケは、本能寺の変で奮戦したが、明智光秀に捕らえられ、
「ヤスケはわけもわからず戦っていただけ」と
もし、罷免された後、消息不明となる。
もし、本能寺で死ななければ、有力な黒人武将として活躍が期待されたかもしれず、実に惜しい。
現在の蛇池。名古屋中心部からバスで20分ほど。 信長のエピソードの他にも大蛇にまつわる伝説が数多く残る。
信長が愛した男たち
敵味方に厳しく、己に甘い信長でも、戦国武将のご多分に洩れず小姓は寵愛していたようだ。
当時としては男色は珍しいことではない。
小姓は武将の秘書であり、優秀な護衛であり、戦場では夜の友も務めた。
生理によって血を流す可能性のある女性を同伴するということは「穢れ」を戦場に持ち込むということであり、縁起が悪いこととされていたのだ。
幹部候補生としての意味合いもあり、小姓出身の名将は数多い。
信長の小姓出身の武将としては、卓越した軍才を持ちながら早世し秀吉に
「彼に関東八州を与えたかった」
と嘆かせたという堀秀政がいる。
才能を買われて信長の娘を娶り、諸大名からそ信長の小姓だ。
智勇を賞賛された蒲生氏郷も、もとは彼らは出世のスピードや、任されている任務の大きさから、明らかな特別扱いを受けていたことが伺え、信長から溺愛されていたことが分かる。
信長が愛した小姓と言えば、森蘭丸が真っ先に挙げられる。
しかし、これは小説や映画の影響であり、実際に彼が近従として勤務したのは二年足らずであるとされる。
最も信長の愛を受けとめたとされているのが「槍の又左」と言われ、武勇を誇った前田利家だ。
幼少から信長に仕え、「母衣衆」と呼ばれる親衛隊の隊長を務めるなど緒戦で活躍し、豊臣政権下では五大老に列せられるまでになる人物だ。
彼には、こんな逸話が残されている。
「亜相公御夜話」によれば、ある時、信長が諸大名を安土城に招き御馳走を振るまった。
気分をよくした信長は、大名一人一人に声をかけていく。
柴田勝家には、
「勝家、お前をはじめ、皆がよく働いてくれたおかげで、余は天下を取ることができた。満足だ」
といった具合。前田利家の番になると、
信長は彼の髭をつかみ、こう言った。
「貴様が少年の折は、夜になると片時も体から離すことがなかったな」
このころの時代には当然のたしなみだったのです・・・
そして、蘭丸は本能寺で信長を守り、戦死してしまったが、生きていれば利家のように「織田政権」の有力幹部になっていただろう。
抹香ぶちまけの真相
少年の頃の信長には奇行の逸話が尽きない。
1551年、信長は父・信秀の葬式に奇抜な出で立ちで現れた。服装や髪は乱れ「うつけ」らしく無礼極まりない。 そして、なにを思ったか抹香を鷲づかみにすると、父の仏前にぶちまけたのだ。
対する弟の信勝は儀礼にのっとって焼香する。
見ていた家臣たちは「信勝様がお世継ぎなら良かったものを」と嘆いたとされる。
このエピソードは青年時代の信長が、荒々しい気性の持ち主であったことを示すものとして、引用されることが多い。
しかし、歴史考古学者の西ヶ谷恭弘は、「葬儀の際、死者を驚かし、目を醒ますため、仏前で「カッ」と叫んだり、ドラを鳴らしたり、かね鉦を叩いたりする」
という僧侶の話を引用して、この逸話を好意的にみている。
かつて、国内では盆になると災厄を払い、霊の鎮魂を行うため、村人が集まって、太鼓や鉦を叩いていた。
それは『念仏踊り』と呼ばれ、この風習から、いわゆる盆踊りが生まれ、さらに田楽と呼ばれる古典芸能の舞踊が発展していく。
信長は、徹夜しなければ命が縮む”といわれた庚申の夜に、家臣と徹夜で踊り明かしたほど、舞うことが大好きだ。 幸若舞を踊るなど古典芸能にも精通している。
また、『爆竹祭り』を主催するなど、賑わいのあるイベントも非常に好んでいる。
もちろん信長は、平安時代に起源をもつ念仏踊りの由来や習慣を知っていただろう。 当時にあって、物音を鳴らし亡魂を鎮めることは不思議なことではない。
民俗学者の牧田茂は『日本人の一生』で、親族のタマヨバイ(魂を呼びもどす風習)について、こう記している。
「タマヨバイをやっても、魂がからだへ帰ってこなかった場合、これが「死」なのです。 昔の日本人は、だから、人が死んだり、あるいは死にそうになったときには、いろんな方法をもって、その魂を呼び戻そうとするわけです」
親族の死は、ときに当人にとって受け入れがたいときがある。これはあくまで筆者の考えだが、信長は最後に、彼流の大胆なタマヨバイを実践してみせたのではないだろうか。
とはいえ、宣教師フロイスに説明を受け、日本人として初めて
「地球は平面ではなく、丸い形をしている」
ことを理解したのも信長だ。
合理的な信長は、死んだ人間が蘇るタマヨバイの儀式が気恥ずかしくて、乱れた服装で乗り込んできたのではないだろうか。
今では見られなくなったが、人の死を諦めきれない者が、米の入った筒を振って音を聞かせたり、桝を棒で叩いて魂の力を呼び戻すという風習は信長の時代にあっては、少しもおかしい話ではなかった。
さらに、タマヨバイに使う道具に決まりがあったわけではない。
仏前に立った時、手近なところに抹香があったというだけだったのかもしれない。
信秀の死後、家督を継いだ信長は鉄砲の大量運用などの画期的な戦術や、徹底した家臣への成果主義の導入などによって勢力を拡大し、天下統一まであと一歩のところまで迫った。
本能寺の変で明智光秀に討たれるが、この時48歳であった信長が天下統一を成し遂げていれば、どのような国が形作られていったのだろうか。天下太平などと言われる家康の江戸時代とはまるで違う、激しい競争社会が繰り広げられていたかもしれない。