渋沢栄一とはどんな人物なのか?
設立に関わった会社は、
<金融・保険>
・第一銀行→みずほ銀行
・東京貯蓄銀行→りそな銀行
・東京海上保険→東京海上日動火災保険
・万歳生命保険→マニュライフ生命保険
<ガス・電気>
・東京瓦斯→東京ガス
・広島水力電気→中国電力
<ホテル・劇場>
・帝国ホテル→帝国ホテル
・帝国劇場→東宝
<陸運・海運>
・日本鉄道→JR東日本
・北海道鉄道→JR北海道
・東洋汽船→日本郵船
<造船・鉄鋼>
・東京石川島造船所→IHI
・東京製綱→東京製綱
<綿業
・大阪紡績→東洋紡
・京都織物→エコナックホールディングス
・東京帽子→オーベスク
<製紙・出版>
・中央製紙→王子製紙、日本製紙
・中外商業新報社→日本経済新聞社
<窯業>
・浅野セメント→太平洋セメント
・品川白煉瓦→品川リフラクトリーズ
<その他>
・大日本麦酒→サッポロビール、アサヒビール
・日本皮革→ニッピ
・澁澤倉庫→澁澤倉庫
渋沢栄一が関わった約500の企業等 - 東京商工会議所
というとてつもない数の、現在では名だたる企業の設立に関わる。
それだけではなく
まさに日本の経済と教育、明治の日本の礎を築いた人物といっても過言ではありません。
この記事は
2021年スタートの大河ドラマ『青天を衝(つ)け』や
新一万円札になることで話題の渋沢栄一という人物を解説していきます。
幼少期から晩年期まで簡単に、
そしてこれを見れば渋沢栄一のすべてがわかる完全版
として解説していきますので是非最後までご覧ください。
【大河ドラマ】青天を衝けその後の渋沢栄一の生き方に大きく影響を与えた論語との出会い
渋沢栄一
→ → → → → →生家は大きな農業を営む地元では「中の家(なかんち)」と呼ばれる裕福な家庭に生まれ、麦作や養蚕のほかに、染料に使われる藍玉をつくり現在の群馬県や長野県方面に売り歩く仕事をしていました。
栄一の父は教育熱心で6歳から読書や書道を始め、読んだ読書になかには中国の古典文学
- 『大学』
- 『中庸』
- 『論語』
などを声を出して読んでいたようです。
どんなことをすればそんな子供に育つのか・・・
その後は、10歳年上で人生をほぼ一緒に過ごすことになる、いとこの尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)より儒学を学ぶようになりました。
10歳のころには小説などにも興味を持ち読んでいたようです。
渋沢栄一の代表著書『論語と算盤』という本でも出てくるように、『論語』は彼の愛読書となり一生涯で何でも読んでいたようです。
栄一は孔子(こうし)を尊敬しており、もしかしたら、さまざまな難題や課題という壁にぶつかるたびに人生のバイブルとして読んでいたのではないでしょうか。
農民ではありましたが文武両道に育てられ剣術に関しても12歳ころから渋沢新三郎より神道無念流を学び、正義感の強い子に成長していきました。
【大河ドラマ】青天を衝け渋沢栄一の商才はどこで磨かれていったのか?子供のころから?
商才の才能をうかがわせる幼少期のエピソードを紹介します。
13歳ごろから家業を手伝っていた栄一は、ある日父に
「そろそろ一人で、藍の葉を買い付けに行ってみるか?」
といわれ、祖父とともに出かけました。
自分の力を試してみたかった栄一は、祖父に
「先に行くね。」
といい、一人で買い付けに行きました。
しかし、13歳の子供ですから相手にしてもらえません。
そんなとき、父と買い付けに来ていた時に身につけた、藍の葉の知識を披露しました。
「肥料の質が悪いからこの藍は良くないんだ。こっちは乾燥してないよ!見ただけでわかる・・・」
といい驚かせ、初めての商談で商才を発揮しました。
子供のころから商才があり賢かったんですね・・・
そんなころ、日本に4隻の黒船が来航したのです。
【大河ドラマ】青天を衝け渋沢栄一の生き方を決めた青年期の出来事
青年期に栄一の身に起こった今後の生き方を決定づけたであろうエピソードを紹介します。
ある日、領主から御用金として村に1,500両を命じられます。
渋沢の家にも、年貢のほかに500両負担するようにと命令を受けたのです。
栄一が17歳のころ、代官所からの呼び出しで父の代理として出向くことになりました。
そのとき、
「ちょうどいいな。御用金の詳細を聞こうではないか」
という話になりました。
村から行ったのは、当主の2人と代理の栄一でした。
他の二人はしぶしぶ了承しますが栄一は、
「わたしは代理なので、帰って父に相談し改めて返事をします。」
といったのです。
代官は激怒し
「若造のくせに、こういう時は従うものだ!お前くらいの年なら、もう遊蕩(ゆうとう 酒や女遊びなど)もするだろう。300や500両くらいは用意できるはずだ!とにかく、すぐに承知しろ!」
と叱りつけました。
とはいっても、江戸時代末期では一両は現在の3千円から1万円くらいです。
軽く見積もっても、500万という大金です。
その話を聞いた父は、
「泣く子と地頭にはかてぬなぁ。栄一。」
といい、翌日に500両をもって陣屋に行きました。
このとき栄一は
武士がなぜ威張る!
弱い者こそ救うべきではないのか。
こんな不平等変えてやる!
と覚悟を決めたようなのです。
この話は様々なシーンで栄一自身が語っており、
大河ドラマ『青天を衝(つ)け』でも名場面として描かれることでしょう。
【大河ドラマ】青天を衝け渋沢栄一幕府を倒し日本を救え!
身分関係なく力量があれば誰でも入れた「新選組」のことは、皆さんご存知でしょうか。
このころの若者たちは社会に不満を募らせ、悪政を正したいと燻っていたのです。
若い栄一も同じでした。
上記でも少し触れましたが、ペリー提督のアメリカ軍艦4隻がやってきて日本を脅かしていたころです。
「天皇を敬い、外敵を撃退しよう」
という、「尊王攘夷(そうのうじょうい)」の思想が渦巻いていました。
栄一も尊王攘夷の思想を、学問の師の惇忠から影響を受けています。
尾高長七郎や渋沢平九郎、渋沢喜作らと、
「腐った幕府を倒すんだ!」
と徹夜で熱く語り、栄一も意気盛んな青年志士へと成長して行き、 尊王攘夷を掲げて、徳川幕府打倒のため、江戸に度々滞在するようになります。
そして、海保漁村の私塾や北辰一刀流の開祖千葉周作の道場「玄武館」に出入りし、仲間をつくり情報を共有するようになったのです。
この玄武館には、幕末の有名人坂本龍馬も出入りしていました。
でも時期が少しずれており、2人が交わることはなかったようですが…。
【大河ドラマ】青天を衝け渋沢栄一は過激な面もあった「焼き討ち計画 」
18歳の栄一は、惇忠の妹でいとこの尾高千代と結婚し、23歳のときに長女が誕生します。
1863年11月12日に総勢69人で高崎城(群馬県高崎市)を乗っ取り、外国人がウヨウヨいる横浜外国人居留地を焼き討ちするという無謀な計画を立てたのです。
妻帯者にも関わらず、倒幕思想が過激になるのです。
でも、10月下旬にいとこの尾高長七郎が、尊王攘夷派が多く集まる京から帰ってきて、
「この計画は既にばれており成功することはない」
と撤退を説得。 激論の末
「尊王攘夷が叶っても、命を落としては何もならない。」
と諦めました。
こんな計画を立てただけでも、命が危ない時代です。
お伊勢参りを装い、故郷を離れることにします。
幕末から昭和初期にかけての激動の時代を、数々の挫折を繰り返しながらも志高く生きた大河ドラマ『青天を衝け』の主人公:渋沢栄一(しぶさわえいいち)。
約500社の企業創立、600の公共事業に関わり、”日本近代資本主義の父”と呼ばれた男は、いかにして出来上がったのか…
90年の生涯を紐解いていきます。
是非最後までご覧ください。
【大河ドラマ】青天を衝け5分でわかる渋沢栄一(しぶさわえいいち)血洗島時代
富農の家に生まれ早くから商才を発揮
1840年、武蔵国榛沢郡血洗島村(現埼玉県深谷市)の富農、市郎右衛門、栄の長男として生まれました。
幼少期は市三郎、栄二郎、栄一郎、後に篤太夫、篤太郎などの名や通称があったそうです。
血洗島という地名には、”赤城山の山霊が他の山霊と戦って腕をもがれ、その傷口をこの地で洗った”という言い伝えもあったそうです。
村は岡部藩の領地で、渋沢一族はこの地の開拓者のひとつとされるが、分家として数々の家を起こし、栄一が生まれた頃は渋沢姓が十数件あり、『中の家』・『東の家』・『西の家』などと家の位置関係で区別していました。
『中の家(なかんち)』は、代々農業を営んでいたが「名字帯刀」(みょうじたいとう)を許され、市郎右衛門のときには、畑作、養蚕や藍玉づくりなどとその販売のほか、雑貨屋・質屋業も兼ねてたいへん裕福でありました。
この家に、後に”日本近代資本主義の父”と呼ばれる栄一が生まれます。
名字帯刀(みょうじたいとう)とは?
江戸時代は武士の特権であったが、特に家柄や功労によって庶民に対しても名字を称え、帯刀(大小2本の刀を差す事)すること許された。
父・市郎右衛門は、親戚の『東の家』から男子のいなった『中の家』に婿入りした。学問に長け、持ち前の勤勉律義さで、養蚕や藍玉づくりとその販売により財を成し、一時期家運が傾いていた『中の家』を再興した。
母・栄も慈悲深い逸話が多く残され、困っている人を見過ごすことができない愛情にあふれた人柄で知られいます。
栄一は父から『論語』などを学び始め、7歳になると10歳年上の従兄弟で、秀才と名高い尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)のもとで学び始めます。
一緒に学ぶなかには、惇忠の弟で4歳年上の尾高長七郎、”新座敷”の従兄弟で2歳年上の渋沢喜作がいました。
4人は、その後の人生で同志的存在となっていきます。
14歳になると栄一は本格的に家業を手伝い、早くも商才の片りんを示し始めます。
栄一が17歳の、1856年、岡部藩から富農に御用金が課せられ『中の家(なかんち)』は500両の割当でした。
あくまで参考となる例として、日本銀行金融研究所貨幣博物館の資料では
「当時と今の米の値段を比較すると、1両=約4万円、大工の手間賃では1両=30~40万円、お蕎麦(そば)の代金では1両=12~13万円」という試算を紹介しています。
500両となると......恐ろしい金額です(-_-;)
大河ドラマで栄一が怒るのも分かりますね。
お金を用意したのにあの態度は...ムカつきます!!
父の代理で代官所に出向いた栄一は、役人からの難癖をつけられ、ひどく侮辱されました。
結局『中の家(なかんち)』は御用金を払うが、栄一の心に、武士というだけで社会の上位を占め、農民というだけで侮辱される封建社会(領主対農民の関係)に対する強い反感が生まれます。
大河ドラマでもこのシーンはありましたね。
この出来事をきっかけに、渋沢栄一の経済やお金に関する考え方が生まれたのですね。
1853年の黒船来航以来、世情は騒然としていたが、尊王と攘夷の重要性を説く水戸学に熱中していた惇忠の影響もあり、栄一にも尊王攘夷の念が生じていました。
横浜居留地襲撃を計画するも挫折
1862年、栄一らは攘夷鎖港の勅命が出ても何もしない幕府に憤慨し、横浜の外国人居留地焼き討ちを計画する。
父・市郎右衛門は
「道理を踏み、誠意を貫いて、仁人義士(思いやりがあり人の道を守る人)となるなら、たとえお前が死んでも私は満足」
と言います。
しかし決起は挫折。
京都を見聞した長七郎に犬死するだけと反対されたからです。
栄一は後に
「自分たちの決心はとんでもなく無謀だった」
と回想しています。
栄一は取り締まりの目を逃れて京都に向かいます。
江戸に行き来していたころに、一橋家の家臣、平岡円四郎にスカウトされており、そのツテで一橋家の家来の身分をもらい上手く京へ逃げて命拾いをしたのです。
一橋家といえば将軍家に後継ぎがいなければ後継者を出す、「徳川御三卿」のひとつですよね!
この前まで、「将軍家をぶっ潰せー!」と息巻いていたのに…。
背に腹は代えられないということでしょうか。
【大河ドラマ】青天を衝け渋沢栄一一橋家に仕え才能が開花
京都でしばらく身を潜めていた栄一は、平岡によって本当に一橋家に雇われたのです。
最初の仕事は、徳川慶喜(よしのぶ)が朝廷より「禁裏御守衛総督」を賜ったことから、京都御所を守る大勢の家来が必要となり人集めの係となったのです。
農民の気持ちが分かる栄一がその役に就いたことが一橋家領内に広まり、領民も安心したのか500人もの人が集まりました。
農兵募集の際に、関東一円など領内を歩いて回ったときに、木綿や米、硝石など豊かな産物があると認識していたのです。
そして、彼らに安定した収入をと、藩札を流通させ便宜を図り、更に藩財を潤わせたのでした。
流通に強いとの烙印を押された栄一は、「勘定組頭」や「御使番格」と着実に出世をし、後に将軍になる慶喜と直接話ができる存在になったのです。
1866年に慶喜が15代将軍(最後の将軍)となり、栄一自身も幕臣になります。
しかし、慶喜の御側にいることもできずに次第に立場も悪くなるのです。
栄一が京都に陸軍奉行配下として赴任したとき、西郷隆盛と意気投合し何度も会っていました。
そのとき、西郷さんから
「慶喜公に決断力を持って、先を見通した政をしてほしいでごわす。」
と、再三要請されていたとか。
大河ドラマ『青天を衝け』をご覧になりたい方はこちら↓
【大河ドラマ】青天を衝け渋沢栄一と新選組との関わりとは?
京都は治安が悪く、1864年6月には一橋家に仕える要因となった平岡円四郎も暗殺されています。
そのような状況下の1866年に、不穏な動きをしていた京都見廻り組の大沢源次郎の捕縛役を仰せつかります。
栄一は、新選組に助っ人を頼むため組長の近藤勇と直接話をしています。
「新選組とは?」
新選組はれっきとした幕府の組織で、尊王攘夷派浪士鎮圧や市中取締にあたった、現在の警察のような存在です。
捕縛と警護の打ち合わせで感じた、近藤勇の印象を後に語っています。
「世間では非常に無鉄砲な向こう見ずの猪武者のように見られているが、実際に会ってみると、穏やかで物事の分かる人物だった。」
この評価は、近藤勇と関わった人も認めており、常識人だったことが垣間見られます。
ちなみに近藤勇も栄一と同じく武蔵野国の出身です。
彼は、現在の東京都調布市の百姓に生まれ、実際に大沢源次郎の捕縛と栄一の警護は、栄一より5歳年上の副長土方歳三が4人の隊士を連れて行ったようです。
隊長はもちろん副長も、当時は既に現場で仕事をすることはなく、特別の計らいでした。
ここで、捕え方について、栄一と土方の間で意見の食い違いが起きたのです。
捕縛だけでなく栄一の警護も兼ねていたため、土方が
「栄一に危険が及ばないよう、捕えてから申し渡しをしたい。」
というのです。
でも、武士の作法通りに、縄を打つ前に申し渡しをしたい栄一も譲りませんでした。
最終的には、
「武士成るもの作法も大事」
と土方が折れたようです。
でも、泣く子も黙る刺客集団の「新選組」相手に、自分の意見を堂々と発し貫いた栄一の肝っ玉も凄いと思いませんか?
もしもの話ですが、以前にお話しした「横浜の焼き討ち」を成功させ生き残っていたら、新選組の誰かに斬られていたかもしれません。
西郷どんに新選組と、幕末の重要人物と幕臣の立場で結構関わっていたのですね!
幕府や新選組と運命を共にしたといいたいところですが、栄一には幸運が訪れます。
戦死したり斬首されたり不運の最期を迎えることになる「新選組」とは全く違う、幕府の終わりのときを過ごすのです。
【大河ドラマ】青天を衝け渋沢栄一パリへの使節団にそこで知った幕府の終わり
1866年にフランス皇帝ナポレオン3世より幕府へ、1867年のパリ万博への出品要請と召喚があったのです。
その時の使節団の一員に、栄一も選ばれました。
1年10か月の欧州旅で見るものすべて、栄一には感動を与えるものでした。
カルチャーショックという言葉のほうが正しいでしょうか。
帰国後は先進諸国で学んだことを武器に、新政府でもかつやくすることになります。
【大河ドラマ】青天を衝けパリが渋沢栄一に影響を与えたものとは?
栄一の強みは経済です。
一橋家での影響が弱くなっていた栄一ですが、1867年に開催されるパリ万博の使節団20人の中に御勘定格陸軍附調役(会計係兼書記)として抜擢されます。
たったの四年前までは
「外国人を追っ払うぞー」
と息巻いていた栄一ですが一橋家で仕事をした影響でしょうか。
徳川慶喜の名大で14歳の徳川昭武の随行員として、27歳で横浜港からフランスの郵便船アルフェー号に乗りパリへ出発したのです。
横浜から出発して、幕臣の立場から欧米列国の強大な力を目の当たりにしました。
頭の切り替えが早かった渋沢栄一はすでに
「先進国の豊かさを吸収して、経済を世の中のために役立てたい」
と決意したのです。
船上での経験から帰国まで克明な記録を残し、帰国後に共著として出版された『航西日記(こうせいにっき)』に記されています。
朝7時に食べる朝食のバターを塗ったパンに心奪われたことや、砂糖とミルク入りのコヒーもお気に入りで、
「胸がすこぶるさわやかになる味」
と面白い感想も言っていたようです。
使節団が欧州に訪れた目的は、パリ万博に出席することはもちろん、その後で巡るスイス・オランダ・ベルギー・イタリア・イギリス諸島で、江戸幕府のすばらしさをアピールすることでした。
【大河ドラマ】青天を衝け渋沢栄一銀行や株式取引所を見学経済先進国パリ
欧州滞在中に最も栄一が影響を受けたのが、パリの経済の先進国ぶりでした。
フランスでは、銀行や株式取引所を見学し、先進国の経済や株式会社の設立の仕組みについて、実際に現場を見ながら詳細に学びました。
この見聞が、帰国後の「経済人渋沢栄一」を生んだのです。
金持ちだけが会社を起業するのではなく、お金がなくても出資をしてもらい儲かれば出資者に儲けを分ける、合同組織(株式会社)についても学びます。
先進国では、一般人でもお金を出せば、出資者となり、お金持ちになるチャンスがあり、しかも、出資者はお金を出しているのだから、庶民でも会社が儲けを出すために会社経営に意見するのは当然というのです。
一部の人が潤えばいいというのではなく、いろいろな事業が盛んになれば国も豊かに・・・
そして、みんなが豊かになり幸せに暮らせるということ。
身分制度のある日本の考え方は、間違っているとしか思えませんでした。
日本をフランスのような、自由で強い国にしたい!
世話役のフランス人銀行家フリューリ・エラール(後に在仏日本名誉総領事となる)の進言により、幕府からの滞在費用を節約してつくった2万両を、フランス公債や鉄道債に変え帰国後に増やす偉業をやってのけたのです。
これには新政府の連中も、唖然としたとか・・・
【大河ドラマ】青天を衝け渋沢栄一が先進国学んだ最も重要な事とは?
欧州で栄一が学んだことはまだありました。
その中でも重要なものがもう一つ。
豪農だった青年期に、奉行から叱咤された屈辱を思い出したのです。
そういった身分格差は、フランスにはありません。
徳川昭武の教育係のレオナルド・ヴィレット中佐とフリューリー・エラールの間には、格差はなく対等に話をし、毎晩開かれる夜会でも、身分の分け隔てもなく誰もが自由に会話を楽しんでいるのです。
日本では、「武士」と「商人」が平等に扱われることは考えられません。
そんな時代を生きてきた栄一は、日本との違いに毎日驚きの連続でした。
更に、ベルギーでは
「我が国の鉄は良質なので、ぜひ買ってほしい」
と、レオナルド2世国王自ら売り込んできたのです。
これにビックリすると同時に。職業や身分が違っても、人として平等であるべきと強く感じたのでした。
この旅の中で、病院や福祉施設、動物園や水族館、オペラ鑑賞など、多くを見聞しています。
当時のフランスはとてつもない国だったのですね
更に、欧州諸国の実情に触れ、インフラの充実ぶりには目を見張るものがありました。
日本では考えられないスピードで走る機関車に乗ったときや、向こうが透けて見えるガラス、政治や文化や流行ものなど新聞を読めば今のすべてがわかる情報伝達力にも驚きを大きく感じたようです。
栄一には日本で自分がすべきことが、少しずつ見え始めていました。
1867年10月15日に「大政奉還」が行われ、慶喜が明治天皇へ政権を返上したことを栄一が知ったのは、フランスの新聞に掲載されたことから。
仲間うちでは誤報だろうとの声もあったのですが、栄一は日本の情勢を察しており、事実だと確信していたのです。
1868年には新政府から帰国命令が出て、昭武の留学は中断され帰国することになります。
【大河ドラマ】青天を衝け5分でわかる渋沢栄一(しぶさわえいいち)一橋家仕官時代
実業家への基礎を学んだ一橋家仕官時代
1863年、決起に挫折した栄一は京都に向かうが、徳川御三卿のひとつ、一橋家用人・平岡円四郎の家来という通行手形を所持していました。
平岡は一橋慶喜の側近で、”一橋に平岡あり”と評さるほどの人物だったが、当時は将軍後見職の慶喜に従って京都にいました。
平岡は以前より、栄一が幕府に批判的なことを知りながら交流してくれていたが、そのつてを頼ったのです。
京都滞在中、栄一が書いた幕府批判の手紙が取締方の手に渡ってしまう事件がおきます。
栄一に捜査の手が伸びることを案じた平岡は、節を曲げてでも一橋家に仕官しないかと勧めてきました。
倒幕の考えを捨てていない栄一だったが、悩んだ末に仕官を決めます。
1864年、栄一は慶喜の家臣となり、一橋家の財政改革などで功績を上げ、2年もしないうちに勘定組頭(かんじょうくみがしら)に昇進しました。
勘定組頭(かんじょうくみがしら)とは?
江戸幕府の役職の1つ。 勘定所に属して勘定奉行の支配を受けて勘定所所属の諸役人を指揮・監督を行い、幕府財政及び農政を担当した。
この間には、西郷隆盛を訪ねて人物の大きさに感銘を受け、新選組の土方歳三と行動を共にすることもあった。
その一方で、平岡円四郎が暗殺される悲劇もありました。
財務改革の実践と近代的な欧州の見聞
1866年、慶喜が将軍となります。
栄一は心ならずも幕臣に転じたことに落胆したが、そんな折、パリ万博に派遣される幕府使節団への随行が決まります。
1867年、使節団はパリに到着。
万博視察後はスイス、ベルギー、イギリスなどを歴訪しました。
しかしこの間に幕府は崩壊、使節団は1868年秋に帰国。
随行中、栄一の見聞はあらゆる産業におよんだが、特にパリで銀行、株式取引所、株式会社に仕組みを学んだことは、後に「合本主義」を実践する栄一に大きな影響を与えました。
そしてフランスの銀行家(商人)と軍人(武士)との関係にも衝撃を受けました。
「二人は全く対等で、官尊民卑(かんそんみんぴ)の日本人から見て驚くばかりに親密で、感銘と教訓を得た。
私は実業を振興し官尊民卑の旧習を打破しようと考えました。」
帰国した栄一は静岡藩の慶喜を訪れ、藩の殖産振興のため、「商法会所」を設立しました。
栄一が慶喜に仕えたのは5年ほどだが、
「私が今日あるのは一に一橋家仕官時代に始まった」
と回想しています。
官尊民卑(かんそんみんぴ)とは?
官僚・政府を尊び、民間の企業・商人を卑下すること
さまざまな国を見て、やっぱり”日本の社会はおかしい!!”と思ったのです。
今の時代も政治家偉そうですけどね...
【大河ドラマ】青天を衝け帰国後渋沢栄一を待ち受けていたものとは?
渋沢栄一がパリにいる間に、大政奉還をした徳川慶喜は、江戸城を出て静岡のお寺で謹慎生活をしていました。
明治天皇を中心とした新政府が誕生し、江戸は名前を東京と変えました。
江戸城には、京都から移り住んだ明治天皇が住みました。
260年も続いた江戸幕府が終わり、何もかもが変わっていました。
栄一もフランス滞在中に、まげを切ってシルクハットをかぶり、背広に幅広ズボンとハイカラと言える風貌になっていました。
幕臣としてフランスに渡った栄一がまず行ったこととは、慶喜への帰国報告でした。
その後妻に、敬愛する慶喜の元へ駆けつけ引っ越しをすることを伝えました。
歴史では江戸幕府を終わらせてしまった、戦いに負けた将軍との印象もあると思いますが、栄一にとっては人生の恩人の慶喜と言える存在でした。
【大河ドラマ】青天を衝けその後渋沢栄一新時代新日本での活躍とは?
静岡に越した栄一は、職を失った武士たちを何とかしてやられねばと、1869年に藩士の受け皿となる商業組織の「商法会所(後の常平倉:じょうへいそう)」を静岡藩に設立します。
これは、フランスで学んだ「合方法」を実践したものでした。
世の人のためになることを発信し、同意する不特定多数の人からお金や人を集めて、組織をつくるというもの。
これが、株式会社となったのです。
この商法会所こそが、栄一のいう「合法組織(株式会社)の嚆矢(こうし)」。
設立に係った500を超える株式会社の第一号だったのです。
そして栄一は商法会所の総監督的な立場で、ここで働く人々のために指揮を執りました。
もちろん、利益も出しており大成功だったんですよ!
商法会所の利益で会社を増やし、お金を出してくれた人に儲けを分け、さらに東京や大阪をはじめ全国に進出します。
静岡での経済人としての手腕と、パリ万博使節団で会計係として発揮した高い能力は、新政府の中で話題になったのです。
同年に、新政府からスカウトが来ました。
でも、
「自分にはお役人仕事は向かない。辞退しよう。」
と決めていたのです。
新政府側の大隈重信(おおくましげのぶ)は、
「新しい国づくりを共にしないか!」
と、昼夜問わずに説得し、栄一を今でいう大臣として働かせることに成功します。
指揮を執るだけでなく、どんな仕事でも自分が動き、上下関係を取っ払い部ksたちの意見を聞きながら仕事を進めたのです。
民部省や大蔵省などで活躍し、政府で働いたのはたったの4年でした。
度量衡(どりょうこう)や「円・銭・厘」への貨幣の統一をはじめ、郵便制度の構築や国立銀行制度を立ち上げました。
戸籍法の制度、税金制度に改正、太陽暦への暦の変更など、数えきれないほどの成果を挙げています。
栄一は持ち前の頭の良さを生かして、日本近代社会の基盤を築いたのです。
鉄道の敷設や税金制度の改正も行いました。
忘れてはならないのが、世界遺産に登録されている「富岡製糸場」。
生糸生産の模範工場として、栄一が開設に一役買っているんです。
豪農出身で養蚕経験もあり、はまり役だったのかもしれませんね!
初代工場長は、栄一の師であり、いとこでもある妻の兄の「尾高惇忠」です。
【大河ドラマ】青天を衝け渋沢栄一新政府からの独立事業家としての活躍と飛躍
財政方針の考え方の違いなどから、新政府を離脱した栄一は、実業家たちのリーダーとなっていきます。
その後は、福祉や学校作りに尽力し、国際親善にまで力を注ぎました。
現代でも栄一は
「近代日本資本主義の父」
と呼ばれています。
経済を優先したい栄一たちは、軍備の拡張を第一に考える大久保利通(おおくぼとしみち)や大隈重信(おおくましげのぶ)たちと、財政方針を巡り対立することになります。
栄一は使うお金と入るお金のバランスが一番大切だと理解していました。
でも、4年間の
「新しい日本作り」
に参加したことは、実業家として活躍するうえでもかけがえのない経験となっています。
1872年国立銀行条例が制定されたことにより、翌年の33歳の時に上司だった井上馨らと政府から独立します。
いよいよ民間での活躍が始りました。
【大河ドラマ】青天を衝け5分でわかる渋沢栄一(しぶさわえいいち)新政府時代
大蔵省で日本の近代化政策を立案
1869年、静岡の栄一に新政府から呼び出しがあり、上京すると大蔵省への出仕を求められました。
静岡での生活が軌道に乗りつつあった栄一は、大蔵大輔(おおくらたいふ)の大隈重信(おおくましげのぶ)(旧佐賀藩士)に面会し、辞退しようとします。
しかし、論客大隈から
「新しい日本をつくる八百万の神の一柱となってほしい」
と説得されじいを撤回、官吏となりました。
大蔵省ではほかに大蔵卿(大臣)に幕末四賢侯のひとり伊達宗城(だてむねなり)(旧宇和島藩士)、少輔に伊藤博文(いとうひろふみ)(旧長州藩士)、権大丞(ごんのたいじょう)に井上馨(いのうえかおる)(旧長州藩士)など、そうそうたる人物が要職を占めていました。
栄一は江戸時代の旧制度に代わる新しい制度作りのため、諸事案を企画提言する新部局「改正掛」を設置し、掛長となって静岡藩の杉浦譲(すぎうらゆずる)、越後国出身の前島密(まえじまひそか)など気鋭の人々を集めました。
杉浦譲(すぎうらじょう)は万博使節団に随行したメンバーの一人でした。
改正掛は度量衡の統一、物納から金納への祖税制度改正、太陰暦から太陽暦への転換、貨幣制度、郵便制度など次々に提案する。
そのひとつには製糸場建設もありました。
幕末以来、生糸は日本の最大の輸出品だったが、品質悪化が問題となり官営製糸場が計画されたのでした。
栄一は製糸場設置主任となり、1872年、富岡製糸場が完成します。
初代場長には栄一の緑で官吏となっていた尾高惇忠が就きました。
1871年、大久保利通(おおくぼとしみち)が大蔵卿、井上馨(いのうえかる)が大蔵大輔となり、栄一は大蔵権太丞になった。
新政府の財政基盤はまだ弱く、税収総額さえ把握できないなか、陸海軍を始め各省はそれぞれ勝手に予算を要求していました。
井上と栄一は収支のバランスを精査すべきと主張したが、大久保は二人の意見に耳を傾けず激しく対立します。
同年、大久保が岩倉使節団の一員として日本を離れると、栄一は井上に協力して、歳入総額を調査するとともに、節約に努めて得た余剰金をもとに、1872年、国立銀行条例を公布した。
岩倉使節団
《不平等条約改正の交渉》
日米修好通商条約に規定されている不平等の是正(治外法権の廃止、関税自主権の回復など)に向けた事前の外交交渉が主な目的です。
岩倉具視(いわくらともみ)を全権大使とする遣欧米使節団が横浜港からアメリカに向けて出発した。
しかし、各省からの経費増額要求は止むことがなく、政権幹部の支持も得られなかった井上は、1873年、辞職してしまいます。
実質ナンバー2だった栄一も井上と行動をともにし、大蔵省を去りました。
【大河ドラマ】青天を衝け渋沢栄一流道徳と経済の両立
最初は1873年に開業した
「第一国立銀行」(現:みずほ銀行)
です。
当初は、1軒の豪商が参加予定でしたが、栄一はそれではいけないと、大蔵省時代に作ったマニュアルの通りに、豪商と一般人の資産を合わせる合本組織にすべきと主張しました。
主張が通り、公益性が高く質の良い銀行となりました。
同年には、フランスで紙幣や新聞を目にしていたことから紙が大量に必要になると思い大蔵省時代に設立を出願していた、合本組織による紙幣をつくる紙の会社設立し、運営に関わります。
まさにお札になるべくしてなる男だったんですね。
ちなみにこの会社は現在王子ホールディングスと日本製紙になっています。
彼の実業家としての人生は、邪魔されたり足を引っ張られたり山あり谷ありでしたが、色んなことを乗り越えて自分の信じる道を進んだのです。
合本主義で国を豊かにしたい!
と考える栄一は、この国立銀行を軸として製紙会社やいすゞ自動車やサッポロビールなど、現在でも活躍している株式会社を次々に立ち上げたのです。
1887年に外国から来賓をもてなすためのホテルが必要と、大倉喜八郎らと国にホテル設立の願いを出し、1890年の東京初めてのホテルが建てられました。
これが、チャップリンやマリリンモンローも宿泊した
「帝国ホテル」
です。
また彼には
「道徳なくして、経済はなし」
という「道徳経済合一」の考え方をもとに私利私欲ではなく、公益を追求したうえで利益を求めるといった会社をつくり続けました。
1875年に、森 有礼(もり ありのり)が産業界の人材育成のため商法講習所(現:一橋大学)を設立します。
森が転任した1878年に栄一が組織作りと財政の両面で支援したのです。
栄一の尽力がなければ、大学へ昇格することは難しかったといわれています。
また、1886年には伊藤博文の女子教育奨励会創立委員会の参加をきっかけに、寄付活動や講演で女子教育にもかかわりました。
2年後の1888年には、東京女子学館を開校しました。
1901年に設立された、国際性・知性・気品をスローガンとした日本女子大学へは多額の寄付をし、70回に及ぶ講演も行っています。
女性の社会進出にも貢献する姿は、フランスで得た視野の広さが伺えます。
1878年は大活躍の年で商法講習所のほかに、東京商工会議所や東京株式取引所(現:東京証券取引所)の設立にもかかわりました。
日本は島国なので、自ずと海運や貿易が盛んになります。
そんなとき、リスクを軽減するための保険会社を、1879年に誕生させるのです。
これが、華族や財界人など200人以上のそうそうたるメンバーが名を連ねた
「東京海上保険会社」
です。
保険会社の設立を機に、栄一の
「日本に合本組織を普及させる」
との考えに基づいた、本格的な株式会社がつくられるようになるのです。
その後は現在のJR東日本、東京鉄鋼、大成建設など現在では名だたる企業の設立に関わりました。
【大河ドラマ】青天を衝け渋沢栄一ライバルで宿敵岩崎弥太郎との出会い
今でもライバル視される、三菱財閥を築いた岩崎弥太郎と出会います。
弥太郎は
「会社は一家。社長独裁の元で、みんな一丸となって頑張ろう」
という考えに対して栄一は
「グループを組み、みんなで苦楽を分かち合う仕事がしたい」
という考えでした。
向島の料亭で酒宴を交わした席で、弥太郎が
「船頭多くして、船山に上がる」
といい栄一に
「手を組んで日本の実業界を支配しよう。俺らが組めば、日本一いや世界一の大金持ちになれるぞ」
と話を持ち掛けます。
しかし、栄一は、
「庶民が豊かになることが、国を強くすること。そのために、力を尽くしたいのです。あなたとは、仕事の考え方が違う。」
とはっきり断ったのです。
その後ビジネス面でも対立は激化していきます。
特に海運覇権もめぐる戦いは、値引き合戦に発展し共倒れ寸前までなるほど激化しました。
この戦いは1885年2月7日に弥太郎が胃がんでこの世を去るまで続きました。
弥太郎の死後は、両社が合併して日本郵船株式会社となっています。
【大河ドラマ】青天を衝け渋沢栄一はすでに過去に紙幣の顔になっていた?
栄一は、1902~1904年にかけて、韓国紙幣の肖像になっています。
なんで韓国なのでしょうか。
大韓帝国には、日本の第一銀行に在韓支店があったためです。
当時はまだ中央銀行がなかったことで、伊藤博文より中央銀行に発券機能を持たせた銀行の設立に力を貸してほしいと頼まれます。
栄一も2つ返事で引き受けました。
1878年6月に設立された第一銀行釜山支店など、在韓支店で発行される第一銀行券の、1円、5円、10円の肖像に当時第一銀行の頭取だった栄一の顔が描かれることになったのです。
この第一銀行券が韓国の公用紙幣としての権利を得ることで、事実上の中央銀行となりました。
栄一が2024年からの紙幣の顔に選ばれたことで韓国の新聞などで批判がされていますが、上記で話した通り韓国紙幣の顔になったことで、
「韓国経済侵略の張本人だ」
と感情的にとらえられているからです。
ちなみに第一銀行在韓支店は、現在の朝鮮銀行です。
【大河ドラマ】青天を衝け5分でわかる渋沢栄一(しぶさわえいいち)実業家時代
「官尊民卑」「合本主義」を掲げ500社あまりの企業に関わり日本近代化に!!
大蔵省を辞した栄一は、まず銀行を設立します。
井上馨(いのうえかおる)とともに国立銀行条例を作った栄一に、独自に銀行設立を計画していた豪商・三井組が協力を求めてきます。
栄一は設立すべき銀行はあくまで民間企業で、1社資本の独占ではなく、複数資本による合本主義を主張しました。
そして1873年、三井組と小野組を中心に数十人の株主を募り、日本初の銀行
「第一国立銀行」(”国立”と冠しているが株式による民間銀行)
を創立しました。
頭取は三井・小野からひとりずつで、栄一は二人の頭取を調整する総監役となった。
銀行そのものがまだ世間に知られておらず紆余曲折もあったが、栄一は第一国立銀行を皮切りに数多くの会社設立、運営に関わっていきます。
栄一が実業を行うにあたっては
「官尊民卑の打破」
と
「合本方式による経営(合本主義)」
という明確な考えがあった。
「官尊民卑の打破」
は、血洗島時代に身分の違いによって代官所で受けた屈辱と、パリで官と民が同じ立場で接するのを見た感動によって、栄一の生涯の目標となりました。
そして合本主義による社会が発展すれば日本は近代化し、商工業者の地位も上がって、官と民の差が縮まるという考えでした。
栄一自身、合本主義について明確な説明をしていないが、
「交易を追求するという使命・目的のために人材と資本を集めた合本組織で事業を推進する考え方」
とされます。
今では当たり前の株式会社方式だが、明治初期においては個人経営の方が優れているという考えの実業家も多かったのです。
そして栄一の考える合本主義は、公益性や参加者の合意に力点が置かれ、株による会社の独占や、同業者を蹴落としての利益独占には反対しました。
栄一は、企業の利潤追求は肯定したが、根底には(『論語』に基づく)道徳が必要だという
「道徳経済合一」
も唱えています。
「日本資本主義の父」
と言われる栄一だが、自身は資本主義という言葉をほとんど使わず、財閥も作りませんでした。
”渋沢”の名前を冠する会社さえも、一部の例外を除けば存在しなかったのです。
明治を代表する実業家で栄一と対照的なのが、ライバル関係でもあった三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎(いわさきやたろう)です。
ある時、岩崎が渋沢を屋台船に誘い、
「合本主義は船頭多くして船山に上るようなもの。
それよりも二人で手を組めば利益は思うまま」
と提案したが、渋沢は、
「独占は健全な経済の発展につながらず、合本主義を貫くつもりである」
と答えたといいます。
銀行、製紙、製糸、ガス、電気、印刷、造船、海運、新聞、繊維、麦酒、ホテル、保険、製薬、通信など、生涯に約500もの会社や証券取引所、経済団体などの設立・運営・支援に関わった栄一は、数えで古希(70歳)となった1909年、第一銀行(国立第一銀行の後身)など一部を除いて役職を辞し、喜寿(77歳)を迎えた1916年、経済界から引退しました。
明治・対象を経て、栄一の唱えた「官尊民卑の打破」や「合本主義」による日本の経済の発展は進んだが、果たして道徳経済はどうなのでしょうか?
帝国ホテルで開かれた引退披露会のあいさつで、栄一は
「今日の実業界は物質は大いに進んだが、精神が同じく随伴したかと申すと疑問がなきを得ざると感じる」
と指摘しました。
【大河ドラマ】青天を衝け5分でわかる渋沢栄一(しぶさわえいいち)社会・公共事業時代
養育院、教育、文化、民間外交...約600の会社・公共事業に携わる
実業界引退以降、栄一は「養育院」の設立、女子教育の支援、文化、民間外交など、約600もの会社・公共事業に傾注しました。
教育院は困窮者、孤児、老人など保護施設で、幕府の貧民救済資金をもとに設立され、栄一は1890年に養育院が市営となってから晩年まで院長を務めました。
栄一は、教育院の財源を確保するために、鹿鳴館でのバザー開催なども行っていました。
慈悲深かった母・栄の影響もあったのかもしれないですね。
教育にも強い関心を持ち、特に「女子教育」と「商業教育」に力を入れていて、女子教育では東京女学館、日本女子大学校(日本女子大の前身)などの設立に関わり、女子教育の必要性を説きました。
江戸時代以前の女性は、家庭での妻や母としての役割が求められ、学問は不要と考えられていました。
明治時代になると、男尊女卑の影響はまだまだ強く残っていましたが、文明開化によって徐々に女子に対する教育が広まっていきます。
現在のような男女平等が実現したのは、明治期に男女平等に向けて努力した女性たちの存在があるからです。
商業教育では、現場で事業を動かすことのできる人材を増やしたいと考え、簿記など実学を学べる商業高校の設立に注力します。
大恩ある徳川慶喜が、幕府崩壊時代に”命を惜しんだ”などの悪評があることに心を痛め、大恩ある徳川慶喜が、幕府崩壊時代に”命を惜しんだ”などの悪評があることに心を痛め、徳川慶喜の伝記も編纂(へんさん)しました。
また、民間外交の功績によってノーベル平和賞候補にも推進された栄一は、1931年11月永眠。
死の直前まで養育院の運営を気にしていたといいます。
激動の時代を歩んできた渋沢栄一。
100年以上たった今も現代の人たちに影響を与え続けるその多大なる日本経済への功績の数々
まさに現代の日本の礎を作った人物ですね。
2024年からの一万円札が楽しみですね!
2021年【大河ドラマ】渋沢栄一の生涯がわかる[まとめ完全版]まとめ
いかかだったでしょうか?
2021年は大河ドラマの主人公として渋沢栄一が描かれています。
新一万円の顔にも選ばれることになりますます注目の存在になっていくのではないでしょうか。
彼がいたから今の経済大国日本があるのかもしれませんね。
2021年【大河ドラマ】渋沢栄一観光スポット
渋沢栄一記念館
〒366-0002 埼玉県深谷市下手計1204
048-587-1100
旧渋沢邸「中の家(なかんち)」
〒366-0006 埼玉県深谷市血洗島247−1
048-587-1100
諏訪神社(血洗島)
〒366-0006 埼玉県深谷市血洗島117
048-587-2299